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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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16/33

16.夏は止まらない-1

 夏は、何事もなかったかのように始まった。


 空は高く、雲は薄く、

 朝の光はもう、春のそれとは違っていた。


 窓を開けると、むっとした空気が部屋に流れ込んでくる。

 まだ本格的な暑さではない。

 それでも確かに、季節は前に進んでいた。


 ――止まらない。


 あれほど「春が終わるまで」と言葉を交わしたのに、

 その約束を置き去りにするように、

 世界は何事もなかったかのように、次の季節へ進んでしまった。


 僕は支度を整え、いつもの道を歩く。

 畑へ向かう道。


 砂利を踏む音。

 草の匂い。

 風に混じる、土の熱。


 全部、同じだった。


 違うのは、僕の中だけだった。


 歩くたび、靴底に伝わる地面の感触が変わっていくのが分かった。

 春の頃は、もう少し柔らかかった。

 湿り気を残した土が、踏みしめるたびに静かに沈んでいた。


 今は違う。

 乾いた音がする。

 表面だけが熱を持ち、内側の水分を閉じ込めたままの地面。


 それは、季節が進んだ証拠だった。


 畑へ向かうこの道を、何度歩いただろう。

 数えきれないほど往復してきたはずなのに、

 今日は一歩一歩がやけに重く感じられた。


 考えない、と決めていた。

 考えても、答えは出ない。

 答えのない問いを、何度も繰り返すほど、

 人は簡単に壊れることを、僕は知っている。


 だから今日は、

 ただ歩く。

 畑に行く。

 作業をする。

 それだけでいい。


 そうやって自分に言い聞かせながら、

 それでも無意識に、空を見上げてしまう。


 雲は薄く、流れが速い。

 あの雲の下で、誰かが止まっていたとしても、

 世界は構わず先へ進むのだろう。


 ――止まらない。


 その言葉が、また胸の奥に浮かんで、

 僕は小さく息を吐いた。


 ♢


「こんにちは、エル」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 反射的に、息が詰まる。


「……こんにちは、リィナ」


 振り返ると、彼女がいた。


 白い日傘を差し、

 薄手の服に身を包んでいる。


 春よりも、少しだけ細く見えた。

 それでも、表情は穏やかで、

 どこを切り取っても“いつも通り”だった。


「今日も暑いね」

「……そうだね」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 続けてはいけない気がした。


 彼女は畑の端まで歩いてきて、

 ベンチに腰を下ろす。


 いつもの場所。

 いつもの距離。


 ただ、

 座る動作が少しだけ、ゆっくりだった。


「無理しないで」

「うん。今日は、少しだけだから」


「少しだけ」


 その言葉は、以前にも何度か聞いた。

 けれど、春の「少しだけ」と、夏の「少しだけ」は違う。

 夏のそれは、時間の話じゃない。

 体力の話で、限界の話で、そして――終わりの話だ。


 僕は鍬を握り直して、畑の列に戻った。

 土は熱を含んでいる。触れるたび、指先から熱が移る。

 畑の匂いも、春より濃い。湿り気が抜けた分、香りが刺すように強い。


「この辺、もう少し間引いた方がいいかな」


 独り言みたいに呟くと、ベンチの方から小さく返事が返ってきた。


「……うん。好きにして」


 短い。

 いつもより短い。

 それでも彼女は、ちゃんと声を返してくれる。

 それが嬉しくて、同時に怖かった。


 風が吹いて、リィナの白い日傘の縁が揺れる。

 傘の影が、彼女の頬を斜めに切り取って、

 そこだけが、暑さから隔離されたみたいに見えた。


「日傘、重くない?」


「重くないよ。これがないと、目が疲れるから」


 淡々とした言い方。

 理由が“体調”に繋がっている気がして、僕はそれ以上聞けなかった。


 畑に目を戻す。

 芽の伸び具合を確かめ、枯れた葉を摘み、雑草を抜く。

 作業の手順自体は、いつも通りだ。

 でも、心はどこにも置けないまま宙ぶらりんだった。


 リィナは時々、僕の手元を見ている。

 何を思っているのか分からない。

 ただ、視線が柔らかい。


「……エル、汗、すごい」


「暑いからね」


「水、飲みなよ」


 彼女は水筒を少し持ち上げた。

 貸してくれるつもりなのかと思って、僕は首を振る。


「僕は大丈夫。リィナこそ」


「うん。私は……大丈夫」


 言い方が、ほんの少しだけ遅れた。

 “言葉を探す間”があった。

 その一拍が、胸の奥に小さな棘を残す。


 僕は作業を続けるふりをして、呼吸だけ整えた。

 踏み込むな。

 今日は踏み込まない。

 そう決めて、決めたはずなのに。


「ねえ、エル」


「なに?」


「……この畑、夏は好き?」


 唐突な質問だった。

 畑の話なのに、畑の話に聞こえない。


「好きだよ。……いつも通り、ここに来れるから」


 “いつも通り”という言葉を使ってしまって、

 僕は内心で舌を噛んだ。

 リィナは、少しだけ笑う。


「そっか。よかった」


 その「よかった」が、

 何かの確認みたいに聞こえて、

 僕は鍬の柄を握る手に力を入れた。


 暑さのせいにして、息を吐く。

 暑さのせいにして、目を逸らす。

 暑さのせいにして、今日を終わらせる。


 そうやって、僕はまた一日を繋いでしまう。

 それ以上、何も言わない。

 その言葉の意味を、

 僕は聞かなかった。


 聞けなかった。


 ♢


 作業を再開する。


 リィナは日傘をたたみ、

 ベンチに座ったまま、畑を眺めている。


「よく育ってるね」

「……うん」


 返事は短くなる。


 話題を広げてはいけない。

 踏み込んではいけない。


 お互いが、

 それを無言で理解していた。


 しばらく、言葉が途切れた。


 鍬が土に入る音。

 草を抜くときの、微かな抵抗。

 遠くで鳴く鳥の声。


 それらが、やけに大きく感じられる。


 リィナは、ほとんど動かなかった。

 ベンチに座ったまま、畑を眺めている。

 その視線が、作物ではなく、

 もっと遠くを見ているように思えて、胸がざわつく。


「……日陰、行かなくていいの?」


 声をかけると、

 彼女は一瞬きょとんとした顔をしてから、笑った。


「大丈夫。ここ、風が通るから」


 その言葉を、僕はそのまま受け取った。

 疑わなかった。

 疑わないことを、選んだ。


 彼女の白い指先が、膝の上で静かに組まれている。

 少し力が入っているようにも見えたけれど、

 それ以上は、見なかった。


 見なければ、気づかなければ、

 今はそれで、やっていける。


 そう思う自分が、

 ひどく卑怯だということも、

 分かっていたけれど。


 風が吹く。

 草が揺れる。


 夏の風は、春よりも重たい。


 肌にまとわりつくような感覚が、

 なぜか息苦しかった。


「エル」

「なに?」


 名前を呼ばれるたび、

 胸の奥が、少しだけざわつく。


「今年の夏、長くなりそうだね」

「……そうかな」


 それは、天気の話でしかないはずなのに。

 僕は、うまく答えられなかった。


 リィナはそれ以上、何も言わない。

 少しだけ目を細めて、空を見上げる。


 まるで、

 その先を見ているような目だった。


 ♢


 時間は、静かに流れていく。


 それでも、

 確実に流れていく。


 しばらくして、リィナが水筒に手を伸ばした。

 蓋を開け、一口。

 もう一口。


 以前より、飲む間隔が短い。

 それに気づいた瞬間、胸がひくりと跳ねた。


「……暑いからね」


 彼女は、僕が何も言っていないのに、そう言った。

 まるで、先回りするみたいに。


「うん……そうだね」


 それ以上、続けられなかった。

 続けたら、また踏み込んでしまう。


 彼女の額に浮かぶ汗は、少ない。

 むしろ、少なすぎるようにも見える。

 それが良いことなのか、悪いことなのか、

 僕には分からなかった。


 分からないままでいることを、

 選んでしまった。


 選び続けている。


 気づいてしまえば、

 もう戻れなくなると、

 どこかで分かっているから。


 ♢


 リィナは、長くは畑にいなかった。


「今日は、これくらいで帰るね」

「……もう?」


 言葉が、思ったよりも早く口をついた。


 リィナは、少しだけ困ったように笑う。


「うん。暑いし」


 それだけ。


 理由は、それだけ。


「送るよ」

「大丈夫。家、近いから」


 彼女は立ち上がる。

 立ち上がるまでに、ほんの一拍。

 それを、僕は見ないふりをした。

 見ないふりをすることは、

 思っていたより、ずっと難しかった。


 視線を逸らす。

 言葉を選ぶ。

 踏み込まない距離を保つ。


 そのすべてに、意識的な努力が必要だった。

 春の終わりに、僕は考えすぎて壊れかけた。

 だから今は、考えないことで均衡を保っている。


 救えないかもしれない。

 間違っているかもしれない。


 そんな考えが浮かぶたび、

 頭の中で、そっと蓋をする。


 今は、夏だ。

 夏は、考える季節じゃない。


 そうやって、自分を納得させながら、

 それでも胸の奥で、

 何かが静かに軋んでいるのを感じていた。


 ♢


 帰り道。

 二人並んで歩く。

 以前より、少しだけ距離がある。


 触れない距離。

 触れてはいけない距離。


「ね、エル」

「なに?」


 彼女は前を向いたまま、言った。


「夏ってさ、止まらないね」

「……そうだね」


「春みたいに、待ってくれない」


 ――待ってくれない


 その言葉を聞いた瞬間、

 喉の奥がひゅっと細くなった気がした。


 夏は、待ってくれない。

 暑さも、日差しも、夕立も。

 来る時は一気に来て、通り過ぎる時も一瞬だ。


 歩きながら、道端の草を踏まないように避ける。

 昔は気にもしなかったのに、

 今は、彼女がつまずかないかばかり見てしまう。


 一歩。

 また一歩。


 リィナの歩幅は、少しだけ小さい。

 春からずっと続いている“ほんの少し”が、

 夏になっても、消えない。


「……エル、そんなに見ないで」


 前を向いたまま、彼女が言った。


「見てないよ」


「見てる」


 言い切る声は、柔らかいのに、強かった。

 僕は苦笑いで誤魔化す。


「癖だよ」


「癖、ね」


 彼女はそれ以上言わなかった。

 ただ、歩く速度を少しだけ落とす。

 それが“合わせてくれている”のか、

 “合わせてもらわないといけなくなった”のか、

 僕には判断できなかった。


 風が頬を撫でる。

 昼間の熱がまだ残っているのに、

 風の芯だけは冷たくて、

 肌の上を薄く切っていくような感覚がした。


 夏の入口は、まだ優しい。

 優しいふりをして、

 そのまま一番残酷な季節へ連れていく。


「ね、エル」


「なに?」


「……さっきさ、畑の匂い、強かったね」


 話題を変えようとしているのが分かった。

 僕が何か言いかけるのを、

 先に塞ぐみたいに。


「土が乾いてきたからかな」


「そっか」


 その返事の後、

 彼女は少しだけ呼吸を整えるみたいに、息を吸って、

 それから、何事もなかったように歩き出した。


 ――また、見ないふりだ。


 僕も、彼女も。


 畑の外では、誰かの笑い声が聞こえた。

 子どもだろうか。

 夏の始まりに浮かれた声が、

 遠くで弾んで、すぐに消える。


 世界は軽い。

 僕たちの足元だけが、重い。


「じゃあ、また」


 別れ際、彼女はほんの少しだけ振り返った。

 口元に笑みはあるのに、

 瞳の奥が、どこか遠い。


「……暑くなったら、無理しないで」


 それは僕に向けた言葉で、

 同時に、彼女自身に向けた言葉みたいだった。


「うん。リィナも」


「うん」


 返事はした。

 でも、その“うん”の中身を、

 僕は聞けなかった。


 その言葉が、

 胸の奥に、静かに沈んだ。


 待ってくれない。

 止まらない。


 それでも、

 歩くしかない。


「じゃあ、また」

「……またね」


 いつもの別れ。


 手を振ることもなく、

 彼女は家の方へ歩いていく。


 背中が、

 少しだけ小さく見えた。


 ♢


 一人になった畑。


 夕方の光が、

 草の影を長く伸ばす。


 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 何も起きなかった。

 何も言わなかった。

 何も、決めなかった。


 それなのに、

 胸の奥だけが、ひどく疲れていた。


「……続いてるな」


 ぽつりと呟く。


 生活が。

 時間が。

 季節が。


 止まらない。


 あの約束を置き去りにして、

 夏は、平然と始まってしまった。


 この平穏が、嵐の前の静けさだと分かっていながら。


 日が傾き始めると、畑の空気は少しだけ和らいだ。

 それでも、昼間に溜め込んだ熱は残っていて、

 草の匂いが、どこか重たい。


 蝉の声が、遠くから聞こえ始める。

 まだ本格的じゃない。

 でも、確かにそこにある。


 季節は、準備をしている。


 僕は道具を片付けながら、

 何度も、振り返りそうになるのを堪えた。


 彼女の姿は、もうない。

 それが、少しだけ救いでもあり、

 同時に、ひどく心細かった。


 何も起きていない。

 でも、何も起きていないことが、

 こんなにも不安だなんて。


 春は、感情が溢れていた。

 夏は、それを押し込める。


 その違いが、

 後になって、致命的になることを、

 この時の僕は、まだ知らなかった。


 僕は今日も何もしていないふりをして、畑を後にした。


 帰り道の途中、空を見上げた。

 夕焼けはまだ薄い。

 春の夕暮れよりも、ずっと強引に明るさを残している。


 夏は、日が長い。

 長いくせに、何も待ってはくれない。

 ただ、時間だけが引き延ばされて、

 その分、誤魔化しも長く続く。


 屋敷に戻ると、廊下の空気がひんやりしていて、

 一瞬だけ肩の力が抜けた。

 でも、抜けた分だけ、

 胸の奥の重さがはっきり分かってしまう。


 手を洗う。

 土が落ちる。

 爪の間の黒ずみが消える。


 それなのに、

 今日という一日は落ちない。


 食事をしても、味が薄い。

 風呂に入っても、熱が抜けない。

 身体の汗より先に、

 心がずっと湿っている。


 ベッドに横になる。

 目を閉じようとして、

 閉じられない。


 春の終わりに聞いた言葉が、

 夏の始まりにもついてくる。


「止まらないね」


 リィナの声が、耳の奥で繰り返される。

 僕は枕に顔を押し付けて、

 息を吐いた。


 明日も、畑に行く。

 明後日も、行く。

 何もしていないふりをして、

 何も起きないふりをして、

 今日の続きを重ねる。


 そうやって――

 夏は、平然と進んでいく。


 ――夏は、止まらない。

夏は、何も壊さないまま進んでいきます。

壊れないからこそ、続いてしまう日常があります。


何も起きていないふりをして、

何も変わっていないふりをして、

それでも確かに、少しずつ何かが削れていく。


この話は、

“まだ大丈夫”が積み重なっていく物語です。


次の話でも、きっと二人は笑います。

でもその笑顔の下で、

止まらない季節だけが、静かに進んでいきます。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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