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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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15/32

15.『春が終わるまで』

皆さまのおかげで、投稿4日目にもかかわらず

580PVを突破しました。

深く御礼申し上げます。

リィナの春編。最終話になります。

それでは、本編をどうぞ。

 ミレイユに止められた夜から、僕は一度も書庫へ入っていない。


 扉の前まで足が向かうことはあった。廊下の角を曲がれば、あの分厚い木の扉が見える。

 手を伸ばせば、取っ手に触れられる距離まで近づいて、そこで止まる。

 胸の奥が疼く。頭の中に、あの文字列が蘇る。


 ――媒介。結合。再構築。可能性。


 指先が、勝手に震える。


 それでも僕は、扉を開けない。


 開けた瞬間、僕はまた「明日ならできるかもしれない」を拾ってしまう。

 拾って、握り潰して、握り締めて、最後には自分の手も血だらけにしてしまう。

 そんな未来が、もう見えていた。


 ミレイユは、怒らなかった。


 ただ、僕の頬に触れて言った。


「エルディオ。あなたは優しい子だから、危ないのよ」


 優しい。


 その言葉が、刃みたいに胸に刺さる。


 僕は優しいんじゃない。優しく見えるだけだ。

 誰かを救うことでしか、自分を保てないだけだ。

 誰かの痛みを抱えるふりをして、その実、抱えているのは自分の空洞でしかない。


 ――私を、エルの“生きる理由”にしないで。


 リィナの声が、何度も何度も再生される。


 あの声の温度を、僕はまだ忘れられない。

 拒絶ではなく、突き放しでもない。

 むしろ、優しさだった。

 優しさで線を引くという残酷さ。


 分かっている。


 分かっているのに、分からないふりをしてしまう自分がいる。


 救えるかもしれない、と。


 救いたい、と。


 ――救う。


 その二文字が、僕にとってどれだけ都合のいい言葉か。

 言えば自分が正しい側に立てる。

 言えば、動ける。

 言えば、迷わずに済む。


 でも、救うという言葉の先には、必ず“誰かの人生”がある。


 引き受けてはいけない人生。


 抱えてはいけない時間。


 奪ってはいけない選択。


 僕はそれを、頭では理解していた。


 だから――今朝、僕は決めた。


 今日は、何もしない日だ。


 何かを決める日じゃない。

 何かを変える日でもない。

 方法を探す日でもない。


 ただ、畑へ行く。


 リィナに会える日だから。


 それだけにする。


 ♢


 春の朝の光は、冬のそれよりも柔らかい。


 屋敷の窓から差し込む日差しは、確かに暖かいのに、空気はまだ薄い膜みたいに冷えている。

 廊下を歩くと、石の冷たさが足裏からじわりと滲んでくる。


 支度はいつも通りにした。

 上着を羽織り、靴を履き、戸口で一瞬だけ立ち止まる。


 ――畑に行く。


 ただそれだけのはずなのに、胸がうるさかった。


 行けば会える。


 会えば、声をかけたくなる。


 声をかければ、踏み込みたくなる。


 踏み込めば――戻れなくなる。


 僕は一度だけ、深く息を吸って吐いた。


 今日は何もしない。


 そう、心の中で繰り返す。呪文みたいに。


 屋敷を出ると、庭の木々の枝先に、小さな芽がいくつも膨らんでいるのが見えた。

 まだ花にはならない。けれど、確かに春だ。


 春は、始まったばかりのような顔をして、実はもう終わりの準備をしている。


 そのことを、最近の僕は嫌というほど知ってしまった。


 ♢


 畑へ続く道は、相変わらず静かだった。


 土の匂い。草の匂い。遠くの鳥の声。


 足元に残っていた雪はほとんど消えて、代わりに湿った土が顔を出している。

 踏むたびに、靴の裏に柔らかい重さがついてくる。

 冬の固さがほどけて、世界が少しだけ息をし始めたような感触。


 畑が見えてきた。


 いつもの場所。


 誰も使わなくなった小さな庭が、僕の手で畑になった場所。


 そして――僕とリィナの場所。


 視界の端に白が揺れた。


 ベンチの近く。畑の端。


 リィナが、もうそこにいた。


 いつもより少しだけ早い。

 彼女は立っていたけれど、体の重心がどこか不安定で、風に揺れる草みたいに見えた。


 胸が、ぎゅっと縮む。


 僕は駆け寄りそうになって、踏みとどまる。


 今日は何もしない日だ。


 いや――“何もしない”というのは嘘だ。


 今日、僕がしたいことは一つだけだ。


 彼女の隣に立つこと。


 それだけ。


「こんにちは、エル」


 リィナが言う。


 いつも通りの声。


 いつも通りの笑顔。


 でも、その笑顔の奥に、薄い影がある。

 影の正体を、僕はもう見ないふりができない。


「……こんにちは、リィナ」


 声が少し掠れた。


 彼女は気づいたようで、でも気づかないふりをした。

 僕の“いつも通り”に合わせるみたいに。


「今日は、いい天気だね」


「うん。……そうだね」


 言葉が、薄い。


 どれだけ薄くしても、僕の中の濃いものは消えない。


 リィナは畑へ目を向けた。


「やろうか」


「……うん」


 僕たちは畑に入る。


 いつも通りの作業。


 雑草を抜き、土を整え、薬草の葉を選り分ける。


 指先が土に触れる。


 その感触が、今日だけはやけに現実的だった。


 生きている。


 土も、草も、僕も、リィナも。


 それが当たり前じゃないと知ってしまうと、当たり前のことほど、痛い。


 ♢


 作業の途中で、リィナが一度だけ小さく咳をした。


 ほんの小さな咳だ。


 誰も気づかない程度の。


 けれど僕の身体は反射で動きそうになる。

 肩が跳ねる。

 声が出そうになる。


「大丈夫?」


 その言葉が喉まで上がってきて、僕は飲み込んだ。


 飲み込んだ瞬間、胸の中で何かが暴れる。

 言わないことが優しさだと、自分に言い聞かせながら、言わないことが卑怯にも思える。


 リィナは何も言わずに草を抜き続ける。


 僕の飲み込んだ言葉など、最初から存在しなかったみたいに。


 その沈黙が、彼女の強さだ。


 そして、僕の弱さを際立たせる。


「ねえ、エル」


 しばらくして、彼女が言った。


「なに?」


「この草……もう少し、端に寄せよう」


 ただの畑の話。


 ただの手順。


 僕は頷いて、言われた通りに手を動かす。


 こういう会話が、どれほど救いだったか。


 救い、と言ってしまえばまたいけない。


 僕は救われたいだけだ。


 でも――それでも。


 リィナといる時間だけは、僕の胸の中の空洞が少しだけ静かになる。


「……リィナ」


 名前が、口から漏れた。


「ん?」


 彼女が顔を上げる。

 紅い瞳が、僕を見た。

 僕はそこで息を止める。

 言ってはいけない。

 踏み込んではいけない。

 でも、言いたい。


 ――今日だけは、言いたくない。


 頭の中で綱引きが起きる。

 結局、僕は違う言葉を選んだ。


「……髪、風で絡んでる」


 嘘じゃない。逃げだ。

 リィナは少し驚いて、すぐに笑った。


「ほんとだ。春の風って、意外と意地悪だよね」


 そう言いながら、彼女は白い髪を耳にかける。

 その仕草は、以前と同じように見えるのに、どこかゆっくりだった。

 僕の胸の奥が、また音を立てる。

 彼女は、気づいているのだろうか。

 僕が見ていることを。

 僕が見えてしまっていることを。

 リィナは僕の手元へ視線を落とす。


「エル、手、切らないでね」


 冗談みたいな口調。

 でも、その言葉の奥に、以前の“あれ”の記憶が透ける。

 僕は反射で指先を握りしめる。

 指先に残る温度。

 あの時、彼女が僕の血を止めた温度。

 あの温度の向こうに、彼女の秘密があった。


「……気をつける」


 僕は短く答えた。

 リィナは「うん」と頷いて、また作業に戻る。


 いつも通り。

 彼女は、いつも通りを演じる。

 僕も、いつも通りを演じる。


 ――僕たちは、もう“いつも通り”ができないのに。


 ♢


 昼前、リィナがふらりと体を揺らした。


 ほんの一瞬。


 でも、僕の身体はもう勝手に動いていた。


「リィナ――」


 名前を呼ぶより早く、僕の手が伸びる。


 触れてはいけない、と何度も自分に言ってきたのに。

 触れたくない、じゃない。

 触れたくて仕方がない。

 触れたくないのは、彼女を壊すのが怖いからだ。


 でも彼女が倒れるかもしれない瞬間に、僕はその怖さより、目の前の彼女を失う怖さを優先してしまう。


 僕の手が、彼女の腕に触れる直前で止まった。

 止まったのは、リィナが自分で体勢を戻したからだ。


 彼女は、何事もなかったように土を払う。

 そして、いつもの顔で僕を見る。


「……大丈夫」


 それは、彼女の口癖だった。

 その言葉が、僕にはもう刃だ。

 僕は拳を握った。

 爪が掌に食い込む。

 何も言うな。

 今日は何もしない日だ。


 ――なのに。


「座ろうか」


 僕の口が勝手に言った。

 リィナは一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく頷いた。


「うん。ちょっとだけ」


 ベンチに向かう彼女の足取りは、以前より慎重だ。

 僕は一歩遅れて付いていく。


 隣に座る。

 触れない距離。

 触れそうで、触れない距離。


 それが一番苦しい。


「……エル」


 リィナが言った。


「なに?」


「今日は、顔が疲れてる」


 言われて、初めて自分の頬が強張っていることに気づく。


「……そうかな」


「うん」


 リィナは僕の顔をまっすぐ見て、それ以上何も言わない。


 責めない。

 促さない。

 ただ、見ている。


 その視線が、僕にとっては耐えがたい優しさだ。

 僕は喉の奥を鳴らして、言葉を探す。

 言うべきじゃない。

 でも、言わずにいられない。

 僕はずっと、言わないでいられる人間じゃない。

 自分の中の恐怖を、罪悪感を、誰かに預けないと呼吸ができない。

 だから僕は――最悪の形で、口を開いた。


「……リィナ」


「ん?」


「僕は……」


 そこで言葉が途切れた。

 言えば、また同じになる。

「救う」と言って、彼女の人生を僕の手に入れようとしてしまう。

 彼女が拒否した“役割”を、僕はまた押し付ける。

 リィナが静かに、先に言った。


「エル、昨日……寝てないでしょ」


 当てられた。

 否定できない。

 僕は笑おうとして失敗した。


「……少し」


「少しじゃない顔してる」


 リィナは小さく息を吐いて、空を見上げた。


 空は青い。

 雲は薄い。

 春の空だ。


「春、好き?」


 彼女が唐突に聞く。


「……好きだよ」


 嘘じゃない。

 春はリィナが畑に来られる季節だ。

 春は、彼女が少しだけ楽そうに息をする季節だ。


「そっか」


 リィナは頷く。

 その頷きが、まるで終わりの合図みたいに見えて、僕の胸がざわつく。


「でも、春ってさ」


 リィナは笑う。

 柔らかい笑い方。

 僕が一番好きな笑い方。


「優しいよね」


「……うん」


「でも、優しいものほど、()()()()()()()


 その言葉に、僕は息を止める。

 言ってしまった。

 彼女は、言ってしまった。

 僕がずっと見ないふりをしてきた“終わり”を、言葉にしてしまった。


 僕は、唇を噛んだ。

 叫びたい。

 やめてくれ、と。

 そんな言い方をしないでくれ、と。

 でも叫べない。

 叫べば、彼女の現実を否定することになる。


 それは「なかったことにする」ことだ。


 彼女はそれを、いちばん嫌う。


「……リィナ」


 僕はかすれた声で呼ぶ。

 彼女は僕を見て、少しだけ目を細めた。


「エル、言いたいことあるでしょ」


 優しい声。

 優しいのに、逃げ道を塞ぐ声。

 僕は答えられなかった。

 喉が詰まって、言葉にならない。

 リィナは、僕が何を言おうとしているか分かっている。

 分かっているから、先に線を引く。

 それが彼女の優しさで、残酷さだ。


「……ねえ」


 リィナが言う。


「一つだけ、約束して」


 僕の胸が跳ねる。


 約束。


 それは僕が欲しかったものだ。


 未来の話。

 笑い合う話。

 続いていく話。


 でも――きっと違う。


 リィナの約束は、いつも“ここ”にしかない。


「なに?」


 僕は震える声で聞いた。

 リィナはベンチの端に置いた手を握りしめて、言った。


「……春が終わるまで」


 その言葉だけで、僕は理解してしまう。

 彼女は、数えている。

 残された時間を。

 季節を。

 今、この瞬間を。


「春が終わるまで、僕たちは――」


「一緒にいよう」


 リィナは、そう言って笑った。

 泣きそうな笑い方だった。

 でも泣かない。

 泣いて縋らない。

 泣いて役割を与えない。

 彼女は最後まで、“リィナ”でいようとする。


「……それだけ?」


 僕は、自分が最低だと思いながら言った。

 もっと欲しい。

 夏も。

 秋も。

 冬も。

 来年の春も。


 欲しい。

 欲しくてたまらない。


 でも彼女は首を振る。


「それだけがいい」


「どうして」


 声が尖る。

 僕は、自分の声が嫌だった。


「どうして……僕のこと、頼ってくれないんだよ」


 結局、言ってしまう。

 僕は弱い。

 弱いから、言ってしまう。

 リィナは驚かない。

 怒らない。

 ただ、少しだけ眉を寄せて、僕を見る。


「エルが優しいのは分かってる」


 彼女は、静かに言う。


「優しいよ。ほんとに」


 その肯定が、痛い。

 否定されるより痛い。


「でも、私の人生を引き受けなくていい」


 言葉が、落ちる。

 地面に落ちた石みたいに、動かない。


「……引き受けたいわけじゃ」


「引き受けようとしてるよ」


 リィナははっきり言った。


「救う、って言った時点で、もう」


 僕は何も言えない。

 リィナは続ける。


「私ね、選んでるの」


 膝の上で、指が小さく組まれる。


「数えてるの」


 彼女の声は震えていない。


「受け入れてるの」


 それは、強さだ。

 同時に、僕を殺す言葉だ。

 僕は首を振る。


「……受け入れなくていい」


 思わず言ってしまう。

 言ってから、息が詰まる。

 それは彼女の現実を否定する言葉だ。

 なかったことにする言葉だ。

 リィナは、ゆっくり首を振った。


「それを、なかったことにしないで」


 優しい声だった。

 優しいからこそ、逃げられない。

 僕は、唇を震わせる。


「……僕は、ただ」


「うん」


「ただ、一緒にいたいだけなんだ」


 嘘じゃない。

 でも、それは半分嘘だ。

 僕は“一緒にいる”を盾にして、“救う”をしたい。

 救って、続けたい。

 続けて、自分を保ちたい。


 リィナは僕の手を見た。

 僕の指先。

 土のついた手。

 彼女の腕に触れそうで触れなかった手。


「一緒にいるのは、嬉しい」


 リィナは言った。


「だから、春が終わるまでは、一緒にいよう」


 その言葉が、嬉しくて、悲しくて、残酷で。

 僕は涙が出そうになる。

 リィナは少し笑って、最後に言った。


「でも、私を……エルの生きる理由にしないで」


 それは、何度聞いても胸を裂く言葉だ。

 僕は、頷けない。

 頷いたら、僕は自分を見失う。

 でも頷かないと、僕は彼女を壊す。

 僕は、喉の奥から絞り出すように言った。


「……今は、やらない」


 リィナが目を瞬かせる。

 僕は続けた。


「救う方法を探すのも、……今は、やらない」


 言うたびに、自分の中の何かが剥がれていく。


「春が終わるまでは……ただ、ここにいる」


 それが僕の精一杯だった。


 リィナは、ふっと息を吐いて、柔らかく笑った。


「それでいい」


 その言葉が、赦しみたいに聞こえて、僕は今度こそ涙が滲む。


 でも泣かない。

 泣いてすがらない。

 泣いて役割をもらわない。


 僕も、彼女の前では“エル”でいたい。


 ♢


 それから僕たちは、もう一度畑に戻った。

 作業は続けた。

 続けるしかなかった。

 何かを決めた後の空気は、少しだけ澄んでいた。

 澄んでいるのに、痛い。


 土は柔らかい。

 草は小さく揺れる。

 春の匂いがする。


 僕は何度も、リィナの横顔を見た。


 白い髪。

 白い肌。

 紅い瞳。


 この世界の光の中で、彼女は相変わらず幻想みたいだった。


 そして、幻想はいつか消える。

 その事実を、僕は胸の中で握りしめる。

 握りしめて、今は壊さないようにする。


 畑の端で、リィナがしゃがみ込む。

 息を整える時間が増えた。

 でも彼女は何も言わない。

 僕も何も言わない。


 言わない代わりに、僕は隣にしゃがむ。

 触れない距離で。

 彼女の呼吸が落ち着くまで、同じ高さで空を見る。


 空は青い。

 雲は薄い。

 鳥の声がする。


 世界は、何も変わらないふりをする。

 夕方が近づく頃、作業を終えた。


 畑の端。

 いつもの帰り道。

 日が傾いて、光が少しずつ輝きを失っていく。

 まだ空は明るいのに、星が滲むように浮かび始めた。


 春の終わりの、曖昧な時間。

 冷たい風が頬を撫でる。

 リィナが髪を耳にかけて、僕を見る。


「帰ろうか」


「……うん」


 二人で歩き出す。

 並んで。

 少しだけ、距離を空けて。

 でも、同じ道を。

 途中でリィナが小さく笑った。


「エル」


「なに?」


「今日のエル、少しだけ……静かだった」


「……うん」


「それ、好き」


 胸が締まる。


 好き。


 その言葉が、嬉しいのに、僕はそれを未来に繋げられない。


 繋げないことが、今日の約束だ。

 畑の出口で、リィナが立ち止まる。


「またね」


 いつもの言葉。

 いつもの声。

 でも今日は、違う意味を持ってしまう。

 僕は頷いて言った。


「またね」


 リィナは一歩、後ろへ下がる。

 そして、もう一度だけ言った。


「春が終わるまで、ね」


 僕は、喉の奥が痛くなるのを堪えて答えた。


「……うん」


 リィナは微笑んで、歩き出す。

 走らない。

 一定の歩幅で。

 彼女の背中が、夕暮れの光に溶けていく。


 僕はその背中を見送りながら、自分の手を見た。

 この手は、何かを救える手じゃない。

 救うふりをして、奪ってしまう手だ。

 だから今日は――握らない。

 掴まない。

 ただ、隣にいる。


 その選択が、僕にとってどれほど苦しいか。

 苦しいのに、それでも、それが唯一の優しさだと思った。


 春の風が、背中を押すように吹いた。

 そして僕は、小さく呟いた。


 逃げないように。

 忘れないように。

 壊さないように。


 春が終わるまで。

 それが、僕たちに許された、最初で最後の約束だった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


「春が終わるまで」は、

何かが始まる物語ではありません。

何かを“どうしても終わらせてしまう”までの時間を書いた章でした。


誰かを救いたいと思うこと。

一緒にいたいと願うこと。

それ自体は、きっと悪いことではありません。


それでも、

その想いが誰かの人生を背負う形になったとき、

それは優しさではなく、重さになってしまう。


リィナは、救われることを拒んだのではありません。

エルの優しさを否定したわけでもありません。

ただ、自分の人生を「理由」にされることだけを、

静かに拒んだのだと思います。


春は、優しい季節です。

始まりを予感させて、希望を与えて、

何もかもがうまくいくような錯覚をくれる。


だからこそ、

春の終わりは、いつも少しだけ残酷です。


この章で描いたのは、

答えでも、救いでもありません。

ただ、選ばれなかった未来と、

それでも続いてしまう時間です。


春は終わりました。

けれど、物語はまだ続きます。


この先で、彼らが何を失い、

それでも何を抱えて生きていくのか。

その歩みを、もしよければ、

もう少しだけ見届けていただけたら嬉しいです。


ありがとうございました。

もしここまでの物語で、

何か一つでも心に残るものがあれば、

ブックマークや評価、感想という形で

そっと教えてもらえると嬉しいです。

レビューも書いていただける心の優しい方がおられましたら、是非お願いいたします。

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タロット占いをしてるとき、死神のカードが出てくるとき、死は再生を意味すると解釈する占い師が多い。自分は死は死であり、再生するかなんて誰にもわからないので、おしまいとしか伝えない。同じだと感じた。
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