13.春が終わるまで-6
何日もかけて調べ上げた、リィナの秘密。
文字にすれば、たった数行で済んでしまうそれが、
僕の中では、何十冊もの本と、何百もの可能性と、
眠れなかった夜の数だけ、重なっていた。
書庫を出た時には、もう太陽が高く昇っていた。
窓から差し込む光が眩しくて、思わず目を細める。
時間の感覚が、完全に失われていた。
――朝か。
それとも、もう昼なのか。
分からない。
分からないことだらけだった。
今日は、リィナと会える日だった。
その事実だけが、妙に現実味を帯びて胸に落ちてくる。
逃げられない。
先延ばしにもできない。
どんな顔をして会えばいいのか、分からなかった。
どんな声で名前を呼べばいいのかも、分からない。
優しくしていいのか、いつも通りでいいのか、
それとも――もう、いつも通りなんて無理なのか。
疲れのせいだと思いたかった。
徹夜続きで、思考が鈍っているだけだと。
けれど本当は、違う。
考えたくない答えを、
もう、考えてしまったからだ。
頭の奥で、何度もあの名前が反芻される。
――リーヴァ・ルミナ。
毒であり、薬であり、
そして、選ばれた延命の手段。
それを知ってしまった以上、
知らなかった頃には、もう戻れない。
「……どう、するんだ……」
誰に向けた言葉でもなく、
自分自身に問いかけるように呟いていた。
分からないまま、答えが出ないまま、
それでも足は勝手に動いていた。
屋敷を出て、慣れた道を辿り、
気づけば、畑の前に立っていた。
身体が覚えている。
ここに来る理由を、
考えなくてもいい場所。
畑の端にある、あのベンチ。
僕はそこに腰を下ろし、空を仰いだ。
雲ひとつない、春の空。
眩しいほどの青。
この空の下でリィナはいつも、「大丈夫」と笑っていた。
胸の奥が、じくりと痛む。
手を見下ろすと無意識のうちに、小さな布包みを握りしめていた。
あの草。
細く、淡い色をした、
どこにでも生えていそうな――
けれど、決してどこにでもあっていいものじゃない草。
指先に、わずかな震えが走る。
その時だった。
「こんにちは、エル」
聞き慣れた声。
柔らかくて、穏やかで、
何も知らないみたいに、いつも通りの声。
ゆっくり顔を上げる。
「……リィナ」
そこには、いつも通りのリィナがいた。
白い髪が、春の光を受けて淡く揺れている。
少しだけ痩せた気がする輪郭。
でも、表情は変わらない。
「どうしたの?」と、首を傾げて、微笑む。
「そんなに項垂れて。珍しいね」
心臓が、嫌な音を立てた。
――やめてくれ。
――そんなふうに、普通に話さないでくれ。
そう思ったのに、
言葉にはならなかった。
「……リィナ」
名前を呼ぶだけで、
喉がひどく乾く。
彼女は、ゆっくりと僕の前まで歩いてきて、
何気ない仕草で視線を落とす。
そして――
僕の手にあるものに、気づいた。
一瞬だけ、
ほんの一瞬だけ、
リィナの表情が、止まった。
それは驚きでも、恐怖でもなく、“理解”の色だった。
「……そっか」
小さく、息を吐くように呟く。
「調べたんだね」
責めるでもなく、問い詰めるでもなく、
当たり前のことを確認するみたいに。
その声音が、胸の奥を静かに締め付けた。
「……ごめん」
思わず、そう言っていた。
何に対しての謝罪なのか、
自分でも分からない。
調べたことか。
知ってしまったことか。
それとも――
知ろうとしたこと自体か。
リィナは、少し困ったように笑った。
「謝らなくていいよ」
そう言って、ベンチの反対側に腰を下ろす。
二人の間に、ほんのわずかな距離ができた。
触れられないほどではない。
でも、もう簡単に縮めていい距離じゃない。
「……知っちゃったんだね」
空を見上げたまま、彼女はそう言った。
その横顔は、
静かで、穏やかで、
どこか“覚悟”を帯びていた。
それが、何よりも残酷だった。
♢
リィナは、僕の手の中の布包みを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
春の光が白い髪に溶けて、風が薬草の葉を擦る音だけが、間を埋める。
僕の喉は乾いていた。
言葉を選ぶ余裕なんてないはずなのに、間違えたくないという恐怖だけが、指先みたいに細かく震えていた。
「……ねえ、エル」
リィナが先に口を開いた。
声は穏やかで、いつも通りの温度だった。
「それ、見つけたんだね。名前も……たぶん、分かったんでしょ」
僕は頷いた。
頷くしかなかった。
「うん」
それだけ言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
“うん”なんて、あまりにも軽い。
この一言の中に、僕が過ごした夜も、ページを捲った指の痛みも、息が詰まるほどの恐怖も、全部詰まっているのに。
リィナは小さく息を吐いた。
「……そっか」
その「そっか」は、諦めにも、責めにも聞こえなかった。
ただ、確認。
そして――覚悟の音だった。
僕は握りしめていた布包みを少しだけ緩めた。
中身が見えるほどではない。
見せるべきじゃない。
でも、隠すこともできない。
「リィナ……」
名前を呼んだだけで、彼女の視線が僕に戻る。
紅い瞳。
その奥は、いつもみたいに静かだった。
「……君のことを、調べた」
言った瞬間、心臓が跳ねる。
言わなくても分かっていることを、わざわざ口にしている。
それは、踏み込んだ証拠だった。
「うん」
リィナは短く頷く。
許すでも、止めるでもなく。
“続けて”と言っているようにも見えた。
僕は息を吸って、吐いた。
言わなきゃいけない。
でも、言い切ったら終わってしまう気がした。
「……あの草は、ただの薬草じゃなかった」
リィナの表情は変わらない。
驚きもしない。
そのことが、逆に胸を締め付けた。
「……毒に近い。っていうか、毒だ」
僕は、できるだけ淡々と言った。
感情を乗せれば、崩れる。
崩れたら、たぶん僕は、彼女を“救う側”に押し込めてしまう。
「……知ってる」
リィナは小さく言った。
それだけで、僕の中の何かが少しだけ折れた。
知ってる。
分かってた。
分かった上で、選んでた。
「でも……」
それでも、僕は続けてしまう。
「書庫の古い文献に、脚注があった。確証はない。実例もない。……でも」
言葉が焦って、早くなる。
「“可能性がある”って書いてあった」
リィナの睫毛が、ほんのわずか揺れた。
だけど彼女は、黙ったままだった。
僕はそこに、希望を見てしまった。
見たくなかったのに。
「理論上は……毒性を中和できるかもしれないって」
詳細は言わない。
言ったら、僕の中でそれが“現実”になる。
現実になれば、突っ走ってしまう。
「まだ確証はない。危険だとも書いてあった。……でも」
“でも”ばかりだ。
僕は、否定の上に希望を重ねるしかできない人間なんだと、今さら思い知らされる。
「何もしないで、終わるのが……僕は、嫌なんだ」
リィナが、ゆっくりと僕を見た。
その視線は冷たくない。
優しいままだ。
だからこそ、刺さる。
「……エル」
彼女の声が、少し低くなる。
「それ、言うために……今日来たの?」
僕は答えられなかった。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば、もう戻れない。
沈黙が答えになったのだろう。
リィナは小さく笑った。
困ったような、いつもの笑い方。
でもその笑顔の奥に、硬いものがあった。
「エルが優しいのは分かってる」
その言葉は、慰めじゃない。
評価でもない。
ただ、彼女が事実として言語化した“理解”だった。
「分かってるよ。エルは、誰かが苦しそうにしてたら、放っておけない」
視線を逸らさずに言う。
逃がさないように。
でも責めるようにじゃない。
「……でもね」
リィナは、そこで一拍置いた。
春の風が、ふたりの間を通り抜ける。
薬草の葉が揺れて、光がちらついた。
「私の人生を、引き受けなくていい」
はっきりした声だった。
強い言葉なのに、怒気はない。
ただ、芯があった。
僕は、反射的に口を開きかけた。
「引き受けたいわけじゃ――」
そんな言い訳を。
でも、リィナは僕より先に続けた。
「私ね、もう選んでるの」
選んでる。
その言葉が、胸に沈む。
「この春も、畑に来るって決めた。エルに会うって決めた。笑うって決めた」
ひとつひとつが、淡々としているのに、重い。
覚悟は、派手じゃない。
派手じゃないから、崩せない。
「数えてるの」
リィナは、指先を自分の膝の上で静かに組んだ。
その仕草が、妙に大人びて見えた。
「春が何日残ってるかとか、そういうのじゃないよ」
少しだけ笑って、でも目は笑わない。
「私が、どれだけ“いつも通り”でいられるか」
その言葉に、僕の背筋が冷える。
いつも通り。
彼女はそれを“残り”として数えている。
「受け入れてるの」
リィナは、息を吸って、ゆっくり吐いた。
それは祈りみたいで、でも祈りではない。
「怖いよ。そりゃ、怖い」
そう言いながら、声は震えない。
震えないことが、どれほど怖いかを、僕は知っている。
「つらいし、苦しいし……ほんとは、嫌だよ」
ここで泣いてくれたら、どれだけ楽だっただろう。
縋ってくれたら、どれだけ救われただろう。
でもリィナは、縋らない。
「でも、それを抱えたまま生きるって、私が決めたの」
決めた。
それは、僕のためじゃない。
彼女自身のための決断だ。
そして、リィナは少しだけ眉を寄せた。
それは怒りではなく――痛みの形だった。
「だからね」
「エルの“可能性がある”って言葉で、全部ひっくり返されるの、怖い」
僕は言葉を失う。
ひっくり返すつもりなんてない。
救いたいだけだ。
でも、それが“ひっくり返す”ことになり得るのだと、彼女は知っている。
「私が選んだことを、受け入れたことを、数えたことを……」
リィナはそこで一度、言葉を切った。
喉の奥で、何かを押し込むように。
「それを、“なかったこと”にしないで」
静かな声だった。
でも、今までで一番強かった。
僕の手の中の布包みが、急に重くなる。
可能性。
理論上。
確証はない。
それでも僕は、そこに希望を見てしまった。
見てしまった自分を、止められない。
リィナは僕を否定しない。
優しさも否定しない。
ただ――役割だけを拒否している。
僕が“救う側”になった瞬間、
彼女は“救われる側”に閉じ込められる。
それは、一緒にいることとは違う。
彼女は、それを分かっている。
「……エル」
リィナは、もう一度だけ僕の名前を呼んだ。
「私、エルの未来に責任、持てない」
その言葉が、胸を裂いた。
「私がいなくなった後のエルを、私は見られない」
視線が、ほんの少しだけ揺れる。
それでも、彼女は逃げない。
「だから……生きる理由には、なれない」
――そこまで言って、リィナは少しだけ笑った。
優しいままの笑顔で。
残酷なままの優しさで。
「一緒にいたいよ。ほんとだよ」
「でも、引き受けないで」
その瞬間、僕の中で何かが、音を立てて崩れ始めた。
♢
リィナの言葉は、どれも正しかった。
一つも否定できない。
否定してしまえば、それは彼女の人生そのものを否定することになる。
だから僕は、何も言えなかった。
頭では分かっている。
彼女がどれほど慎重に選んできたか。
どれほど時間をかけて、自分自身を受け入れてきたか。
そのすべてを、
僕の「もしかしたら」で上書きしてはいけないことも。
それなのに――。
胸の奥で、別の声が囁く。
それでも。
それでも、救えるなら。
それでも、間違いじゃないなら。
それでも、失うよりは……。
「……リィナ」
声が、掠れた。
名前を呼んだだけで、喉が詰まる。
「君の言ってることは……全部、正しい」
それは嘘じゃない。
取り繕いでもない。
「僕が、君の人生を引き受ける資格なんてない
君が選んできたものを、なかったことにしていいわけもない」
一つずつ、言葉にしていくほど、
自分の中の何かが軋む。
「……でも」
その一言が、どうしても消えなかった。
「分かってるのに……止まれないんだ」
視界が滲む。
涙じゃない。
感情が追いついていないだけだ。
「君が苦しんでるって分かってて
何もしないで、隣にいるだけなんて……」
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
「僕には、できない……」
それは、優しさじゃない。
正義でもない。
ただの弱さだ。
失う未来を想像してしまった時、
その恐怖が、すべてを押し流してしまう。
リィナは、しばらく黙って僕を見ていた。
責めない。
遮らない。
逃げない。
そして、静かに一歩、後ろへ下がった。
距離は、ほんの僅か。
それでも、はっきりと分かる線引きだった。
「……エル」
彼女の声は、相変わらず穏やかだった。
怒りも、拒絶もない。
「壊れてるよ」
その一言が、胸を貫く。
「優しさで、自分を追い詰めてる」
「正しいことを全部分かってるのに、それでも止まれなくなってる」
リィナは、僕から視線を外し、畑を見渡した。
芽吹いた草。
揺れる葉。
終わりに向かう春。
「……だからね」
彼女は、ゆっくりと息を吸った。
「少し、距離を置こう」
心臓が、跳ねる。
「別れる、とかじゃないよ」
まるで、先回りするみたいに言う。
「でも、このままだと……
エルは、私を理由に壊れていく」
それを、彼女は一番恐れていたのだ。
リィナは、僕の手を見た。
触れようとはしない。
引き寄せもしない。
ただ、静かに言う。
「畑に来る回数、少し減らすね
今日は……もう帰る」
それは、拒絶じゃない。
でも、明確な線だった。
「エルは、優しすぎるから」
振り返りながら、最後にそう言った。
「だから、私の人生まで抱えなくていい」
その言葉を残して、
リィナはゆっくりと歩き出した。
引き止めることはできなかった。
声も、足も、動かなかった。
春の風が、二人の間を吹き抜ける。
暖かさの中に、確かな冷たさを含んだ風。
畑に残された僕は、
正しさを理解したまま、
それでも止まれない自分を、
ただ自覚していた。
救えるなら。
間違いじゃないなら。
失うよりは……。
その考えが、
どれほど危ういものかを知りながら。
――それでも、
僕はまだ、引き返す決意を持てずにいた。
春は、終わりに向かっている。
もしここまでの物語で、
何か一つでも心に残るものがあれば、
ブックマークや評価、感想という形で
そっと教えてもらえると嬉しいです。




