12.春が終わるまで-5
夜は、静かだった。
屋敷の廊下を歩く音は、自分の足音だけがやけに大きく響く。
灯りを落とした部屋の中で、僕はベッドに腰を下ろしたまま、天井を見つめていた。
眠れなかった。
正確に言えば、目を閉じることができなかった。
目を閉じると、あの声が聞こえる。
穏やかで、優しくて、決して責めることのない声。
――それを理由にしないで。
言葉の意味は、理解している。
リィナは僕を拒んだわけじゃない。
嫌悪したわけでも、突き放したわけでもない。
それなのに、その一言だけが、胸の奥に残り続けていた。
「生きる理由にしないで」
それはまるで、“君のために生きるな”と、
静かに釘を刺されたような気がして。
布団に手を伸ばしかけて、やめた。
眠ってしまえば、何も考えなくて済む。
でも、考えずに朝を迎えることが、今は怖かった。
僕は、間違えたのだろうか。
踏み込んではいけない場所に、足を踏み入れてしまったのだろうか。
それとも――
踏み込まなかった方が、もっと残酷だったのだろうか。
答えは出ない。
出るはずがない。
それでも、胸の奥に、どうしても消えないものがあった。
「もしかしたら」
たったそれだけの言葉。
根拠も、証拠もない。
でも、確かにそこにあった。
もしかしたら、まだ何かあるかもしれない。
もしかしたら、誰も知らない方法があるかもしれない。
もしかしたら――。
考えるな、と自分に言い聞かせるほど、
その言葉は、はっきりと輪郭を持っていく。
僕はゆっくりと立ち上がった。
無意識のうちに、部屋を出ていた。
向かう先は、決まっていなかった。
ただ、静かで、誰にも邪魔されない場所が欲しかった。
気づけば、書庫の扉の前に立っていた。
分厚い扉に手をかけた瞬間、
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
――ここから先は、戻れない。
そんな予感がした。
それでも、手を離すことはできなかった。
ゆっくりと扉を開く。
埃と古紙の匂いが、静かに流れ込んでくる。
知識が、そこにあった。
答えかどうかは分からない。
でも、“可能性”だけは、確かに眠っている。
僕は、その一歩を踏み出してしまった。
救えるかもしれない、という
形を持たない希望に、
指先が触れてしまったことに、
まだ気づかないまま。
♢
アルヴェイン家書庫。
石造りの壁に沿って設えられた棚には、天井近くまで書物が詰め込まれている。
年代も、分野も、言語もまちまちだ。
王国史、魔法理論、神代文献、薬学、医学、禁書指定の写本――
この家が積み上げてきた時間そのものが、ここには眠っている。
普段、ここで勉強するときは必ずメイリスがいる。
本の選び方、順番、読むべき箇所。
無駄を省き、効率よく目的に辿り着くための導線を、彼女は熟知していた。
けれど今日は、一人だった。
書庫は静かだ。
紙の匂いと、僅かな埃の気配。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく感じられる。
――やるしかない。
僕は深く息を吸い、まずは薬草学の棚へ向かった。
図解入りの薬草辞典を片っ端から引き抜き、机の上に積み上げる。
一冊、二冊、三冊……
机が見えなくなるほどの量だ。
思考加速。
並列思考。
頭の奥で、魔法陣が静かに回転を始める。
視界が冴え、意識が研ぎ澄まされていく感覚。
ページをめくる速度が跳ね上がる。
文字と図が、意味として一気に流れ込んでくる。
違う。
これも違う。
形状が似ているだけだ。
効能が合わない。
生育環境が違う。
葉脈が一致しない。
次。
次。
次。
気づけば、五十冊近くを捌いていた。
それでも――
ない。
彼女がいつも持ち帰っていた、あの草。
細く、淡い色をした、どこにでも生えていそうな――
あの薬草が、どこにも載っていない。
「……おかしい」
思わず、声が漏れた。
薬草でない?
そんなはずはない。
あれは確かに、煎じれば効果を発揮していた。
彼女の身体を、ほんのわずかでも楽にしていた。
じゃあ――
嫌な予感が、背筋をなぞる。
僕は棚を移動した。
雑草。
多年草。
野草。
観賞用の草花。
追加で本を引き抜き、再び机に広げる。
ない。
ない。
これも違う。
これも……違う。
指先が冷たくなる。
「あんな……どこにでも生えてそうな草なのに……」
そこで、ようやく――
ひとつの可能性に行き当たった。
薬草でもない。
雑草でもない。
草花でもない。
じゃあ、あれは――
「……毒、か?」
考えたくなかった。
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
リィナが、毒を?
わざわざ持ち帰って、飲んでいる?
否定したい。
でも、否定しきれない。
――毒も、使い方次第では薬になる。
麻薬。
鎮痛剤。
麻酔薬。
どれも本質は毒だ。
量と用法を間違えれば、即座に命を奪う。
「……どうして、もっと早く」
自分の浅さに、歯を食いしばる。
この可能性を、なぜ最初から疑わなかった。
サーチ。
浮遊。
魔法を展開すると、書庫の奥から複数の書物が震え、空中を滑るようにして集まってくる。
毒物学。
神経毒。
植物性毒素。
禁制薬物一覧。
二十冊近い本が、机の周囲に浮かんだ。
この中にある。
必ずある。
思考をさらに加速させ、ページを追う。
一行も、一文字も逃さない。
違う。
これも違う。
毒性は強いが、症状が合わない。
こっちは即効性が高すぎる。
半分ほど捌いたところで――
視界の端に、ひとつの項目が引っかかった。
「……あ」
ページを戻す。
図解。
葉の形。
茎の色。
生育地。
一致する。
「……見つけた」
指先が、僅かに震えた。
項目の上部に記された名。
「……リーヴァ・ルミ……ナ?」
リーヴァ・ルミナ。
記述を、食い入るように読む。
――強力な神経毒。
――微量投与により、痛覚・神経反応を鈍化させる。
――長期使用で、身体機能を不可逆的に侵蝕。
さらに下を追う。
――麻薬作用あり。
――依存性あり。
――解毒困難。
「……っ」
息を吸うのを忘れていた。
薬じゃない。
治療じゃない。
これは――
“時間を削って、時間を買う”ための毒だ。
リィナは、これを知っていて使っている。
理解した上で、選んでいる。
「……そんな」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
でも、ここで止まっている場合じゃない。
彼女がどう使っているのか。
どんな配合で。
どこまで進行を抑えられるのか。
――まだ、何かある。
「……こいつが、どんな“薬”になってるのか……」
僕は本を引き寄せ、次のページをめくった。
救えるかもしれない。
そう思ってしまった自分を、
もう止めることができなかった。
♢
高い天井まで伸びる書架の影が、夕刻の光に長く床へ落ちていた。
蝋燭の火はまだ灯していない。
昼と夜の境目――春の終わりを告げる、曖昧な時間帯。
机の上には、開かれたままの書物がいくつも重なっている。
毒草学、神経系薬理、古代植物誌。
その中央に置かれた一冊だけが、他とは違う重さを放っていた。
――リーヴァ・ルミナ。
紙面に描かれた挿絵は、畑で何度も見たあの草と酷似している。
細く、柔らかな茎。
淡い光を孕むような葉脈。
一見すれば、どこにでも生えていそうな雑草。
だが、記述は冷酷だった。
《極めて強い神経毒性を持つ》
《微量摂取により、感覚鈍麻と疼痛緩和を引き起こす》
《継続摂取は、神経伝達の破壊を伴う》
指先が、紙の端を強く押さえる。
爪が白くなるのを自覚しながら、僕は読み進めた。
延命。
抑制。
進行を遅らせる。
――治癒、という言葉だけが、どこにもない。
「……」
喉の奥が、ひどく乾いた。
これを、リィナは知っていたのだろうか。
いや、知っているからこそ、あの草を選んだのだ。
彼女は、分かっていて飲んでいた。
延びる命の代わりに、確実に削られていくものがあると知りながら。
それでも、彼女は畑に立っていた。
誰に言われたわけでもなく、
誰かに頼ったわけでもなく、
ただ、自分で選んで。
苦しいことも、怖いことも、
全部分かった上で、それでも“今日”を生きるために。
その姿が、どうしようもなく強くて、
同時に、どうしようもなく脆かった。
だからこそ、このまま見ているだけでいいのかと、胸の奥で何かが軋んだ。
理解しているから、
受け入れているから、
救わなくていい――
そんな理屈が、
人の命の前で通用するのか。
分からなかった。
でも、分からないまま、
目を逸らすことだけはできなかった。
「……それでも、か」
呟きは、書庫に吸い込まれて消えた。
ページを捲る。
脚注。
補遺。
研究途中の走り書き。
古い文献ほど、言葉は慎重で、歯切れが悪い。
まるで、希望を与えないように、わざと曖昧に書いているかのようだ。
そして――
その中の一文に、僕の視線は縫い止められた。
《魔力を媒介とした場合、毒性の一部を中和できる可能性が理論上示唆される》
可能性。
理論上。
そのすぐ下に、追記がある。
《ただし、実例は存在しない》
《被験対象の肉体が耐えられず、実験は破棄された》
破棄された理由は、詳しく書かれていない。
死亡か、精神崩壊か、
あるいは、それに準ずる何か。
ただ一つ確かなのは、
「倫理的に不可能」とは書かれていないことだった。
危険。
未確認。
再現不可。
それだけだ。
それはつまり、
“やろうと思えばできる”という意味でもある。
誰もやらなかったのか、やれなかったのか、
やる前に止められたのか。
理由は分からない。分からないからこそ、
そこに隙間が生まれる。
もし、
僕がやるとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で、小さく何かが崩れた気がした。
「……でも」
指先で、その行をなぞる。
可能性がある。
完全に否定されていない。
理論上は――できる。
それだけで、十分だった。
「何もしないよりは……」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
リィナの言葉が、脳裏に浮かぶ。
――一緒にいられたら、嬉しいなって思ってただけ。
それは、縋りでも、願いでもなかった。
ただの、事実。
だからこそ、僕はそこに別の意味を重ねてしまう。
「……なら」
彼女は、未来を拒んでいない。
諦めているだけだ。
それなら、
諦めなくていい未来を提示することは、
押し付けではないはずだ。
選ばなければいい。
拒否すればいい。
逃げてもいい。
その“選択肢”を、
彼女に渡すだけ。
そう考えると、自分がしていることは、
ひどく理性的で、ひどく優しいことのように思えた。
だからこそ、胸の奥に生まれた違和感を、
意識的に無視した。
これは救済だ。
支配じゃない。
犠牲でもない。
――そう、信じたかった。
一緒にいられるようにすればいい。
彼女が望まない未来を押し付けるのではなく、
選べる未来を、増やすだけだ。
そうだろう?
彼女は、「救わないで」とは言っていない。
「生きる理由にしないで」と言っただけだ。
――救うこと自体を、否定されたわけじゃない。
その理屈が、静かに、しかし確実に心の中で形を成していく。
書架の奥から、さらに古い書物を引き抜いた。
神代文字で書かれた、劣化の激しい一冊。
ほとんどが神話と儀式の記録だが、その中に、異質な章がある。
《魂と肉体の結合について》
読み進めるごとに、背筋が冷えていく。
《理論上、魂と肉体の結合は固定されたものではない》
《極端な条件下において、その再構築が可能であると推測される》
再構築。
《ただし、術者の魔力と精神に極めて大きな負荷を与える》
《成功例は記録されていない》
成功例は、ない。
だが――不可能とも、書いていない。
「……」
ページを閉じる手が、少し震えた。
思考加速の魔法を、いつの間にか解いていたことに気づく。
もう、速く読む必要はなかった。
必要な言葉は、すべて、ここに揃っている。
魔力。
媒介。
結合。
再構築。
そして、可能性。
リィナは、もう数えている。
残された時間を。
季節を。
だったら――
僕が、数えなくていい未来を作ればいい。
それは、彼女の人生を奪うことじゃない。
彼女の選択肢を、増やすだけだ。
そう思わなければ、
この手に掴んだ希望を、正面から見られなかった。
リィナの顔が浮かぶ。
畑で笑う顔。
薬草を選ぶ横顔。
「大丈夫」と言う時の、少しだけ硬い声。
あの表情を、もう二度と見なくて済むのなら。
彼女が、痛みを隠す必要がなくなるのなら。
それだけで、自分がどれほど壊れても、構わない気がした。
それが“救う”ということなら、
僕は、壊れる役を選ぶ。
「……大丈夫だ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「まだ、越えてない」
線は、まだ見えている。
踏み越えたわけじゃない。
ただ、近づいているだけだ。
書庫の窓の外では、
夕焼けがゆっくりと色を失い、
春の一日が終わろうとしていた。
その時の僕は、
この“可能性”が――
救いの形をした地雷だということを、
まだ、本当には理解していなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
エルはまだ、何も壊していません。
ただ、「もしかしたら」に手を伸ばしただけです。
それが救いになるのか、
取り返しのつかない選択になるのか――
答えは、まだ出ていません。
春は、もう少しだけ続きます。
もしここまでの物語で、
何か一つでも心に残るものがあれば、
ブックマークや評価、感想という形で
そっと教えてもらえると嬉しいです。




