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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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12/32

12.春が終わるまで-5

 夜は、静かだった。


 屋敷の廊下を歩く音は、自分の足音だけがやけに大きく響く。

 灯りを落とした部屋の中で、僕はベッドに腰を下ろしたまま、天井を見つめていた。


 眠れなかった。

 正確に言えば、目を閉じることができなかった。


 目を閉じると、あの声が聞こえる。

 穏やかで、優しくて、決して責めることのない声。


 ――それを理由にしないで。


 言葉の意味は、理解している。

 リィナは僕を拒んだわけじゃない。

 嫌悪したわけでも、突き放したわけでもない。


 それなのに、その一言だけが、胸の奥に残り続けていた。


「生きる理由にしないで」


 それはまるで、“君のために生きるな”と、

 静かに釘を刺されたような気がして。


 布団に手を伸ばしかけて、やめた。

 眠ってしまえば、何も考えなくて済む。

 でも、考えずに朝を迎えることが、今は怖かった。


 僕は、間違えたのだろうか。

 踏み込んではいけない場所に、足を踏み入れてしまったのだろうか。


 それとも――

 踏み込まなかった方が、もっと残酷だったのだろうか。


 答えは出ない。

 出るはずがない。


 それでも、胸の奥に、どうしても消えないものがあった。


「もしかしたら」


 たったそれだけの言葉。

 根拠も、証拠もない。

 でも、確かにそこにあった。


 もしかしたら、まだ何かあるかもしれない。

 もしかしたら、誰も知らない方法があるかもしれない。

 もしかしたら――。


 考えるな、と自分に言い聞かせるほど、

 その言葉は、はっきりと輪郭を持っていく。


 僕はゆっくりと立ち上がった。

 無意識のうちに、部屋を出ていた。


 向かう先は、決まっていなかった。

 ただ、静かで、誰にも邪魔されない場所が欲しかった。


 気づけば、書庫の扉の前に立っていた。


 分厚い扉に手をかけた瞬間、

 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 ――ここから先は、戻れない。


 そんな予感がした。

 それでも、手を離すことはできなかった。


 ゆっくりと扉を開く。

 埃と古紙の匂いが、静かに流れ込んでくる。


 知識が、そこにあった。

 答えかどうかは分からない。

 でも、“可能性”だけは、確かに眠っている。


 僕は、その一歩を踏み出してしまった。


 救えるかもしれない、という

 形を持たない希望に、

 指先が触れてしまったことに、

 まだ気づかないまま。


 ♢


 アルヴェイン家書庫。

 石造りの壁に沿って設えられた棚には、天井近くまで書物が詰め込まれている。

 年代も、分野も、言語もまちまちだ。

 王国史、魔法理論、神代文献、薬学、医学、禁書指定の写本――

 この家が積み上げてきた時間そのものが、ここには眠っている。


 普段、ここで勉強するときは必ずメイリスがいる。

 本の選び方、順番、読むべき箇所。

 無駄を省き、効率よく目的に辿り着くための導線を、彼女は熟知していた。


 けれど今日は、一人だった。


 書庫は静かだ。

 紙の匂いと、僅かな埃の気配。

 自分の呼吸音だけが、やけに大きく感じられる。


 ――やるしかない。


 僕は深く息を吸い、まずは薬草学の棚へ向かった。

 図解入りの薬草辞典を片っ端から引き抜き、机の上に積み上げる。

 一冊、二冊、三冊……

 机が見えなくなるほどの量だ。


 思考加速。

 並列思考。


 頭の奥で、魔法陣が静かに回転を始める。

 視界が冴え、意識が研ぎ澄まされていく感覚。


 ページをめくる速度が跳ね上がる。

 文字と図が、意味として一気に流れ込んでくる。


 違う。

 これも違う。

 形状が似ているだけだ。

 効能が合わない。

 生育環境が違う。

 葉脈が一致しない。


 次。

 次。

 次。


 気づけば、五十冊近くを捌いていた。

 それでも――


 ない。


 彼女がいつも持ち帰っていた、あの草。

 細く、淡い色をした、どこにでも生えていそうな――

 あの薬草が、どこにも載っていない。


「……おかしい」


 思わず、声が漏れた。


 薬草でない?

 そんなはずはない。

 あれは確かに、煎じれば効果を発揮していた。

 彼女の身体を、ほんのわずかでも楽にしていた。


 じゃあ――


 嫌な予感が、背筋をなぞる。


 僕は棚を移動した。

 雑草。

 多年草。

 野草。

 観賞用の草花。


 追加で本を引き抜き、再び机に広げる。


 ない。

 ない。

 これも違う。

 これも……違う。


 指先が冷たくなる。


「あんな……どこにでも生えてそうな草なのに……」


 そこで、ようやく――

 ひとつの可能性に行き当たった。


 薬草でもない。

 雑草でもない。

 草花でもない。


 じゃあ、あれは――


「……毒、か?」


 考えたくなかった。

 喉の奥が、きゅっと締めつけられる。


 リィナが、毒を?

 わざわざ持ち帰って、飲んでいる?


 否定したい。

 でも、否定しきれない。


 ――毒も、使い方次第では薬になる。


 麻薬。

 鎮痛剤。

 麻酔薬。


 どれも本質は毒だ。

 量と用法を間違えれば、即座に命を奪う。


「……どうして、もっと早く」


 自分の浅さに、歯を食いしばる。

 この可能性を、なぜ最初から疑わなかった。


 サーチ。

 浮遊。


 魔法を展開すると、書庫の奥から複数の書物が震え、空中を滑るようにして集まってくる。

 毒物学。

 神経毒。

 植物性毒素。

 禁制薬物一覧。


 二十冊近い本が、机の周囲に浮かんだ。


 この中にある。

 必ずある。


 思考をさらに加速させ、ページを追う。

 一行も、一文字も逃さない。


 違う。

 これも違う。

 毒性は強いが、症状が合わない。

 こっちは即効性が高すぎる。


 半分ほど捌いたところで――

 視界の端に、ひとつの項目が引っかかった。


「……あ」


 ページを戻す。

 図解。

 葉の形。

 茎の色。

 生育地。


 一致する。


「……見つけた」


 指先が、僅かに震えた。


 項目の上部に記された名。


「……リーヴァ・ルミ……ナ?」


 リーヴァ・ルミナ。


 記述を、食い入るように読む。


 ――強力な神経毒。

 ――微量投与により、痛覚・神経反応を鈍化させる。

 ――長期使用で、身体機能を不可逆的に侵蝕。


 さらに下を追う。


 ――麻薬作用あり。

 ――依存性あり。

 ――解毒困難。


「……っ」


 息を吸うのを忘れていた。


 薬じゃない。

 治療じゃない。


 これは――

 “時間を削って、時間を買う”ための毒だ。


 リィナは、これを知っていて使っている。

 理解した上で、選んでいる。


「……そんな」


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 でも、ここで止まっている場合じゃない。

 彼女がどう使っているのか。

 どんな配合で。

 どこまで進行を抑えられるのか。


 ――まだ、何かある。


「……こいつが、どんな“薬”になってるのか……」


 僕は本を引き寄せ、次のページをめくった。


 救えるかもしれない。

 そう思ってしまった自分を、

 もう止めることができなかった。


 ♢


 高い天井まで伸びる書架の影が、夕刻の光に長く床へ落ちていた。

 蝋燭の火はまだ灯していない。

 昼と夜の境目――春の終わりを告げる、曖昧な時間帯。


 机の上には、開かれたままの書物がいくつも重なっている。

 毒草学、神経系薬理、古代植物誌。

 その中央に置かれた一冊だけが、他とは違う重さを放っていた。


 ――リーヴァ・ルミナ。


 紙面に描かれた挿絵は、畑で何度も見たあの草と酷似している。

 細く、柔らかな茎。

 淡い光を孕むような葉脈。

 一見すれば、どこにでも生えていそうな雑草。


 だが、記述は冷酷だった。


 《極めて強い神経毒性を持つ》


 《微量摂取により、感覚鈍麻と疼痛緩和を引き起こす》


 《継続摂取は、神経伝達の破壊を伴う》


 指先が、紙の端を強く押さえる。

 爪が白くなるのを自覚しながら、僕は読み進めた。


 延命。

 抑制。

 進行を遅らせる。


 ――治癒、という言葉だけが、どこにもない。


「……」


 喉の奥が、ひどく乾いた。

 これを、リィナは知っていたのだろうか。

 いや、知っているからこそ、あの草を選んだのだ。


 彼女は、分かっていて飲んでいた。


 延びる命の代わりに、確実に削られていくものがあると知りながら。


 それでも、彼女は畑に立っていた。

 誰に言われたわけでもなく、

 誰かに頼ったわけでもなく、

 ただ、自分で選んで。


 苦しいことも、怖いことも、

 全部分かった上で、それでも“今日”を生きるために。

 その姿が、どうしようもなく強くて、

 同時に、どうしようもなく脆かった。

 だからこそ、このまま見ているだけでいいのかと、胸の奥で何かが軋んだ。


 理解しているから、

 受け入れているから、

 救わなくていい――

 そんな理屈が、

 人の命の前で通用するのか。


 分からなかった。

 でも、分からないまま、

 目を逸らすことだけはできなかった。


「……それでも、か」


 呟きは、書庫に吸い込まれて消えた。


 ページを捲る。

 脚注。

 補遺。

 研究途中の走り書き。


 古い文献ほど、言葉は慎重で、歯切れが悪い。

 まるで、希望を与えないように、わざと曖昧に書いているかのようだ。


 そして――

 その中の一文に、僕の視線は縫い止められた。


 《魔力を媒介とした場合、毒性の一部を中和できる可能性が理論上示唆される》


 可能性。

 理論上。


 そのすぐ下に、追記がある。


 《ただし、実例は存在しない》


 《被験対象の肉体が耐えられず、実験は破棄された》


 破棄された理由は、詳しく書かれていない。

 死亡か、精神崩壊か、

 あるいは、それに準ずる何か。


 ただ一つ確かなのは、

「倫理的に不可能」とは書かれていないことだった。


 危険。

 未確認。

 再現不可。


 それだけだ。


 それはつまり、




 “やろうと思えばできる”という意味でもある。




 誰もやらなかったのか、やれなかったのか、

 やる前に止められたのか。


 理由は分からない。分からないからこそ、

 そこに隙間が生まれる。


 もし、


 僕がやるとしたら。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で、小さく何かが崩れた気がした。


「……でも」


 指先で、その行をなぞる。


 可能性がある。

 完全に否定されていない。

 理論上は――できる。


 それだけで、十分だった。


「何もしないよりは……」


 自分に言い聞かせるように、そう呟く。


 リィナの言葉が、脳裏に浮かぶ。


 ――一緒にいられたら、嬉しいなって思ってただけ。


 それは、縋りでも、願いでもなかった。

 ただの、事実。


 だからこそ、僕はそこに別の意味を重ねてしまう。


「……なら」


 彼女は、未来を拒んでいない。

 諦めているだけだ。


 それなら、

 諦めなくていい未来を提示することは、

 押し付けではないはずだ。


 選ばなければいい。

 拒否すればいい。

 逃げてもいい。


 その“選択肢”を、

 彼女に渡すだけ。


 そう考えると、自分がしていることは、

 ひどく理性的で、ひどく優しいことのように思えた。

 だからこそ、胸の奥に生まれた違和感を、

 意識的に無視した。


 これは救済だ。

 支配じゃない。

 犠牲でもない。


 ――そう、信じたかった。


 一緒にいられるようにすればいい。

 彼女が望まない未来を押し付けるのではなく、

 選べる未来を、増やすだけだ。


 そうだろう?


 彼女は、「救わないで」とは言っていない。

「生きる理由にしないで」と言っただけだ。


 ――救うこと自体を、否定されたわけじゃない。


 その理屈が、静かに、しかし確実に心の中で形を成していく。


 書架の奥から、さらに古い書物を引き抜いた。

 神代文字で書かれた、劣化の激しい一冊。

 ほとんどが神話と儀式の記録だが、その中に、異質な章がある。


 《魂と肉体の結合について》


 読み進めるごとに、背筋が冷えていく。


 《理論上、魂と肉体の結合は固定されたものではない》


 《極端な条件下において、その再構築が可能であると推測される》


 再構築。


 《ただし、術者の魔力と精神に極めて大きな負荷を与える》


 《成功例は記録されていない》


 成功例は、ない。

 だが――不可能とも、書いていない。


「……」


 ページを閉じる手が、少し震えた。


 思考加速の魔法を、いつの間にか解いていたことに気づく。

 もう、速く読む必要はなかった。


 必要な言葉は、すべて、ここに揃っている。


 魔力。

 媒介。

 結合。

 再構築。


 そして、可能性。


 リィナは、もう数えている。

 残された時間を。

 季節を。


 だったら――

 僕が、数えなくていい未来を作ればいい。


 それは、彼女の人生を奪うことじゃない。

 彼女の選択肢を、増やすだけだ。


 そう思わなければ、

 この手に掴んだ希望を、正面から見られなかった。


 リィナの顔が浮かぶ。

 畑で笑う顔。

 薬草を選ぶ横顔。

「大丈夫」と言う時の、少しだけ硬い声。


 あの表情を、もう二度と見なくて済むのなら。

 彼女が、痛みを隠す必要がなくなるのなら。


 それだけで、自分がどれほど壊れても、構わない気がした。


 それが“救う”ということなら、

 僕は、壊れる役を選ぶ。


「……大丈夫だ」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


「まだ、越えてない」


 線は、まだ見えている。

 踏み越えたわけじゃない。

 ただ、近づいているだけだ。


 書庫の窓の外では、

 夕焼けがゆっくりと色を失い、

 春の一日が終わろうとしていた。


 その時の僕は、

 この“可能性”が――

 救いの形をした地雷だということを、

 まだ、本当には理解していなかった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

エルはまだ、何も壊していません。

ただ、「もしかしたら」に手を伸ばしただけです。

それが救いになるのか、

取り返しのつかない選択になるのか――

答えは、まだ出ていません。

春は、もう少しだけ続きます。

もしここまでの物語で、

何か一つでも心に残るものがあれば、

ブックマークや評価、感想という形で

そっと教えてもらえると嬉しいです。

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エルがリィナの謎に迫っていく過程、引き込まれました。 この後どうなるかとても気になります。
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