01.二十七歳
幼い頃から、僕はとても弱い人間だった。
学校に行けばいじめられ、家でも罵声を浴びせられ暴力を振われる。
僕の家は所謂『旧家』と呼ばれるものだった。
「我が家の恥さらし」
「跡取りとしての自覚を持て」
旧家なりのプライドなのだろう。
こんな僕を見捨てず、習い事や塾に通わせてくれた。
そのおかげで、学校でのいじめはエスカレートしていった。
地元の子たちが集まる中学には行けなかった。
両親が進学校に受験をさせたからだ。
これでいじめから解放される。
そう安堵した。
だけど現実は甘くなかった。
中学だろうと、進学校だろうと、人間というものは変わらない。
中学生と言えど中身は子供、小学校の時と同じいじめが繰り返されることになった。
きっかけは些細なことだった、僕を好いていた女子に対してそっけない態度をとった。
たったそれだけの事。
彼女が僕のことを好きだったなんて知らないし、興味もなかった。
そこから僕がいじめられるまでそうかからなかった。
学校というコミュニティでは情報の伝達速度は恐ろしく早い。
SNSで晒され、誹謗中傷のコメントを書き込まれ、小学校の時受けていたいじめとは違った悪意の中に堕とされることになった。
僕は不登校を余儀無くされた。
行けばいじめられる。保健室登校もしてみたが体調がすぐに悪くなる。
母親は僕のことを一応心配はしてくれていたのだろう。
精神科の病院に連れていかれた。
催眠療法だの、薬物療法だの、その病院の先生が何を言っていたのかはもう覚えていない。
ただ、僕の状態にラベルが着いた。
『極度の鬱状態』
♢
薬を大量に出され、僕はどんどん身体が動かなくなっていった。
筋弛緩作用のある安定剤や睡眠薬を飲み続け、中学3年間を廃人のように過ごすことになった。
この頃からだ、両親がおかしくなっていったのは。
薬によって体が動かない僕を前に怒鳴り合う両親。
そして、本家の祖父母、分家の親戚連中。
今でこそ理解のある時代となったが、僕が子供の頃は精神疾患は「気の持ちよう」という考え方が一般的だった。
「なんで」「どうして」
「学校に行きなさい」「どうしてこんなこともできないの」
その言葉ばかりが僕を取り囲む。
僕を一人の人間ではなく、「家の跡取り」としか見ていない人たちばかりだった。
両親の仲がどんどん険悪になっていき、祖父母たちは僕をいないものとして扱い始めた。
僕の通っていた学校は中高一貫だった。
問題なく高校には上がれたが、出席日数が足りず留年ということになった。
そこで、両親は僕を山奥にある全寮制の学校に入学させた。
決して偏差値の高い学校ではなかったが、無理やり学校に行かせられる環境に僕をおきたかったのだろう。
そこではいじめはなかったが、身体が心についていけなくなった。
僕はそこで、『睡眠障害』という新しいラベルを付けられることになる。
登校できず、寮で身体が動かせなくなり、自主退学をせざるをえなかった。
そんな時、僕を拾ってくれたのが母の妹、叔母に当たる人だ。
叔母も鬱病と戦いながら看護師として働いていた。
僕のように、実家に追い詰められた人で、家出同然で嫁入りしている。
だが、鬱病同士、それも血のつながりのある人間が一緒に暮らすとどうなるか。
当然喧嘩になる。
僕は環境の変化で鬱が悪化し、パニックになるようになった。
叔母もおかしくなっていき、僕は叔母の家からも追い出されることとなった。
♢
行き場のない僕を拾ってくれたのは一回り上の知らない女性だった。
僕のことを家に住まわせてくれ、食事を出してくれる。
その見返りとして、僕は彼女の好きなように弄ばれる。
当時は、保険証も持っておらず、病院にも行けなかったので
薬を飲まなくなった代わりに体が動くようになった。
僕は一夜の関係を繰り返し、交際に至った女性のもとに身を寄せる。
そういうことを続けていた。
関係を持っていないと精神が安定しない。
所謂『性依存症』というやつだ。
こんなことを続けていても意味がない。
そんなことは頭では分かっていた。
だけど、身体と心がそれを許してはくれない。
何人の女性と関係を持ったのかは、もう数えるのも諦めた。
そんな中、何人目かの女性に言われた。
「もう20歳なんだから、いい加減自分一人で生活してよ。私、アンタみたいなヒモとこれからも一緒に居るなんて無理だから。」
そう別れを切り出され、僕は独りになってしまった。
♢
これからどうしようか、そう思い、街をふらついていた時だった。
「自立支援センター」という文字が僕の目に入った。
生きていてもしょうがないが、死ぬ勇気もない僕は、その施設へと足を向けた。
そこでは、生活相談員と名乗る人が色々と教えてくれた。
生活保護、障害者年金、自立支援、市営住宅…難しい言葉ばかりだったが、福祉が充実している地域、ということもあり手続きはスムーズに進んでいき、僕は自分一人で生きていくことになった。
家がすぐに決まり、生活保護費も支給された。
家賃8000円のボロボロのアパート。
2か月で15万の生活保護費。
生きる気力なんてなかったが、自立支援医療というものを申請し、また病院に通うことになった。
新しい病院の先生は優しく、検査を色々としてくれ、薬も調整してくれた。
僕のラベルに「ADHD、ASD、統合失調症」という三つが新しく追加されたが、何の感情も湧かなかった。
♢
それから、何度季節が移り替わっただろう。
これまでの人生。
僕は誰にも期待されず、望まれず、薬に依存し、税金を無駄遣いして、この命を繋いできた。
もう、疲れた。
病院にも行けなくなり、食事も摂れなくなり、僕はまた昔のような廃人になっていった。
身体に力はもう入らない。
時計を見るとデジタル表示で僕の誕生日が示されていた。
僕は、27歳になった。
それと同時に、もう目覚めることはなかった。
これは、誰かを救う話ではなく、
生きてしまった人間の話です。
この物語は、「それでも生きる」という選択を否定しないために書きました。




