廃アパートに囚われた少女 後編
いきなり見ず知らずの女性に注意されてしまった日明であったが、この女性は一体何者で、何故ここにいるのかという疑問で頭が一杯だった。
対する静香は何も反応を示さない学生であろう青年を訝しく思う。一人で胆試しは無いとは言い切れないが、珍しいのは確か。もしかして別の目的があるのかも知れないと思い始めていた。
お互いにお互いを怪しく思い、お見合い状態が続く。街灯と遠くからの町の明かりで真っ暗闇とはいかないが薄暗い中、廃アパートの前で見詰め合う男女という構図は怪しさ満点である。
「あの、俺は左雨 日明と言います。貴方は誰で、何で此処にいるんですか? 」
取り合えず名前を名乗り、そっちこそ何でこんな所にいるのかと、日明は静香に問い掛けた。遊びで来るような場所ではないのは分かる。ならこの女性はちゃんとした理由で来たんだよな? という挑発にも聞こえる。
「左雨君ね、私は斉藤 静香よ。ここへは、まぁ、あれよ。ちょっと用があってね。それよりも早く帰りなさい。親御さんも心配しているわよ」
友達の霊がこの廃アパートに囚われていて、訪れた者を追い返しているから、アパートから開放するために来たなんて言ったら、十中八九頭のおかしい人間と思われてしまう。そう考えた静香はただ言葉を濁すばかり。
(なんだこの人、スーツを着ているから会社帰りなんだろうけど、会社帰りにこんな所に寄るか? でも、アリアの事は見えていないようだし、普通の人間なのかな? )
(もう、何なのよ。早くどっか行きなさいよ。もしかして私を不審者かなんかと思ってるんじゃないわよね?)
また気不味い沈黙が流れるかと思ったが、ふとアパートへ目を向けた静香は入り口に一人の少女の姿を見た。
「カナちゃん!? 」
思わず叫んだ静香に日明は驚き、後ろを向く。そこにはアパートの中へ走り去って行く少女の後ろ姿があった。
「まって! 私よ! 静香よ! 」
少女の後を追って廃アパートへと走る静香に、日明は何が何だか分からない。とにかくあの少女は噂の廃アパートの幽霊なのか確かめなくてはと、静香の後を追う。
廃アパートの共同玄関であろうポストが並ぶ空間で、静香は少女と対面していた。あの日から変わらない姿に、一時も香苗を忘れることが出来なかった静香には、彼女が香苗本人であると確信に至るのは容易いことだった。
『此処へは来ては駄目。早く帰って! 』
噂通り、少女の霊―― 香苗が静香を追い出そうとする。すっかり大人へと成長した姿に、静香とは気づいていないようだ。
「カナちゃん、私よ…… 静香だよ。ゴメンね、私だけ助かって…… ゴメンね、私のせいで…… 一緒に此処から出よう? 一緒に、帰ろ? 」
香苗は驚いた顔でまじまじと静香の顔を見る。昔の面影が残っていたのか、彼女が静香本人であると気付いた。
『しずちゃん? ほんとにしずちゃんなの? …… そっか、私が死んで随分と時間が経ったのね。しずちゃん、もうすっかりと大人の女性だ』
香苗は優しく頬笑み、静香の無事を喜んでいる。昔となんら変わらない香苗のその様子に、静香は心を痛めていた。
「ゴメンね、私がこんな所に来ようなんて言わなければ…… カナちゃんだって大人になる筈だったのに、私のせいでこんなことに…… 」
『大人になってもあんまり変わらないね。昔のしずちゃんのまんま。気にしないで、しずちゃんのせいじゃないから。誰もあんな事になるなんて思わないよ。だからもう帰って、そして二度と此処へは来ないで、お願い…… 』
「そんなの出来ないよ! 今まで忘れることなんて出来なかった。帰るのなら、カナちゃんと一緒じゃなきゃ嫌よ! 」
『無理なの…… 私は此処から出られない。出して貰えない。あいつはこのアパートに、あの部屋に、他人が入ることを極端に嫌がるの。何をしてくるか分からない、危険なのよ。だから帰って、しずちゃんに出来ることは何もないの! もう放っておいて、じゃなきゃ、何のために私が此処に残ったのよ…… お願いだから、私の死を無駄にしないで』
悲しそうな表情を浮かべて香苗はゆっくりと消えていった。
「カナちゃん!? 待って! 」
慌てて手を伸ばすが、静香の手は何も掴めずに空を切る。香苗の言った何も出来ないという言葉に静香は打ちひしがれる。事実、静香には何も策もなく、何も出来ないのだから。ただ悪戯に知らなくても良い現実を香苗に見せ付け苦しめただけ。静香は己の無力を嘆いた。
「あの…… 大丈夫ですか? 」
後ろから声をかけられた静香は、そういえばもう一人いたんだったと気付く。一部始終見ていた日明も状況が分からず、戸惑っていた。噂の少女の霊と静香と名乗る女性が何やら知り合いのように話していたのだから。アリアと言葉を交わせない日明にとって、それはひどく羨ましい事のように感じたのだった。
「貴方にも、あの子の姿が見えてた? 」
そう聞いてくる静香に、日明は頷いて答える。それを見て静香は小さく自嘲する。
「なら話も聞いていたでしょ? 私とあの子―― カナちゃんとは友達だったの。でも、私のせいでカナちゃんは死んでしまった。いえ、殺されたのよ…… 三○四号室の男に」
過去の過ちを懺悔するかのように、ぽつりぽつりと語り出す静香に、黙って聞くしかない日明は大体の事情を理解した。
「成る程、全ての元凶はその三○四号室の男だという訳か。それで、静香さんはどうするんですか? 」
「…… 分からないわ。カナちゃんを此処から出してあげたいけど、どうすれば良いのか…… 」
日明としては、幽霊を見たということで目的は果たした。もう此処に用は無いのだが、話を聞いてしまった手前、はいさよならとはいきづらい。どうしたものかと頭を悩ましていると、アリアがじっと、その黒いクレヨンで書きなぐったかのような二つの穴で日明を見詰めてくる。
「もしかして…… どうにか出来るのか? 」
そう聞いた日明にアリアは大きく口角を上げて、コクりと頷いた。マジかと思っていたのは日明だけではなかった。独り言のように呟いた日明の言葉は静香にも聞こえていたのだ。
「ねえ! どうにか出来るって言ったわよね! それは本当なの!? 」
初対面の人間に頼るのはどうかと思うが、静香には手段を選んでいる場合ではなかった。藁にもすがる思いで日明に詰め寄る。
「ま、まぁ、確証はないけど、たぶん大丈夫だと思う」
何とも頼りない言葉だが今の所、日明を信じるしか静香には残されていない。だが不安も大きいのも事実。当時の噂では三○四号室に出る男性の霊は、何人もの霊能力者を退けてきたのだと言う。そんな強力な悪霊をただの大学生である日明に祓えるのだろうかと疑問は尽きない。
日明自身も不安であった。でもアリアが出来ると言うのだから信じる他ない。静香に協力する必要も義理も無いのだけど、このまま帰ってしまえば、何だか気になって夜も眠れそうにないと思った。目付きが悪いと定評のある日明だが、根は小心者である。そして一度同情してしまった相手を見捨てる事が出来ない人間でもあった。
二人は一株の不安を抱きつつ三階へと上がる。壁は所々ひび割れていて今すぐにでも崩れそうな雰囲気だ。幽霊以前に単純に危険な場所である。こんな所に肝試しにくる連中は色んな意味で胆が据わっていると、自分の事を棚上げして思う日明だった。
三階に上り、左手に部屋が連なる廊下を懐中電灯で照らしながら歩く。奇しくもあの時と似ていると静香は思う。
(でも状況は違う。今度は遊びなんかじゃない、絶対にカナちゃんを此処から出すんだ。じゃないと私は…… 私も、此処に囚われたままだ)
十年もこの廃アパートの事で苦しんできた。ある意味、静香もこのアパートに囚われているのかもしれない。香苗を解放することで、自分も救われると確信めいたものを静香は感じていた。
廊下の半分ほど進んだ所で、二人の前に一人の少女の霊が立ち塞がった。
「…… カナちゃん」
『ねぇ、私、帰ってって言ったよね? どうして言うことを聞いてくれないの? どうしてここまで来ちゃうの? 私が…… 私が! 何のために! ここに残ったと思ってんのよ!! あんたがここで死んだら、無駄死にじゃん! 帰ってよ! お願いだから…… これ以上私を苦しめないで…… このままじゃ、私、しずちゃんを恨んでしまう』
苦悶の顔で帰れと訴える香苗の姿に、静香の胸は罪悪感と哀しみで張り裂けそうになる。
「一緒に帰ろう。大丈夫、此処から出る方法はあるよ」
『そんなものはないよ!! 私だって此処から出たいよ、おうちに帰りたいよ、でも無理なの。何度も試したけど、見えない壁に阻まれて外に出れない。私だって、死にたくなかった。しずちゃんと一緒に大人になりたかった。でももう出来ないの! 私にはもう、何も出来ないのよ!! お願い…… 今のしずちゃんを見ていると、恨みたくなっちゃうの。あんたのせいだと、私が死んだのも、私が此処から出られずに苦しんでいるのも、全部あんたのせいだと恨みたくなるの! 』
自分が救った静香がちゃんと大人になるまで過ごしてきた事に安堵したと同時に、当時のまま何も成長出来ていない自分と比べて、香苗はどうしようもない気持ちに苛まれる。私がこんなにも苦しんでいるのに、それなのに…… ズルい―― という気持ちが香苗に芽生えてしまったのだ。
自分の言いようもない気持ちに苦しむ香苗に、静香はゆっくりと近づき、その手を取った。はっと見上げる香苗の目には、両目から大粒の涙を溢す静香の顔が写る。
「ゴメンね…… 私だけ生きて、私だけ大人になって…… 私も、カナちゃんと一緒に、大人に、なりたかった。私も、カナちゃんと、一緒に、いたかったよぉ…… 」
ボロボロと泣く静香に、香苗の目にも涙が溢れ、小さな嗚咽が次第に大きくなり、声を荒げて泣き始めた香苗を静香は抱き締め共に泣いた。
物凄い場違い感で居心地が悪い日明だったが、三○四号室の扉が少しだけ開いて、その扉から誰かが覗いているのが見えた時、不快感を与える声が耳に届く。
『うるせぇなぁ~、人ん家の前でぎゃあぎゃあとよぉ。さっさと出てけよ、それが出来なきゃ死ね! いや、ぶっ殺してやるよぉ』
静香と香苗はその声に抱き合ったまま体を縮こませる。その様子に男の霊は扉から顔を出しニヤリと笑う。生理的嫌悪感を抱かせる不気味でおぞましい笑顔だ。その笑顔を向けられる度に香苗は死んだ後も恐怖に縛られ、男の言いなりになってこのアパートに来る者達を追い払っていたのだ。
だが、そんな男に向かっていく者がいた。それはアリアだ。猛スピードで飛んでくる生首のアリアに、男はひぃ! と声を漏らし扉を閉める。
だけどアリアは自分のプラチナブロンドの髪を伸ばし、扉の隙間から髪を差し込み、力ずくで鍵を外したのだ。ただの髪で鍵の掛かった扉を無理矢理こじ開けるという、理解しがたい現象を起こしたアリアは、勢いよく三○四号室に入っていく。
それを唖然と見ていた日明だったが、ハッと我に返り、急いでアリアの後を追う。
「待って! あれは何なの!? ていうか、危険よ! 」
三○四号室に向かう日明を静香は止めた。男の霊がいる部屋に、それ以上に危険な雰囲気を漂わせる生首の女性が入っていったのだ。だけど日明は何でもない風に答える。
「いや、アリアを一人には出来ないよ」
そして、躊躇する事なく三○四号室へと入っていった。
部屋の中で日明が見たのは、男とアリアが向かい合い、アリアに向かって男が何やら叫んでいた。
『ここは俺の部屋だ!! 余所者が入るんじゃねぇ! 出ていけ! 俺は絶対に此処から離れねぇぞ!! 俺の部屋だ、俺の場所だ、誰にも渡さねぇ、誰にも奪わせねぇ、皆殺してやる。殺してやるよぉ!! 』
何が男をここまでさせるのか日明には理解でないが、このアパートに、部屋に、異常なまでに執着しているのは分かる。病的と言ってもいい。まともな会話は出来ないだろうと日明は顔をしかめる。
尚も男が唾を飛ばし、充血した目を剥きながら喚き散らしている中、アリアは部屋を埋め尽くさんとばかりに髪を伸ばし始めた。伸びた髪は壁と床を崩し、男の体を絡めとる。
『ひぃ!!! や、止めろぉ! お、俺は此処から出ねぇぞ! 悪いのはあいつらだ! 勝手に入ってきたあいつらが悪い! 俺は悪くねぇ!! 』
アリアの髪に縛り上げられても、男は喚くのを止めない。更に髪を伸ばし、部屋の中はアリアの髪に埋め尽くされる。そして壁と床を突き破り、部屋は崩れていく。幾ら脆くなっているとは言っても髪の毛でコンクリートを突き破るとは、アリアもまた異常な存在であった。
『お、俺の部屋がぁ! へ、部屋がぁ!! 』
男の怒りと絶望が籠った叫びが日明の耳に届いた時、三○四号室は完全に崩れた。それを皮切りに二階と一階の部屋も崩れ始めていく。
静香と香苗は崩れていく廃アパートの部屋を外から見ていた。日明が三○四号室に入り、少しした所で揺れを感じたので脱出を試みたのだ。日明を置いていくことに多少の抵抗は覚えたが、自分ではどうする事も出来ないと思い、そのまま逃げる事を選んだ。
アパートの共同玄関まで下りてきた二人は、一旦立ち止まる。香苗の話だと此処から先は見えない壁に阻まれて外に出れないと言うのだ。心配そうに香苗は静香の手を強く握ってきた。静香もそれに応えるように強く握り返し、香苗の手を引き意を決してアパートの外へ出る。
まるで最初から何もなかったかのようにするりと玄関を通り抜け、外に出ることが出来た。余りにも呆気なくて拍子抜けする程である。大きな音が聞こえ、アパートの方へ振り向くと、三○四号室と下にある部屋も崩れていく。長年に渡って二人を苦しめていた廃アパートの部屋が崩れる様子を、崩れた後も、二人は目を逸らす事なくずっと見詰めている。
終わりは唐突に訪れた、いや、彼女達にとっては始まりだろうか。半分以上崩れ去った廃アパートを二人は眺めていたが、静香は、あっ! と声を上げて思い出す。部屋にいると思われる日明は無事なのだろうか? 心配している静香の隣から香苗の声が聞こえる。
『外だ…… 私、出られたんだ。アパートも崩れたし、もうあそこにいなくても良いんだよね? 』
「うん、そうだよ、カナちゃん。もう、私達を苦しめるものはないんだよ。だから、一緒に帰れるね」
『うん…… うん、ありがとう、しずちゃん…… 私、帰れるだね。ありがとう』
香苗の姿が徐々に薄くなっていく。その様子に焦る静香であったが笑顔で嬉し涙を流す香苗に、別れが近い事を悟った。姿が消える瞬間まで、ありがとうと言う香苗に静香は、
「こっちこそ、ありがとう。私を守ってくれて…… 私と友達になってくれて、ありがとう」
完全に姿が消えた空間に呟く言葉は、香苗に届けるかのように夜に吸い込まれていった。
「あ~、吃驚した。部屋を壊すんなら事前に知らせて欲しかったね」
瓦礫の上でアリアに苦言を呈する日明であったが、それは無理な話だと、アリアは困り顔を浮かべる。
「しかし、アリアは結構な力持ちなんだな。部屋は壊すし、俺を持ち上げられるんだから。お陰で助かったよ」
日明に頭を撫でられ、アリアは上機嫌に口角を上げる。部屋が崩れる中、日明を髪で持ち上げ脱出したので、怪我をする事はなかった。
「そういえば、あの男の霊はどうなったんだ? 」
そう問い掛けても、アリアは頬笑むだけで何も話さない。結局どうなったのかは分からずじまい。それでも、もうあの男性の霊とは会わないだろうなと日明は感じていた。
「良かった! 無事だったのね」
崩れた瓦礫の方から歩いてくる日明を見付けて、静香はホッと胸を撫で下ろす。これで死んでいたらまた夢見が悪くなる所だ。
「散々な目にあいましたよ。静香さんの言う通り、遊びでくるような場所ではありませんね」
日明の飄々とした様子に静香は安心半分、呆れ半分の溜め息をつく。
「少女の霊は、どうなりました? 」
「大丈夫、外に出られて喜んでいたよ。もう消えちゃったけど、カナちゃんの分までお礼を言わせて。ありがとう」
日明は最初、キョトンとした顔をしていたが直ぐに、「そうですか」と何事もない風に装う。それに少し違和感を覚えた静香であったが、特に気にすることはなかった。
帰り道が逆な二人は、駅のホームで別れる。
「今日は本当に世話になったわ。縁があったらまた会いましょう」
「そうですね、縁がありましたなら」
踵を返し颯爽と歩く静香の隣で、あの少女の霊が日明に向かってお辞儀をした後、静香に寄り添い歩いていった。
何故、少女の姿が日明に見えて静香には見えなくなったのか? 何故、アリアが扉を壊した時、静香にもアリアの姿が見えたのか?
(もしかして、彼女達には任意に姿を見せたり、見えなくしたりと出来るのかも知れない。それか、あの廃アパート自体が何か特別な場所だったのでは? )
答えは出ない日明だが、ひとつ確かなものがある。それは、静香がアリアの姿を見た事で、日明の妄想や幻覚の類いではないとハッキリとした。それだけが分かっただけでも廃アパートに行った意味がある。
だけどもう心霊スポットはいいかな、そう思い電車に乗る日明の横で、アリアは明日の朝食の献立に悩んでいた。




