90 ちょっと田んぼの様子見てくる
「ふああ。よく寝たのじゃ……」
イナリは、小屋の窓から外を眺めながら伸びをする。
昨日、田を作るという労働を記憶を頼りにではあるものの、見事達成したイナリは、達成感に浸りながら快眠を得たのだ。
その甲斐あって、目覚めも実に素晴らしい。きっといい日になるだろう。
「ひとまず、雨雲はそろそろ撤収させてよかろ」
イナリは空に手を伸ばしてぶんぶんと振って風を操作し、寝る前に作った雨雲を霧散させた。
イナリの風を操る能力は、風刃として運用する分には体力を消耗するが、本来の用途として使う分には全くデメリットは無いのだ。
雨雲が消えて空が晴れると、葉に滴る水が日に当たってキラキラと反射している。遠くからは鳥のさえずる声や虫が鳴く音が聞こえる。
「……やはり自然に囲まれるのは素晴らしいことじゃ。きっと今日は良い日になるのう!」
心地よい朝にテンションが上がっているイナリは、草履を履いて小屋の横に作った畑を確認しに行く。
イナリの力によって成長速度が加速させられた作物たちは既に発芽を終え、中には花を咲かせ始めているものもある。
「ふむ、順調じゃな。しっかり育つのじゃぞ!」
そこまで広くない敷地に、無理やり買った種を全部植えてしまったが、特に問題は無いことを確かめ、イナリは笑顔になる。
作物の横にしゃがみ込んで、一通りうまく成長していっていることを確認したところで、イナリは立ち上がって周囲を見回し、一言呟く。
「……さて、そろそろ現実を見るとするかのう」
イナリの家の周りには、昨日寝る前の倍ほどにまで成長した木々が聳え立っている。当然イナリには、その原因に心当たりがある。……自分である。
「……とりあえず、成長速度は最低に戻しておくかの……」
イナリは成長促進度を最低に戻す。尻尾を確認すれば、四本あった尻尾が一本まで減っている。
「……これ、マズい、じゃろうか……。マズいじゃろうなあ……」
イナリは頭を抱えてその場をぐるぐると歩きまわる。
「この世界の木、成長の限度がよくわからぬ……!」
イナリがヒイデリの丘を魔の森へと変貌させてしまった理由の一つは、木々をはじめとした植物たちがどの程度まで成長するのかがわかっていなかったためである。
今こうして、魔の森の環境を悪化させてしまったのも、結局のところ、これ以上魔の森の木々が劇的な成長を遂げることは無いだろうと踏んでいたからである。
そういう理由もあって、ウィルディアとリズと共にこの森を歩いた際の会話をもとに、さほど大きな影響は出ないだろうという範疇で成長速度促進を使った結果が、目の前に聳える木々である。
今までの時点でも森の景色は木々に光が遮られて仄暗かったが、今はもっと暗い。多分、松明とかが無いと移動に支障が出そうなレベルである。
「……他の場所もこのような状態になっておるじゃろか?うーむ、あまり迂闊に動くと危なそうじゃな……」
理由こそよくわからないが、この前ここに来たチャラ男パーティが騒いでいたように、イナリの家を中心とした一定範囲には魔物が入ってこないようになっている。
そのため、魔物がうろつく地帯がどのようになっているのかが、イナリの家の周辺からは窺い知れない。
だが、何もわからないかと言ったらそういうわけでもない。イナリの今までの経験や聞いてきた話からするに、間違いなくトレントが活発化していることは明らかである。
そんなわけで、迂闊に動いたら、イナリから流れ出る力に釣られたトレントに取り込まれかねないだろうという予測が立てられるのである。
「と、とりあえず、我の田の様子を見るとするかの」
イナリは再び現実逃避をすることにした。恐らく、イナリが田を作った場所、イナリの家側の川辺は、ギリギリ魔物が入れない範囲に入っているはずだ。
「やはり、川までの道を拓いておいたのは英断であったのう」
イナリは川まで繋がっている道を歩く。先ほど家の周りを見ていた時と同様、木々の間は暗闇である。
ただ、道を作っていたとはいえ、道草はしっかりと伸びているため、それをかき分けることを余儀なくされる。身長が低いイナリには少々辛いところだ。
そんなこともありつつ、しばらく道を歩いて川まで着くと、イナリはまず、川の様子を確認する。見たところ、木の根が川まで伸びて、少し川の形が変化してしまっている。
「ふむ、ちとばかし川の流れが変わってしまったようじゃが、我の田に影響は無さそうじゃな!さてさて、オリュザは育っておるかのー?」
家の横の畑に植えた作物とは違い、田というものをまるで知らないイナリは、自分がしたことがどの程度うまく行っているのかとワクワクしながら田をのぞき込む。
「……何じゃつまらぬ、何も生えておらんのじゃ……。何か間違えたじゃろうか?」
イナリの成長促進の権能があれば、多少の問題であれば踏み倒せると踏んでいたが、どうやら何かうまく行っていないようだ。一体何が原因だろうか?
「うむむ、ひとまず、これは後で考えてみるとするかの」
イナリは気を持ち直して周囲に目をやる。かつて川の対岸にゴブリンがいたように、恐らくここからならば、比較的安全に魔物の姿を捉えることが出来るはずだ。
「どれどれ、何者がおるかや……?」
イナリは遠くを見るような動作で川の向こうを確認する。
「……ふむ?」
一見、ただ川に沿って森が広がっているように見えるそれは、よく見ると全てがトレントであった。その証拠に、小刻みに根が足踏みするように動いているのがわかる。
それに気づいたイナリは、目線を水平に動かす。するとそこに広がっていたのは、魔物たちが近づける限界ギリギリの場所まで、びっしりと埋め尽くすようにトレントが広がっている景色であった。
「ふむ。見なかったことにするのじゃ」
イナリは黙って踵を返し、家へと戻ることにした。
エリック達が全部なぎ倒してくれることに期待しよう、そう思いながら。
「ともすれば、我が家に皆が来た時にすぐにもてなせるように、準備をしてやるとするかの」
幸い、川までは来ることが出来るので、お茶を淹れるために使う水は確保できる。食事も作物やブラストブルーベリーがあるので問題は無いし、最悪、森の浅い部分でキノコや木の実が確保できるだろう。
そんなことを考えながら、イナリは先ほど歩いて来た道を引き返して家へ向かう。
「それにしても、我の田は何故うまく行っておらぬのじゃろうか?今までにこのようなことは無かったはずじゃが……。うーむ、これは我の沽券に関わるのう」
豊穣神であるイナリをもってしても育てられない植物等存在しない、そう自負しているイナリにとってこの問題は重要だ。
しかし、田に関する知識は大してないため、答えの出ない問答に悩みながらそのまま歩き続け、イナリは草履を脱いで小屋へ上がる。
「ふぅ、ひとまず茶を淹れて落ち着くとするかの」
イナリは種が入っていた小箱と、オリュザの種が入った箱が詰まれている場所の隣にある、イナリが予め摘んで乾燥させておいた茶葉をつまみ取る。
「……む?」
イナリは小箱を二度見する。
「……いや、まさかのう……」
イナリの脳裏によぎる一つの可能性に、恐る恐るオリュザとラベルがついた箱を手に取って中身を確認する。
そこにはぎっしりとオリュザの種が入っていた。
「……なるほどのう……」
イナリの悩みはあっけなく解決した。理由は単純、田を作ることに満足してしまったため、種を植えていなかったのだ。
「………」
イナリは一つ深呼吸すると、無言で立ち上がり、お茶に使う湯を沸かすために、火打石と短剣を手に取って外に出た。心なしか、普段よりも火をつける動作に力が入った。




