53 一尺は大体30センチ
「おーい、大丈夫かや?」
イナリは女性の横にしゃがみ込み、何度か頬をぺちぺちと叩いて反応を待ってみた。しかし彼女はうんともすんとも言わない。
「……死んだりしておらんじゃろうな……?」
彼女が倒れたとき、ものすごい音がしたので、打ちどころ次第では大変なことになっている可能性もないとは言いきれない。
冷静に彼女を観察し、呼吸をしていることを確認する。ひとまず、ただ気絶しているだけのようだ。
見たところ、エリスと同年代くらいだろうか。暗くて見えにくいが、胸には「アリエッタ」と書かれたプレートが付けられている。これが彼女の名前であろう。
「うーむ、どうするかのう」
もとはと言えば、酒場で食事をとれないかと思っていただけなのだが、一体どうしてこんな面倒なことになっているのだろうか。
「奥に他に、誰かおらんじゃろか」
イナリは立ち上がり、事務室の方へと足を運ぶ。
こちらもまた暗く、先ほどまでアリエッタが作業していたであろう、事務室の中央辺りの机の上が魔力灯か何かの明かりで照らされているのみで、他には誰もいなさそうだ。
机の上には大量の書類と「アリエッタ」と書かれた札が置かれていた。どうやら激務に追われていたようだ。
「お腹が空いたとはいえ、流石にあやつを放置するわけにもいかぬよな。面倒じゃが、ここまで運んでやるとするかの」
他に誰かいれば事情を話して手伝ってもらえば済む話だったのだが、どうやらイナリ一人で解決するしかないようだ。
イナリは再び受付カウンターの方へと戻り、倒れているアリエッタの頭の方へと立ち、両脇を抱える形で持ち上げて引っぱる。
「ぐっ……。ふう……。こやつ、結構重くないかの……?」
イナリが力を振り絞って移動した量は、大体一尺くらいだろうか。同じことをあと五十回近くやれば、きっとアリエッタの机まで運ぶことが出来るだろう。
ついでにアリエッタの名誉のために言っておくと、イナリが非力なだけで、アリエッタの体重は標準的なものである。
「これはちと手こずりそうじゃな……。ふんっ!」
イナリは一人呟きながらも、頑張って事務室の方へとアリエッタを引きずっていく。
きっと傍から見たら、死体を隠蔽する人の行動にそっくりであると評されそうな光景になっていることだろう。
わずかな光源に照らされ、静かなギルドの中にイナリの力を振り絞る声が響き渡る。
十数分後、イナリが三十二回目の移動をすると、ようやく大体半分くらいのところまで到達した。
「ふう……。ようやく終わりが見えてきたのう……」
一度イナリは立ち上がって汗を拭い、己の来た道を見返す。歩けば十秒もかからない距離だが、ここまでの事を考えると感慨深いものがあるというものである。
というか、今の状況をもたらした根本的な原因は自分であるとはいえ、流石にそろそろ起きてくれないかなとイナリは願いつつあった。
「さてと、残りも頑張るとするかの」
「なあ、何を頑張るのか聞いても良いか?」
「ほわああああ!?!?」
さあ頑張るぞと意気込んで腕をまくり、アリエッタの脇に腕を入れたところで、突然後ろから男が話しかけてきた。
イナリは、驚きのあまり耳や尻尾をブワっと逆立てて後ろを振り返る。
後ろにいたのは、この街の冒険者ギルドのギルド長である、アルベルトであった。
イナリは驚いた拍子に持ち上げていたアリエッタを落としてしまったが、そこまで持ち上がっていなかったので、問題は無いだろう。多分。
それにも気づかず、イナリはアルベルトに対して問いかける。
「どどどどどど、どこから来たのじゃ、いつから!?」
「いや、割と前からずっとここにいたぞ。そうだな……多分狐っ子がアリエッタを引きずって事務室の扉をくぐったところからだ」
「な、なんと……八回目の試行の時には既に見ておったのかや」
「いや、回数は知らないが」
「というか、見ておったのなら代わりに運んでくれても良いではないか!?我の今までの努力は!?」
「いや、一応こっちはアリエッタの悲鳴を聞いて不審者だと思って自室から出てきたんだから、仮にも不審者を助けるわけが無いだろう」
「……それは確かにそうかもしれぬな」
「だろ?」
よく見るとアルベルトの腰には剣が差されている。もし不審者であったらあれでバッサリといくのだろう。あるいはグサリと、かもしれないが、そこにさしたる違いはないだろう。
そして何より、今はアルベルトがこうして話しかけて来ているが、もしかしたら問答無用でイナリがバッサリといかれていたまであるのだ。その事実に気がついたイナリは内心動揺した。
「で、今度はこっちが質問する番なんだが……こんな時間に本当に何してるんだ?狐っ子の冒険者カードの職業欄が気に入らなくて偽装しに来たとかか?」
「なわけなかろう!我はここの酒場で何か食べられないかと思ってここに来ただけじゃ!」
「それはそれで意味不明だな。今は子供は寝る時間だし、深夜に子供一人で出歩くなんて攫ってくださいって言っているようなもんだぞ」
「子供ではないのじゃ。それに、お腹空いたらそれはしょうがないじゃろ」
「マジかよ、優先順位が狂ってやがる……」
エリスがイナリに用意してくれたクッキーは食べつくしてしまったし、家の中は暗くて料理などできようもなく、満足に食べようと思ったら外に出るしかなかったのだ。
しかし、身の危険より食欲が勝るイナリの理屈はアルベルトに通用しないので、イナリの返答に頭を押さえる。
「というか、よく保護者が許したな……。あ、そうか、狐っ子の保護者のやつらは依頼で出払ってるのか。そういえば、リーゼが昼間に様子を見に行くとか言ってたか?」
「あやつは今はおらんのかや」
「リーゼは普通に退勤している。狐っ子がこんな時間に外出するなんて誰が思うか」
「まあ、言っておらぬしな」
「そういう問題じゃないと思うが。まあ、狐っ子が来た理由はわかった。それで、飯を食いに来てどうしてギルド職員が気絶する羽目になっているんだ。あの悲鳴は何だったんだ?」
「いやあ、それについては我からも何とも。事故のようなものなのじゃが、我がこやつを気絶するほど驚かせてしまったようじゃな」
「はあ……。まあ、一回休憩室に運ぶか。元々夜勤を避けていたきらいがあったのはこういうことだったか……」
「こやつ、相当な小心者じゃな」
「まあ、この様子を見るに幽霊とかそういうのが苦手なんだろうな」
「幽霊なんてただその辺をふよふよしてるだけで無害なものじゃがなあ。一体何を恐れているのやら」
「……その認識はそれはそれでどうなんだ?」
「いや、実際に見てみたらそういう感想になるのじゃ。ほら、そこにも」
イナリは事務室の角の方へと指を向ける。
「え、いるのか?ここに!?」
「まあとりあえず運ぶのじゃ。我は疲れたので後は頼むのじゃ」
「なあ、答えだけ教えてくれないか!?」
動揺するアルベルトの声をよそにイナリはその辺の椅子へと腰かけた。
アリエッタを休憩室のベッドへと運び終えたアルベルトは、イナリと共に酒場のテーブルについた。
そして、アルベルトは料理が出来ないので、適当に厨房にあったパンを持ってきてイナリに与えた。
「その、さっきの話は本当なのか?」
「ふふふ。揶揄っただけじゃよ。別にあの場所にはおらぬし、ここ最近見た覚えはないのじゃ。それに本当に無害なものじゃから、恐れることなどないのじゃよ」
パンをもぐもぐと齧りながらイナリはアルベルトの質問に答えた。
イナリは、地球に居たころは幽霊を年に一度くらいの頻度で見かけていたが、本当にただふよふよとしているだけで無害なものであった。
イナリの記憶をたどると、住んでいた社の周辺が都市化する前の方が幽霊を見る頻度は高かったかもしれない。たまに現れた幽霊が漂う様子を一日中眺めていた覚えがあるのだ。
そして、都市化が進んでからは、夜中に何だか大掛かりな機材を持って神社に来ては「うわ~不気味ですね~」とか、「幽霊の恨む声が聞こえます……」とか言ってワチャワチャと騒ぐ団体の方が多くなってきていた気がする。
正直、そっちの方が、神であるイナリを侮辱している分、幽霊の一千倍は迷惑だった。
「全く、洒落にならない嘘は勘弁してくれ……」
「悪いのう、少し悪戯心が働いたというかの。許してほしいのじゃ。ところでこれ、美味しいのう!代金は如何ほどじゃ?」
「あー、銀貨一枚と銅貨二十五枚だったかな」
「……美味なのは良いのじゃが、ちと、高くないかの?値切りとかできぬか……?」
「狐っ子の振る舞いが良ければ奢ってやったりしたかもなあ」
「……」
イナリは黙ってパンをもうひと齧りした。




