454 我が我を見つめてました
無限とも思える悪夢の連鎖に苛まれていたイナリは、部屋に差し込んだ朝日で目を覚ます。
「んう……朝、か……?」
イナリがまずしたことは、この朝日が現実のものか疑うことだった。光を直視すると確かな眩しさが感じられたので、一旦は現実と判断する。
次に、傍で見守ってくれているエリスの顔を見る。
「おはようございます、イナリさん」
「お主は……現実のエリスかや?」
「はい、現実のエリスです。……時々うなされていましたが、夢の中の私が何かしましたか?」
「うむ。我を足から食べたり、我を庇って死んでしまったり、我と一緒に心中したりとかしたのじゃ」
「かなりやりたい放題してますね……」
「そうでもないのじゃ」
現実のエリスも大概イナリのことをやりたい放題しているから、というのは言わないでおいた。
ともかく、今会話している相手が現実のエリスだと確信し、言葉にしがたい安心感を覚えたイナリは、彼女の手を握って温度を確かめた。
「くふふ。寝ていただけなのに、とても疲れてしまったのじゃ」
「そうでしょうね。まだ熱も下がっていませんし、今日も安静にしましょうね」
「うむ」
エリスはイナリの前髪をそっとかき分け、冷たい水を飲ませてくれた。悪夢の後ということもあり、とても穏やかな時間に感じられる。
「それで、その。そんなイナリさんに告げるのは憚られるのですが」
「……何か、あったのかや?」
「はい。その……これからするのは現実の話です。落ち着いて、心の準備ができたら左手をご覧ください」
「何じゃ、その不穏な前置きは?」
イナリはエリスの言葉に苦笑しつつ、特に身構えることもなく反対側を見て――絶句した。
「んな」
そこには、イナリが居た。「それ」は、ベッドで眠るイナリを静かに見下ろしている。
「え、なん……え?誰じゃこやつ?」
「もちまるです」
「は?」
「意味が分からないとは思うのですが、もちまるが、イナリさんになってて……」
「???」
混乱するイナリを前に、もちまるが文字盤を掲げ、順番に文字を指さしていく。よく見ると指の関節の曲がり方が変だし、指の長さも僅かに不自然な形で伸縮しているように見える。
『あるじ まね せいこう』
「いや成功じゃないが……」
イナリは頭を抑えつつ返した。この頭の痛みは熱のせいか、目の前の光景に頭が追いついていないせいか。
「昨晩、変色したもちまるが床に落ちていまして。どうしたらいいのかわからず、とりあえず魔物除けの結界で囲んでおいたのですが……しばらくしたら、イナリさんになりました。こう、ぬるっと」
エリスの言葉に、イナリはふと記憶に残っている悪夢を思い出した。
「……もしや、あれは夢ではなかったのかや」
「何かあったんですか?」
「我は我が我を見下ろしてきて、我が我に声を掛けたら我が溶けてしまう夢を見たのじゃ」
「すみません、何言ってるか全然わからなかったです」
「それと、もちまるが我の顔に張り付いてきて、溺死させようとしてきたのじゃ」
「は?」
エリスは部屋の寒気すら温く思えるほどに冷えた声を漏らすと、立ち上がってもちまるの傍に立った。
「主に牙を剥こうとは見上げた根性してますね。この従魔、処分しませんか?」
『いいえ いいえ いいえ』
もちまるは文字盤の「いいえ」をばしばしと叩き必死に抵抗していた。相変わらず無表情だが、その分動作は実に感情豊かである。
イナリが内心感心していると、もちまるが文字盤を使って弁明を始める。
『わがはい あるじ たすけたい』
『あるじ ぶんしん ほしがった』
『ずっと からだ しらべてた』
『かおだけ わからない しらべる ひつよう あった』
『ごめん おもってる』
「ええと……つまり、今までずっとイナリさんを模倣するために体を調べていて、顔にもへばりつく必要があった、ということでしょうか?」
『はい』
思い返せば、もちまるはいつも、イナリの腰やら足やら、どこかしらに身を寄せていた。あれはイナリを真似るための行動だったのだろう。
そして、その仕上げとしてイナリの顔を模倣すべく顔面に覆いかぶさったのだろうが……よりによって熱を出している時にしなくてもいいだろうに。危うく本当に死ぬところであった。
「まあ、我を思ってのことじゃ、今回は許してやろう……と言いたいところじゃが。我、分身を欲しがった記憶がないのじゃ」
「確かに、それは私も思いました。それはまあ、イナリさんの分身があったら嬉しいですけど……」
なんだかズレた感想を零す神官は置いておいて、イナリはもちまるの返事を待つ。
『あるじ ほしがった』
『ぶんれつ えりす がーでぃ そばにいる』
「どういうことじゃ?我にはさっぱり――」
言いかけたところで、イナリはある会話を思い出した。あれはそう、ガーディに思わせぶりな態度を取っていたことを謝ったときのことだ。
――我が分裂して、それぞれエリスとガーディの傍に居ればよいのか?
――素晴らしい考えですね。それが不可能なことに目をつぶれば、ですが。
「まさかお主、アレを、我の望みと受け取ったのか……」
『それに えりす いった』
『こは おやに にる』
「確かに言いましたけど、似るなんてレベルの話じゃないですよ」
口は災いの門などという言葉があるが、まさかイナリが神官を垂らしこんだ一件が自分の分身を生むきっかけになるとは誰が予想できようか。
『これで めすに いいよられても だいじょうぶ』
歪な親指を立てたもちまるを前に、二人分のため息が重なった。
ともあれ、これで一つ疑問が解消した。
もちまるがイナリの力を吸っていたのは、イナリの分身となるため――女性に言い寄られたとき、変わり身になるためだった、ということである。神の力の無駄遣い、ここに極まれりである。
『でも もんだい ある』
「どうしたのじゃ」
『しゃべれない しゃべると くずれる もどる たいへん』
「ああ、我が声を掛けた時に崩れたのは、それか……」
イナリは現実だった悪夢を思い出して納得した。意味不明な出来事の連続だったが、紐解けば案外わかりやすい……のかもしれない。
「戻ると言えば、元のスライムの形態には戻れるのですか?」
『はい』
もちまるは文字盤を叩くと、ぎゅぎゅっと小さくなって、イナリの手で持ち上げられるくらいの大きさの薄緑色の透明な球体に戻った。イナリの狐耳と尻尾は、もともとあった小さな突起と対応しているようだ。
……問題なのは、かなり見た目がエグいことか。これは要するに、「イナリがぎゅぎゅっと圧縮される」と同義なのだ。
「……人目があるところでは絶対に変身しないでください。特に私の前では、やめてください……」
エリスは口を抑え、吐きそうになっていた。イナリもこころなしか、熱が悪化したような気がした。




