452 悪夢
「あついのじゃ……だるいのじゃ……」
これまで一度も感じたことのない倦怠感に、何だか世界が揺れているかのように定まらない視界――イナリは直感的に理解した。ランティスが言っていたイナリの「死因」は、きっとこれだ。
イナリが内心そう確信する傍ら、エリスは着々と水入りの桶やポーション、着替えやタオルなどを用意してくれた。
ついでに、もちまるもイナリの異常を理解しているのか、頭の上に乗って解熱に一役買ってくれている。スライムの体はひんやりやわらかで、イナリの辛さを緩和してくれる。
だが、それでも辛いものは、辛い。
「イナリさん、こちらを」
エリスが水差しを口に寄せてきたので、重い身体を動かして少しだけ水を飲む。続けて一口大の黄色い果物を口に入れてくれたので、何度か咀嚼して飲み込んだ。レモンだろう、酸味が口の中に広がる。
「味に違和感はありますか?それか、飲み込むのが辛いとか」
イナリは首を横に振って返した。
「食欲は……ありませんよね。吐き気などはありますか?」
「今は、大丈夫じゃ」
後で何か食べてみてどうなるかはわからないが、今のところは熱くて怠い、あとは関節が痛いといったところだ。
ぼうっとしたままのイナリに、エリスは問診を続ける。
「少し日付は経ってますが、以前外に出られましたよね。その時に変なものを食べたりしましたか?ほら、イナリさんって毒キノコを食べる奇特な趣味があるじゃないですか」
「食事は、冒険者ギルドの歓迎会だけじゃ。変なものは食べていないと思うのじゃ……」
奇特な趣味とは酷い謂われようだが、それを否定するだけの余裕が今のイナリにはなかった。
「そうですか。狐獣人向けでない食品が入っていなかったか、念のためあとで提供された食事は確認しておきますが……うーん、久しぶりのお外で体力が無くなっていたのが原因でしょうか……」
イナリが苦しんでいる間、エリスは淡々と回復術師としての役割を果たしている。普段はイナリにドロドロした猫なで声で接している姿しか見ていないので、凛とした姿がとても頼もしく見える。
「エリスよ、我はどうなってしまうのじゃ?我は、神の体すら侵す、大変な病に罹ってしまったのかや……」
「症状で言えば、現状はただの風邪の可能性が高いでしょう。あるいは呪いの線も否定は出来ませんが……」
「呪い、か」
「イナリさんが覚えているかはわかりませんが、この教会にはファトラ様という解呪師の副神官長がいらっしゃいます。明日にでも、イナリさんを診てもらえないか打診してみますね」
「頼むのじゃ」
「それと、ハイドラさんに群青新薬を頂けないか確認したいですね。きっと有効なはずですよね?」
「うむ……」
イナリが小声で返事を返すと、エリスはイナリの頭を冷やしているもちまるを持ち上げ、頭を撫でた。
「ランティス様の件もありますし、これ以上容態が悪化しないよう対策は万全にしましょう。ひとまず、眠れそうなら眠るのが一番かと思いますが……眠れそうですか?」
「……まあ、目を閉じておけば、そのうち眠れるであろ……」
「なら、それまで手を繋いでいましょう」
毛布の中にエリスの手が潜り込んできたので、イナリから迎えに行って握る。続けて、何度か大きく呼吸をする。
イナリはこれまでの神生の中で、病はおろか風邪にも罹ったことがなかった。きっとそのせいだろう。長い長い生の中で初めてその身で味わう風邪は、普通の人間が感じるそれの何十倍も辛いものとしてイナリに降りかかっていた。
どうか、この辛い時間が少しでも早く終わりますように。眠れたとして、その後問題なく目覚めることができますように――神たるイナリが願う相手など他に居るわけもないが、誰に向けてでもなく祈っていた。
「大丈夫です。イナリさんは死にません。一緒に乗り越えましょう」
イナリの意識が落ちる直前に聞こえたエリスの言葉は、まるでイナリの祈りに応えるように、とても穏やかなものだった。
気が付くと、イナリは夜の仄暗い森の中を歩いていた。今までの事など全部なかったかのように軽やかな足取りで茂みをかき分け、倒木を超え、半ば確信めいた足取りでどこかに向かって進んでいく。
そして見えてきたのは、木々の中に仄暗く光る橙色の光――焚火だ。
イナリは直感的にそこが目的地だと判断した。迷いのない足取りでそこに近づき、思い浮かんだ言葉で声を掛ける。
「我は豊穣神、イナリじゃ!我も仲間に加えるのじゃ!」
そう言いながら団欒に加わるべく焚火に近づくと、透明な壁がイナリを弾き飛ばした。
そういえば、イナリがこの世界で世話になる人間との出会いは、こんな事故から始まったのだったか――。
「……結界に反応するってことは、魔物か」
「え?」
黒い盗賊の男、ディルが鞘から短剣を引き抜きながら、床に転んだイナリを見下ろした。
「びっくりしたよ。こんな時間に子供が歩いてるわけないもんね」
「心は痛むけれど、ここで始末しておかないとね」
「どうか宿主の子が苦しまずに最期を迎えたことを、祈りましょう」
イナリの仲間のはずの皆が各々武器を構え、地面に転んだイナリを取り囲んで見下ろす。
「ちが、違うのじゃ!我は、お主らの仲間で――」
「悪いな」
イナリに向けて、短剣が振り下ろされた。
「――ハッ!?」
イナリが目覚めると、そこはパーティハウスの寝室だった。目の前には、魔術師の装いで身を固めたリズが頬を膨らませている。
「あっ、イナリちゃん起きた?もう、早くしないと遅刻しちゃうよ!」
「……あれ?我は何を……」
「寝ぼけてるの?今日は魔法試験のバイトだよ」
「ばいと……?」
「仕事ってこと!ほら、早く早く!」
イナリはリズに手を引かれ、着替えも身支度もせずに外へと連れ出された。どういうわけか、パーティハウスの隣に魔法学校があった。
明らかにおかしいそれをイナリは疑うこともなく受け入れ、気が付けばリズの手に引かれて広場へと連れて来られていた。
「仕事と言ったのう。魔法試験だったか……我は何をすればいいのじゃ?」
「え?的役だよ。いつもやってるでしょ?」
「……うん?」
「的役。受験生の魔法を受けて、点数評価するの!生徒から好評なんだよ?」
「な、何じゃ、それは?我、そんな仕事は――」
「それじゃ、今日も頑張ってね!」
いつの間にか磔にされていたイナリがもがいていると、どこかから沢山の生徒が現れ、イナリに向けて魔法を放つ準備を始める。
「ちょ、ま、待つのじゃ。我は、そんなこと――」
喚くイナリに向けて、一斉に炎や水、雷――多種多様な魔法が放たれた。
――それは、いわゆる明晰夢というものだった。
イナリは何度も何度も、この世界で実際に経験したものに絶妙に掠った、悲惨な夢を見る羽目になった。
ディルに背負われながらトレントに追いかけ回される夢。追いつかれてしまったイナリはトレントに捕まり、もみくちゃにされた。
アリシアにイナリの正体がバレた時の夢。イナリの言葉に逆上したアリシアが、イナリに向けて光の槍を放った。
エリックのギルドでの仕事を見学する夢。迂闊に「かしこさ」をアピールしたイナリが、エリックと一緒にギルドの激務に追われる羽目になった。
言葉が通じなくなり、誤解から森の社に逃げ帰った時の夢。誰も迎えに来なかった。
ニエ村に立ち寄り、獣人たちがおかしくなった事件の夢。事態が解決できず、皆おかしくなってしまった。
アルテミアの地下で化物に追い回された時の夢。化物から逃げきれなかったイナリは、通路の隅に追いやられて胸を貫かれてしまった。
イオリと間違えられて獣人村に拉致された時の夢。イオリのふりをして皆の前で話した言葉が尋常でないほどに滑り、騙したことがバレてしまった。
魔の森奪還作戦で、エリスが洗脳されてしまったときの夢。洗脳されたエリスは、心中するようにイナリごと自分を槍で串刺しにした。
それ以外にも、無数の悪夢を見た。
最初の森で誰にも会えず、独り孤独に彷徨う夢。
ハイドラの食用キューブを無限に食べる羽目になる夢。
永久に着陸しない飛竜便に乗せられる夢。
イナリが寝かされている病室で、アリシアが殺意と葛藤の入り混じった瞳で、短剣片手に見下ろしてくる夢。
イナリが魔王であるとバレてしまい、カイトに倒されてしまう夢。
そして、何かからイナリを庇って、エリスが死んでしまう夢。最期に彼女は「ごめんなさい」と言っていた。
「――ヒぅッ!?」
イナリは、過呼吸のように息を漏らしながらびくりと体を震わせて目を覚ました。体に感じる倦怠感は、風邪によるものか、多種多様な悪夢によるものか。
「夢……じゃな……?」
イナリはゆっくりと首を回して外を見たが、まだ夜だった。エリスの姿が見えないのがどうしようもなく不安を掻き立てるが、夢だと理解すれば何も怖がることはない。
しかし、あんなに嫌な夢を見る羽目になったというのに、現実の時間は全然進んでいないようだ。
その事実を憂いていると、イナリの目前にころりと透明な物体が落下する。それはイナリの頭を冷やし続けてくれていた、もちまるだった。イナリは指先で健気な従魔をつつき、ささやかな癒しを得る。
「もちまるよ、たすけてくれたもれ……」
すっかり精神的に参ってしまったイナリは、思わず小さな従魔に向けて零してしまった。
「……なんての。冗談じゃ。ほれ、もといた場所に、戻るがよい」
イナリはそっともちまるを押し上げ、頭の上に戻してやって――直後、ふとある疑問が浮かんだ。
もちまるはイナリを助けるために神の力を吸い続けていた。それは本人……本スライムから聞いたことなので間違いないのだが。
ここに来て一つ、不明な点がそのままになっていることに気が付いたのである。
「もちまるよ。お主は一体、我の力を使って、何をするつもりだった――」
イナリがもちまるに尋ねながら目線を上に戻すと、そこにはイナリの全身を飲み込む勢いで全身を広げ、覆いかぶさってくるもちまるの姿があった。
「――のじゃ?」
イナリの悪夢は、終わらない。




