396 一回見たら死ぬ絵
――不可視術を発動させたエリスを座らせ、イナリが画架と向き合い始めてから一時間。
「おあおえ……あぉ……」
この短時間で、イナリは意味のない鳴き声を上げながら筆を動かすだけの生き物と化していた。
はっきり言って、エリスの不可視術の恐ろしさを舐めていた。以前そこそこ克服できたのだから、己の姿を知りたいであろうエリスのために姿絵を描くこともできると思っていた。
だが、絵を描くには観察が必要だ。ただでさえ見るだけで正気を失う存在をじっくりと観察すれば、当然、相応の精神的負荷が発生する。しかも、イナリの力由来の現象として脳に直接作用してくるので、いつもの「我神だから大丈夫」理論も通用しない。
だが、威勢よく意気込んだ手前、ここで引き返すことはイナリの矜持が許さなかった。そんなことをしては、わざわざこの場へ足を運び、フィックルに頭を下げた意味が無くなってしまう。
故にイナリは、一刻も早く絵を仕上げる決断を下したわけだが……すぐに別の問題が浮上する。
それは、この密閉した空間で二人きりになることの危険性であった。
この工房は外の音が遮断されているので、集中していると筆を動かす音や、それに付随して布が擦れる音などが耳に入ってくる。これがまた、この世界にイナリと化物状態のエリスの二人しかいないような気分にさせて、イナリの精神を削いでくるのだ。
それで気分が悪くなると、おそらくイナリを心配しているであろうエリスが声を掛けてくるのだが――。
「螟ァ荳亥、ォ縺ァ縺吶°��」
これである。集中しているところに唐突に叩き込まれる異次元言語は、イナリの心を折るには十分すぎる破壊力を備えていた。
故に、エリスに喋らないよう懇願してから孤軍奮闘することになり、謎の声を上げながら、しかし手は動かし続ける狐娘と、形容しがたい容貌の化物が向かい合う、地獄のような光景が生まれたのである。
つまり、今のイナリに必要なのは、今の苦しみを共有できる相手であった。
「……んおああぁぁ!!もう我慢できぬ!!」
イナリは叫びながら筆をべちりと置いて立ち上がり、頭をわしゃわしゃしてから指輪の黒い宝石に手を触れる。
「――イナリ?どうし――」
「アースよ!話し相手になるのじゃ!今の我にはお主が必要じゃ!!」
「こ、声が大きいわよ。どうしてまたそんな……」
「見に来ればわかる、疾う来るがよい」
イナリが食い気味に告げると、すぐ隣の空間に小さな穴が開き、そこからアースの顔が覗かせる。彼女は軽く部屋を見回し、次にイナリの前の描きかけの絵を見て、その流れで対象物であるエリスだったものを一瞥する。
「……大体察したわ」
「繧「繝シ繧ケ縺輔s縲√%繧薙↓縺。縺ッ」
「こんなのと二人きりじゃ頭もおかしくなるわね。……で、何でこんなことをしてるの?」
アースは穴の淵に肘をつき、ため息を零しながら問いかけてくる。一方のイナリはまともな言葉を交わせる喜びを噛み締めつつ、先ほど手放した筆を手に取り、再び絵と向かい合う。
「ちと訳あっての、エリスにも己の姿を知らせてやろうと思うたのじゃ」
「まあ、無自覚な狂気ほど迷惑なものはないものね」
アースの返事にエリスが何か言いたそうに蠢く。あまり気にしていなかったが、エリスからイナリ達への言葉が分からないだけで、向こうはこちらの会話が分かるらしい。
そんなどうでもいい発見もしつつ、イナリは筆をぺたぺたと動かしていく。
「一応最初は写真を使うことも考えたのじゃが、写真機はカイトから借りねばならぬし……我の勘が、絶対にやらない方がよいと訴えておった」
「本当に賢明な判断だと思うわ」
イナリが地球に居た頃、不敬にも境内で心霊写真なるものを撮ろうとしていた人間の会話を聞いたことがある。曰く、写真は映ったものの真の姿を映すとか、魂を奪うとか。
その真偽はどうでもいいのだが、イナリはふとそれを思い出し、化物状態のエリスを撮影する選択はすぐに候補から外した。
ちなみに、境内で心霊写真を撮りに来た人間には、撮影の瞬間に肩の後ろに手を伸ばしてあげるサービスをした。彼らもお望みの結果が得られて喜んでいたに違いない。
「ちなみに言うと、その絵も大概危ないわね」
「む?」
アースの指摘にイナリは首を傾げる。
「今のクオリティのまま完成すると多分、一回見たら死ぬ絵が完成するわ」
「一回見たら死ぬ絵」
聞いたことがない文言に、イナリは思わず復唱した。
「貴方の絵を見て分かったけれど、私の見るアレと、貴方の見るアレは、ちょっと違う。多分、見た者によって多少姿が変わるのね」
「そうなのじゃな」
「でも、見たときに抱く嫌悪感は変わらない。この絵を見た人間は、アレを見たときと同じ効果を受けることになるわね」
「と、とんでもないのう。……いや、流石我というべきなのかの?」
「そこは貴方の解釈にお任せするけれど。ほかにこんな事例は無いことは確かね」
「当然じゃ。こんな事例、そう幾つもあっては堪らぬ」
アースの言葉にイナリは苦笑しつつ返した。その傍ら、何度も「アレ」扱いされたエリスは依然としてうごうごしていた。
「時に、今いるこの場所はほかの人間から借りておっての、対価として完成した絵を見せる約束をしておるのじゃが。……流石に相手が死ぬと承知の上で見せるのは憚られる。どうにかならぬかの?」
「それなら、適当に存在しない部位でも足しておけばいいわ。蛇足ってやつね」
「ああ、架空の要素を混ぜればよいのじゃな。我としたことが、そんな簡単な事に気づかなかったとは」
イナリはため息を零しつつ絵を描き進めた。正気を失うと簡単なことすらわからなくなってしまうとは、実に恐ろしいことである。
「――エリスよ、完成したのじゃ」
「ええと、はい。……途中、随分と悲惨なことになってましたけど……大丈夫ですか?」
「うむ、アースが来てからはかなりマシになったのじゃ」
不可視術を解いたエリスの問いかけにイナリが返すと、彼女はイナリの頭を撫でながら完成した絵を覗き込む。
イナリが描いた絵を例えるなら、人古代文明の壁画に描かれた歪な生物を、他の複数の生物の部位を継ぎ接ぎして描いたような絵である。夕方から日没までの短い時間での仕事としては十分だろう。
さて、それを見たエリスはどのような反応をするだろうか?
「わあ……へえ、こんな感じなんですね。確かにこれは恐ろしいですね。魔王と思われるのもやむなしでしょうか」
「何じゃ、お主は何とも無いのじゃな?」
イナリはエリスが錯乱することも懸念して身構えていたが、それに反して随分と淡泊な反応を示した。
「自分で言うのもなんですけど、普通に気持ち悪いとは思いますよ。でもそれだけというか、前評判と比べるとそうでもないというか……」
「蛇足部分が上手く効いたのかもしれないわね」
「ううむ、自分の姿だからとか、そういうオチではあるまいな……?」
楽観的に手を合わせて笑うアースとは対照的に、イナリは懐疑的に絵を眺めていた。
「ま、何はともあれ、見たら死ぬ絵からは脱却できてよかったじゃない」
「ううむ、手放しで喜んでよいものか何とも言えぬが。……苦労して描いたが、この絵はフィックルに見せたら破棄してよいかの?」
「イナリさんがそう仰るのであれば、私から言うことはありません。今度は、普通の私の絵を描いていただきたいです」
「うむ、それは構わんのじゃ」
イナリはエリスと頷きあった。続けて、イナリはアースにも向き直る。
「アースよ、お主にも助けられたのう、感謝するのじゃ。……これ、欲しければ譲るぞ?」
「いらないわ」
絵を指して尋ねたイナリに、アースは食い気味に返した。
「――戻りました。イナリさん、絵の進捗はいかがですか?」
アースが去って少しした後、帰宅したフィックルが早速声を掛けてくる。イナリは両手を腰に当て、達成感に満ちた表情で頷く。
「うむ、無事完成したのじゃ。こっちじゃ」
「お早いですね。では見せて頂きましょう」
イナリはとてとてと歩き、布を掛けた絵のもとへフィックルを誘導した。そして布を両手でつかみ、そっと外して絵を披露する。
「これが我が描いた絵――あ、倒れたのじゃ」
バタリと倒れたフィックルを見て呆然とイナリが呟く傍ら、エリスが慌てて彼の傍へ駆け寄り、脈を確認する。
「だ、大丈夫、気絶しているだけみたいです。……とりあえず、寝台へ運びますね……」
「うむ。恐ろしさを中和してこれとは、何とも恐ろしいものじゃ……」
イナリは自分の作品を見て呟いた。エリスが例外だっただけで、この絵はまだ人類には早かったようである。
2024年最後の更新です!
来年も本作をよろしくお願いいたします!




