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使用人の女性が足湯で洗ってくれようとするところを辞退して、式台に腰かけた冬乃は自分で洗い終えると借りた手ぬぐいで拭く。
同じく自分でさっさと洗い終えて冬乃を待っていてくれた沖田とともに廊下を進めば、遅い夕餉にもかかわらず、出来たてとおぼしき良い香りが座敷の前にまでたちこめていた。
「お二人も早くお座りになって」
奥の襖を背にして坐すツネが、入ってきた冬乃たちに微笑んでくれる。
その斜め向かいで床の間の前に坐す近藤は、早くも茶碗を片手に、同じく微笑って手招いてくれた。
沖田が近藤の向かいに近い膳の前に座ったので、冬乃はその奥隣の膳の前に遠慮がちに正座をした時。
「おかかさま?」
ツネの背後の襖から、呼びかける幼女の声がした。
(あ)
「起きたのね、たま」
「はい」
たまはやはり寝ていたようだ。
「お入りなさい」
ツネの許可に応えて、すす、と少し襖が開けられる。
(か、かわい・・)
襖の向こうに現れた寝着のままのたまが、冬乃たちの存在に驚いた顔になりながらも、すぐにちょこんとその場で座り直し。小さな手で一生懸命に、残りの襖を押し開けてゆく。
「たま、そのような恰好では冷えますよ」
だが立ち上がって入りかけたたまを、つと振り返って見遣ったツネがすぐに声をかけた。
「上掛けを羽織ってらっしゃい」
「はい」
再び引っ込んだたまが、また懸命に三度に分けて襖を閉めて。
「たまはまた大きくなったんだろうなあ」
冬乃の前では近藤が、四角い顔をおもいっきり破顔した。
近藤の位置からは、たまが見えていなかったらしい。
遠く第一次長州征伐の前、江戸に帰った近藤は一度たまに会っているはずだが、子供の成長は早い。
ツネが「ええ」とにっこり微笑んで返した。
まもなく戻ってきた様子のたまの声が、また襖越しに聞こえ。
「お入りなさい」
「はい」
今回もきちんとツネの許可を待つなんて、幼いのにツネの武家教育が行き届いている様子。
可愛らしい姿が、そして今度こそ部屋の中まで入ってきた。
「おととさま・・?」
床の間の前に坐す近藤に気がついたたまが、みるみる目を見開く。
「たま、ただいま。元気にしてたか」
「おととさま!」
ぱっと、近藤のほうへ走り出したたまは、やはりそこは子供らしさに溢れていて。
トタトタ走るたまをなんとツネも咎めはせずに、父子の久しぶりの再会をにこにこ見守っている。
「・・?」
まもなく近藤にしがみついたたまが、ようやく目の前の冬乃たちに視線を寄越した。
「たまの義姉上様の冬乃さんと、旦那様の総司さんよ」
ツネからの紹介に、冬乃が慌てて「はじめまして」と声をあげると、
たまがきょとんと、ツネと近藤を交互に見上げた。
「あねうえさま・・って?」
唐突に姉が出現したのだから、たまの反応は当然である。
「縁組といって、血は繋がってなくても家族になれるの。冬乃さんも、その旦那様の総司さんもね、私達はみんな家族」
「かぞく・・」
ツネの紹介に応えてたまが、今度は冬乃と沖田の顔を交互にじっと見つめる。
「大きくなったね。たまちゃんは覚えてないだろうけど」
沖田がにっこり微笑み返した。
「会ったのは、まだたまちゃんがもっとずっと小さい時だったから」
「・・・そうにいさま・・?」
「すごいなたま、覚えてたのか?!」
近藤が驚いて歓声をあげる横で、すっかり思い出した様子のたまが、こくんと頷いた。
「だってたま、そうにいさまのおよめさんになるってきめてたの」
沖田たちが笑い出すなかで、冬乃はなんだか申し訳なくなって目を瞬かせる。
「ごめんね、たまちゃん。俺のおよめさんは冬乃なんだ。たまちゃんももっと大きくなって縁談も組まれるようになった頃には、本当に大切な人にきっと出逢えるよ」
「ほんとうにたいせつなひと・・?」
たまが小首を傾げ、沖田が肯いてみせた。
「そう。そのときが楽しみだね」
「・・俺は寂しい」
近藤がぼそりと呟いて。場は再び笑いに包まれた。
家族と束の間の穏やかな時間を過ごした近藤は、翌朝、近いうちにまた三人で来ると約束して、沖田と冬乃も見送るなか一足先に品川へ戻っていった。
姉ができたことを喜んでくれたのか、冬乃の膝の上からそのうち離れなくなったたまに、最後には後ろ髪引かれる想いで、冬乃たちもまた間もなく牛込御門の方へ向けて出立し。
きっとここから四半刻以上はかかる距離だけども、今回は駕籠を丁重に辞退した冬乃は、晴れて沖田との江戸散歩にありついた。
しっぽ、があれば、いま超高速のハタキになっている。
嬉しすぎる冬乃の顔は先程から始終にやけて。その顔を隠す頭巾さえ、ここ江戸では不要なのだ。
何に憚る事なく女の恰好のまま、沖田と一緒に歩ける。しかも有難いことに冬日和。
喜ぶなというほうが土台無理である。
(あ、でも)
数十歩もしないうち、だが冬乃はあることに気が付いた。
「総司さん・・」
「ん」
冬乃の呼びかけに、沖田が横からどうしたと微笑みかけてくれるのへ、冬乃は今しがた胸内に奔った申し訳なさで眉尻を垂れた。
「やっぱり駕籠に乗らせていただきます・・この恰好では、歩みがゆっくりで到着が遅くなってしまいます」
舞い上がり過ぎて、この点を完全に失念していた冬乃は内心うなだれる。
だが直後沖田の手が降りてきて、ぽんと冬乃の頭を撫でた。
「冬乃が疲れないなら、到着時間は何の問題もないしこのままでいいよ」
(あっ・・)
つい先ほどの、嬉々とした冬乃の仮想しっぽをみていたようで沖田がそのままくすりと微笑う。
きっとまた今、冬乃のそのしっぽは元気を取り戻してぶんぶん振れ始めているのだから。
「冬乃」
いつかの時のように、大きな手が差し出される。
もう気分は“御手” ながら。ぽす、と冬乃は、沖田の手に己の手を乗せれば。
すぐにその手は優しく繋がれ。
またしても道行く人々のほうが恥じらって視線を逸らすなか、そうして冬乃たちは、晴れた江戸の町をのんびりと散歩に興じた。




