104.
門前のほうで隊士達が迎えに出ている物音を聞きながら、冬乃は茶の用意を始める。
しかし近藤はせっかく江戸に帰ってきているというのに、未だ家族の元へ一度も戻っていないほど演説まわりで忙しくしているので、
昨夜は遂に見かねた土方が、そろそろ会いに行けと催促した始末だった。
だが近藤は、家族の平穏を護るためにも、今は一刻も早く上様を皆で説得することが第一と、
そして無事に帰ってきている事は既に手紙では知らせてあるからいいのだと、困ったように微笑んで。
近藤は、身分上は旗本同然でも、生粋の旗本では無いがゆえに、彼らに本来ならば課される様々な形式上の縛りも殆ど無いので、
むしろ身動きのしづらい彼らのぶんまでも、がむしゃらに働いているのではないかと冬乃は訝ってしまう程。
(だけど奥様は・・早く近藤様に会いたいと思ってらっしゃったりするんじゃないのかな・・)
そんな勝手に気懸りな冬乃の心配は、
じつは沖田に対しても、在って。
沖田も同じく、未だ会いに行っていないのだ。
江戸に住まう、彼の二人の姉に。
両姉家族はそれぞれ来月の末には、夫の属する藩へと向かうべく江戸を出てしまうのに。
恐らくそれが決まるのは、もう少し後なはず。
けれど昨今の状況では、冬乃はそれを沖田に今から伝えたほうがいいのではないかと、迷い始めている。
(だってもし、このままタイミングが合わないままでいけば・・)
漸く再会できたとしてもその時が、一度きりの最後になってしまうかもしれない。そんな事には、できればなってほしくない。
「ただいま冬乃」
はっとした冬乃が振り返ると、近藤の部屋の襖を沖田がまさに開けたところだった。
「おかえりなさい・・!」
(?)
沖田の戻りに心躍らせながらも、いつもなら一緒に居るはずの近藤の姿が見当たらないので冬乃の目がおもわず探し出すと、
「先生は厠に寄ってる」
と当然沖田は分かったらしく微笑んだ。
「俺に、先に戻って冬乃に伝えてほしいと」
「これから先生の家へ行くことになった。冬乃も一緒に行ける?」
(あ・・っ)
ついに・・・
おもわず冬乃は安堵の溜息を零した。ついに、近藤は家族に会いにいくことにしたのだ。
「先生の奥方にはすでに飛脚で連絡してある。今夜は遅くなるから俺達も先生の家に泊まらせていただくよ」
「はい」
冬乃は少し緊張して居ずまいを正す。
「それから明日、先生はご予定があるので先に戻られるが、俺たちは牛込御門のほうまで足を延ばせればと思ってる」
・・牛込御門?
「冬乃を、姉と義兄に紹介したい」
(あっ)
沖田もついに、姉家族に会えるのだと。
冬乃は更なる安堵で、深く息をついていた。
(よかった・・・!)
記憶の底に在ったその地名にも、まもなく思い至る。
牛込御門は、現代の飯田橋付近で。沖田の義兄が所属する江戸の“おまわりさん” こと『新徴組』の屯所も近いはず。
急いで支度をせねば。冬乃は慌てて立ち上がった。
稽古時の動きやすさを求めて着ていた男服から、女服、それも訪問にふさわしい質の良い着物を選んで、冬乃は手慣れた動きで着込んでゆく。
安藤からもらった扱きで、裾を上げるのもぬかりない。
沖田はきっと今、近藤の部屋で冬乃の用意した茶を飲みつつ、厠から戻った近藤から明日以降の詳細を確認しているところだろう。
旅籠のおもてには、既に駕籠を待たせているようだった。明らかに冬乃の為と思われる。
(いつもありがとゴザイマス・・)
近藤の家は、現代でいう市ヶ谷の先のほうなので、大分遠いのだ。
同じ江戸の内とはいえ、歩くには結構な距離なので軽く旅装になるほうが正解なはずなのだけど、
過保護な沖田には、はなから冬乃を歩かせる選択肢など無い事を、勿論もう冬乃は知っている。
近藤は身分を賜ってから、家族を今の家へ移したと聞く。
その牛込の一帯は、試衛館のあった地でもあり。
そして有事の際には出陣の先鋒となる、御先手組などの御家人たちが集う町のひとつでもある。
(おもえば土地柄までがすごく近藤様にぴったりです・・)
冬乃はそんな感想に至りつつ、まもなく着替え終えた身で部屋を出た。
さいわいに長い道のりを悪酔いすることは無く。
日が落ちてなお活気に溢れる、江戸の町景色を冬乃は簾越しにたっぷり堪能しながら、やがて近藤の家の前へと降り立った。
途中で駕籠かきの休憩に合わせて止まった程度で、あとはずっと冬乃の駕籠の横を徒歩で来た近藤たちに、全く疲れた様子は無い。
それでも、
「腹減った」
沖田が伸びをするなり、嘆いたのだが。
「俺もだ」
すかさず近藤が、笑って同調する。
音を聞きつけて出てきた使用人とおぼしき女性が、恭しくお辞儀をして、すぐに三人を招き入れてくれた。
「おかえりなさいませ、殿」
土間に入るなり。玄関の取次で両手をついて平伏している女性が、冬乃の目に飛び込んできた。
「おいおい」
近藤が途端に笑い出して。
「おかえりなさいませ、沖田様」
「なんですか、その呼び方」
なんと沖田まで笑い出した。
二人の反応に目を見開く冬乃の前、顔を上げた女性が、ふふ、と沖田たちへ微笑み返す。
「お二人ともご立派になられてお戻りなのですから、当然でございましょう」
「その言葉遣いもやめてくださいよ」
「いいえ、やめませぬ。第一わたくしたちはもう、このような話し方を始終しなくてはならぬ身の上でございますよ」
「まいったな・・」
降参した沖田が近藤と顔を見合わせた。
どうやら彼女が、近藤の妻ツネであることは間違いないだろう。
それにしても言っているツネのほうも自身で可笑しいのか満面の笑みになっている。
そしてその笑顔が、つと冬乃のほうを向いた。
「冬乃さん初めまして。ツネと申します。お会いできる時を心待ちにしておりました」
(あっ)
「初めまして・・!あの、養女に迎え入れていただいて有難うございました・・お世話になります、よろしくお願いいたします!」
果たして、初対面の義母に対してこの挨拶は正しいのか、口奔ったそばから混乱してきた冬乃は、挨拶の口上を練っておけばよかったと後悔するも、
「こちらこそ」
ツネからは、笑顔に温かな優しさが追加されてすぐに返される。
(嬉し・・っ)
そういえば彼女のことは、やはりツネ様より、お義母様、お義母上と呼ぶべきなのだろうか。
近藤のことは、養子縁組を公に知らされていない平隊士たちの手前もあって、お義父様、お義父上より、近藤様と呼んでしまうままで今まで通していた冬乃にとって、どうにも気恥ずかしさがある。
「さあ皆、とにかくまずはメシにしよう!」
ひとり葛藤する冬乃の横では、いつまでも玄関から先に入れない近藤が、たまらなそうに促した。
「殿?メシとは何ですの」
だがさっそく諫める声音が、道を塞ぐが如く取次に座り込んだままのツネから飛んでくる。
「あ、すまん。・・いや、しかしその殿というのはやめてくれないか」
近藤が困ったように苦笑いになった。
「家のなかでくらい良いだろう。総司のことも昔どおりに呼んでやってくれ」
「“勇さん” がお望みならばそう致しましょう。ですが、」
びしり、とツネは言い足す。
「家の中であっても、お言葉遣いだけは常々お気をつけくださいませ」
「言葉遣いも家のなかでくらい、もっと気楽に頼むよ・・」
「それだけはなりませぬ」
ぴしゃりと断るツネに、沖田がついに噴き出した。
「ツネさんはあいかわらず手厳しいなあ」
「当然ですわ。それがこの方の妻としての勤めでございます」
じつは厳しい言葉たちの割には先程からくすくすと品良く笑い続けているツネを、もはや冬乃は茫然と見つめる。
たしか彼女は、生まれも育ちも厳格な武家のはず。
ゆえに昔は武家としてのしきたりや教養を、近藤にそれとなく伝授していた一面もあったのではなかろうか。
そしてそれなら、近藤も昔から彼女には頭が上がらないところがあるのかもしれない。
「総司さんもですよ。腹減ったなんて、はしたないお言葉は金輪際お使いになりませぬよう」
「聞こえてましたか」
諸手で沖田も降伏する。
うふ、とツネが口元に手を添えた。
「たしかにお食事が冷めてしまいますわね。皆様お上がりくださいませ」
優雅に立ち上がって打掛の裾をひらりと翻すや、颯爽と奥へ向かうツネの背を、
近藤と沖田は面食らった表情で見送ってから、今一度顔を見合わせて苦笑した。
さすが振る舞いが板についているけども、それでも昔の試衛館の頃にはきっと彼女ももっと気ままに闊達に振舞っていたのだろうことが、三人のやりとりからありありと想像できて。
つまりは今、近藤が賜った身分に合わせて戯れているらしいツネの、その茶目っ気に、
(なんか素敵な方・・!)
此処の世でつかのまでも、そんな義母をもてたことに。冬乃はますます嬉しくなり。
(御縁を本当にありがとうございます。総司さん、近藤様)
きっと彼女に会えるのはもう数えるかぎりか、もしかしたら今回が最後かもしれない。それでも、いや、だからこそ。
またひとつ大切な想い出ができることに、感謝の念で冬乃は胸が一杯になった。
縁といえばただ、冬乃には此処に来てからずっと気になっていることがあり。
冬乃のまさに義理の妹にあたるはずの、近藤の娘、たまが、未だ姿を見せていないのだ。
いったいどこに居るのだろう。
(・・夜遅いし、もう寝てるのかな?)




