103.
近づくにつれ、鰹だしの良い香りが漂ってくる。
いまは少し追い風なうえに屋台同士の距離が遠いので、蕎麦屋の向こうに見えている屋台からは何も香りは届かないけども、せうちうと看板に書かれているから、
(焼酎?)
あちらは酒出し中心の屋台版居酒屋、といったところだろうか。
ちなみに先ほど通ってきた道には、天麩羅や鮨、茶漬けの屋台もあった。
とっくに形式上の戸締り時刻である夜四つなら過ぎたというのに、彼らに店終いのそぶりは全く無く。呼び込みの声がひっきりなしに掛けられるなかを進みながら、冬乃は、
これだけ豊富に種類があれば、お金さえなんとかなるなら毎晩の夜食も飽きずに幸せだろうかと、つい想像してみる。
(ほんとイイにおい・・っ)
目的の蕎麦屋へ近づくごとに、そして鰹だしの香りはより強くなってきた。
背後から吹き付ける寒さがよけいに、暖かく照らされる屋台へと足を急かさせる。
「らっしゃい!!」
頭に防寒用布巾をつけた初老の店主にまもなく歓迎され、現代の立食用カウンターといえそうな高さのある板張りの前で、二人は立ち止まった。
他に客はおらず。ちりりんと再び風鈴が揺れる。
「どれにする?」
沖田に促されて冬乃がさっそく壁の品書きを見ると、
かけ おかめ はなまき あられ
と冬版メニューなのか、温かい蕎麦ばかり並んでいた。
屋台だからか種類が少ないのだろうか。それとも屋台なのに多いほう、なのだろうか。冬乃には分からないが。
「うちはあられも磯の花使ってますぜ!」
(磯の花?)
店主のことばに冬乃がつい沖田を見上げると、
「浅草の紙づくりを活かした海苔で江戸名物」
すぐに冬乃の疑問を分かったようで教えてくれた。
「しかしその特別な海苔を、花の如く蕎麦に撒いて“はなまき” だから、“あられ” にも使うのは珍しいな」
(え)
「召し上がってみますかえ?」
「ええ、それにします」
「へい!」
(花巻蕎麦って、そういう由来だったの・・!)
なんだか海苔だらけの蕎麦、としか認識していなかった冬乃は目を丸くする。
「冬乃はどうする?」
「私もそれで・・!」
「へい!」
早くも手元に集中し始めていた店主が、一瞬顔を上げて応答した。
と思いきや、
「お待ち!」
(へ)
もう出てきた二つの椀に、冬乃は今度は目を見開いた。
まさに江戸時代版ファストフードである。
それにしたってムックのハンバーガー並みの提供速度だったが、冬乃たちが来た時はちょうど火入れ直しの後だったのだろうか。冬乃は湯気がくゆる大ぶりの椀を覗き込んだ。
(美味しそう)
鰹だしに加えて今や、香ばしい海苔の香りにも迎えられながら、
たしかにしっかり撒かれている海苔の上に、さらに白い貝が、名のとおりにぱらぱらと降るあられ雪の如く散らされているのを見とめる。
「ではいただきます」
隣で沖田が小気味よい音を立てて割りばしを割った。
冬乃も、椀に立て掛けて置かれた割りばしを何気なく手に取るも、
(・・そういえばコレ割りばし)
またしても目を丸くした。
(割りばしって江戸時代からあった物だったんだ・・)
もしかしたら冬乃が見逃していたのかは分からないが、京阪の地で割りばしを見た記憶は無い。
此処江戸の地では一方で、こうして既に屋台でも出てくるほどに普及しているのだろうか。
冬乃はだけど、手元をおもわず凝視する。
上手に割れる気がせず。どうにも微妙に切れ込みが浅いような。
「貸して」
割りばしを手に固まった冬乃へ、沖田が横から声をかけてくれた。
「ありがとゴザイマス」
そのまま易々と割ってくれる、引き続き過保護な沖田から、冬乃は頬を綻ばせつつ受け取る。
「いただきます」
そして冬乃も目の前の椀へと視線を戻し、まずは一口、海苔と貝をそれぞれ口に含んでみた。
(・・しょっぱあ)
とはいえすごく美味しい。口の中をひろがってゆく濃厚な風味に冬乃は驚く。
鰹だしの濃いつゆがここまでしっかり主張しているというのに、海苔と貝、両者自身のもつ旨味も、少しも薄れていない。むしろ、より引き出されているかのよう。
三種のだしがそうして互いに主張し合いながらも、見事に調和しているさまは、なんだか江戸っ子の在り様そのままではないか。
つゆがかけられたばかりの蕎麦は、口元にふれるとほんのり適温で、
まだ先ほどの三重の旨味が余韻を残すうちに、冬乃はさっそく蕎麦を喉に滑らせる。
(あ)
期待どおりの美味しさで。
かけられてまもない即席なはずなのに、蕎麦が既にまとう濃いつゆと鰹だしの風味が、ここでも口いっぱいにひろがり。
幾度も沖田に連れていってもらった京料亭の、あの気品を感じる味つけとは少し違うけれど、こんな力強い味つけも早くも癖になりそうなほど味わい深い。
(また来れたらいいな)
かわらず寒風が吹きつけ、風鈴が季節外れに鳴り続ける下で、
冷えなどもう気にならないくらいに体の芯から温まった冬乃たちは、まもなく店主に礼を言い屋台をあとにした。
「さてと」
大きな手が降りてきて、冬乃の手を攫う。
何かを確かめるように。しっかりと握り締められ。
「温まっているうちに、そろそろ帰るか・・」
冬乃は顔を擡げた。ひどく名残惜しげに見下ろしてきた沖田に、冬乃は手を引かれながら頷いて返す。
ゆっくりと前を向いた沖田の視線を、追って冬乃も帰路を見据えた。
今夜の想い出も、胸のうちに大切に仕舞い込み。
今はまだ此処に在る、幸せなはずのこんなひとときの隙間に、またふと、刺しこむように甦る。
不安と悄愴に塗り潰された、絶望感が。
あと何回、
こうして過ごせるのかと。
歩き出した沖田の背だけを見つめ直し、冬乃はまた急いで心の目を閉じた。引かれる手にまだ在る、確かな温もりに救われながら。
いま己にもできる事をしよう、と。
遂に気を奮い立たせた近藤が、京の頃のように再び、各所へと足繁く通い出した。
薩長を向かい討って戦うを、そうして方々に説きまわる忙しき近藤に、沖田もまた護衛でついてまわっている。
宿の者が部屋の掃除も洗濯もしてくれるおかげで、手持ち無沙汰になりがちな冬乃は、昼の間じゅう沖田の不在を紛らわせようと、一人で庭先に出て延々と素振りをするようになった。
時々居合わせた原田たちがつきあってくれる。永倉などは、冬乃に稽古をつけてくれる時もあって。
今日もそんな日中を過ごし、風呂へ直行する彼らと別れた冬乃は、
部屋へ戻る前にはこのところ日課になっている、夕暮れの景観の堪能が為、旅籠の門先へと向かった。
尤も吹きつけてくる海風に汗がひくまでを目途にしている。涼むを通り越して風邪をひかない程度にと。
(わあ・・・っ)
幾たび見てもうっとりしてしまう、日中に晴れた冬の日にはつづく夕暮れ時の東空の色合いに、そして冬乃は今日も瞳を輝かせた。
薄い青緑の空が遠く向こう、朧ろに連なる房総の山々を大きく覆い、
前方にひろがる海の藍を薄めたようなその色は、上空へ向かうにつれて混ざりのない空色となり、
さらには青藤へ、そして薄い紫の淡藤の色を経て、淡紅藤の色へと赤みを纏い出し、やがては徐々に白みを深め、昼空の名残を最上に残す。
そんな美しい色彩の冬空を背に、手前にはゆったりと風にそよぐ松、江戸湾の穏やかな海上には夕刻を迎えて戻ってくる小船たち。
寒風さえ無かったなら、いつまででも見ていたい絶景だけれど、
空のほうが移ろって、同じ色を見せ続けてはくれまい。
旅籠の門を振り返れば、澄んだ朱に染まりゆく西の空が、そして左手には富士山の景が、今日も冬乃を出迎えてくれる。
部屋へ戻ってからも、窓の右端に少しばかり寄って左を覗けば、富士山が見えることにじつは先日気がついたばかり。
こうして実に三度の贅沢な時間を終えた頃に、沖田たちが帰ってくるのだった。
とはいえ、これも明日までの贅沢だろう。
新選組は明後日には此処を立ち、新たに与えられた丸の内の屋敷へ移住するからで。
尤もその屋敷はとんでもなく広大らしく、また別の意味での贅沢が待っているとは言えそうである。




