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99.




 

 部屋へ夕餉を持ってきた給仕から、沖田は二人分を受け取り、襖を閉めた。

 

 布団にまどろんでいる冬乃を振り返ると、給仕の声に目が覚めたばかりで寝ぼけた冬乃の瞳が、沖田と手の膳を見上げてきた。

 

 「食べるのはもう少し後にする?」

 膳を適当な所へ置き、沖田は布団の横へ座る。

 冬乃が半身を起こしながらも眠そうなまま、少し頬を染めて小さく頷いた。

 

 ふと外から宵烏の声が響き。

 窓を振り返った冬乃が、驚いた顔になって沖田を向き直った。

 

 「私は・・だいぶ寝てしまったのでしょうか」

 床の間の行灯にも視線を投げて、そういえばいつのまにと首を傾げ。

 

 

 給仕が二階の各部屋へ夕餉を配膳し始めた頃に、目が覚めた沖田は、

 横で例によってくったり寝ている冬乃を起こさぬよう、静かに動いて行灯と火鉢に火を熾しておいた。

 

 「俺も、ついさっきまで一緒に寝ていた」

 

 なにも冬乃だけが長く寝ていたわけではない。

 風呂から戻り、またひとしきり睦み合って、その後冬乃に腕枕をしながら沖田のほうも、疲れが溜まっていたのか程なく眠気に誘われた。

 

 「この分じゃ二人して今夜は眠れないな」

 

 沖田の続けた台詞に、不意に冬乃があからさまに紅くなった。

 

 「・・・」

 いや、そういう意味で言ったわけでもなかったのだが。

 

 ご期待とあらば、喜んで。

 

 

 (それにしても)

 

 ひどく久しぶりだと。こんなふうに、のんびり冬乃と二人で過ごすのは。

 己の褞袍を冬乃の肩にかけてやりながら沖田は、ふと感慨深く想い起こす。

 

 最後にこうして過ごしたのは、戦さになる前、

 否、もっと、冬乃と最後に二人の家へ行った時よりも前。

 

 

 あの家で、冬乃を未来へ帰すと心に決めた時から、

 もう一度こんなひとときが来るなど、とうに諦めていたというのに。

 

 

 

 まるで同じことを考えているかの、どこか潤んだ瞳が見上げてきて、沖田はおもわず手を伸ばした。

 

 触れた頬がふわりと綻び、嬉しそうな可愛い笑顔が一杯にひろがる。

 沖田は惹きつけられるまま、冬乃の後ろ髪へ手を流し、その体を抱き寄せた。

 

 

 (有難う)

 只々強く、冬乃が向けてきてくれた声なき想いが、きっと少しずつ沖田の背を押したのだ。

 

 

 己の死後にばかり気を取られてきた。己次第でこのさき冬乃に迫りうる状況を懼れるがあまりに、

 冬乃と過ごす今を、長く疎かにして。

 

 

 だがこうして、冬乃のおかげで思い直すことができた。

 

 

 もうまもなく冬乃を遺して先に逝くこの痛みは、絶えずとも。

 

 まだ、傍らに居られるうちは

 ふたりで過ごせる残りの日々を、悔いなく生きてゆきたいと。

 

 

 

 

 

 

 

 広い空を薄く流れる雲のうしろに、散りばめられた星々と月が覗く。

 

 格子の向こう、見飽きることのない夜空を冬乃はうっとりと、大好きな居場所から眺め続ける。

 

 温もりと絶対的な安心感に、体も心も包まれる、愛しい夫の腕の中から。

 

 行灯の火は落として久しく、ふたりは唯、窓を零れる幽光に照らされている。

 

 時おり吹き込む風は冷たくても、そんな冷風が気にならないほどに今夜は、冬乃自身もまた微かな熱を身に帯びていることを。

 

 「そろそろ布団に入ろうか」

 

 (あ)

 

 深々と抱き締めてくれている背後の彼は、そんな冬乃の胸の内まで、気づいているのかどうか。

 

 

 「大丈夫、」

 

 (え)

 

 「何もしない。今夜は」

 

 「考えてみたらさすがに、昼夕夜と連続じゃ長旅の後で冬乃も疲れが取れないでしょ」

 笑みを含ませた声音ながらも、気遣う眼差しが見下ろしてくる。

 

 今しがた顔を上げて振り返ってしまっていた冬乃は、急いで前へ向き直った。

 

 向き直ったところで、もう遅かったけども。残念がる表情をおもいっきり見せてしまったことは間違いなく。

 

 「・・・」

 

 

 そういえば何か返事をしなくては。そう漸く思い至った頃には、

 

 「冬乃」

 けど一層、強い腕に冬乃は掻き抱かれた。

 

 「今言った事は取り消す」

 

 (え)

 伸ばされた手が、冬乃の前の障子を閉めた刹那に、

 冬乃の視界は反転した。

 

 

 

 窓の障子を透ける、薄暗い夜明かりの中。

 

 ふわりと布団を背に受けた冬乃の、目の前には今、

 冬乃を囲い見下ろす、優しくてそれでいて熱の籠もった眼差しを湛えた、冬乃の大好きな表情。

 

 彼だけが冬乃の瞳に映るすべてになる、このかけがえのないひとときの光景は、

 今日まで冬乃が長く待ちわびて、どころかもう二度とこの瞳に映すことは叶わないのだと、一度は諦めたもの。

 

 「・・明朝」

 その表情が。つと、

 

 「冬乃は寝てていいから」

 揶揄うような声音を伴い、微笑んだ。

 

 「そ」

 冬乃は、慌てて首を振っていた。

 「そんなわけにいきませんっ」

 

 「ならばまた手加減しとくか・・」

 

 降ってきた呟きに、冬乃は目を見開く。

 

 (手加減もいりませんっ)

 

 とはもちろん言えず。冬乃はもはや黙してじっと見つめ返してしまう。

 

 「・・・そんな可愛く眼でねだってもダメ」

 「!?」

 愛しげに冬乃を見下ろす沖田が、更ににっこり微笑むなり告げてきた。

 

 やはり言わなくても冬乃の心の声は、立て続けに丸わかりだったらしい、

 どころか、ねだってるように見えるほどだったと知っては、冬乃は今度こそ二の句が継げず。

 

 (・・そ・・それなら、今夜はかわりに)

 

 冬乃は勇気をふり絞り。沖田の腕の囲いの下で、そっと片肘をついて少しだけ身を起こした。

 

 

 沖田が冬乃を、いま互いの距離の許されるかぎりに愛してくれるのなら、

 冬乃もまた、その近づけるかぎりに精一杯、愛し返したい。

 

 恥ずかしくてとても、そのまま言葉にはできないけれど。

 

 

 「どうしたの」

 

 身を起こしてきた冬乃を沖田が、何事かと覗きこみながらも、すぐに冬乃の背へと腕を回して、冬乃が起き上がるのを援けてくれる。

 

 まもなく沖田と座って向き合う体勢になった冬乃は、今しがた思い描いた事をやっぱり直接声にする勇気まではなく。

 「わ・・たしにも」

 思わず目を伏せてしまいながら、

 

 「今夜はお返しさせて・・ください」

 

 いつかのようにあいかわらずな遠回しの言葉だけ、

 

 「・・有難う、冬乃」

 それでも。沖田には十分伝わったようだった。

 

 返事とともに強く抱き寄せられた冬乃の視界は、見事に沖田の服だけになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煌びやかな朝の光のなかで、

 冬乃が真っ先に瞳にうつしたものは、沖田の着替える姿だった。

 

 「おはよう、冬乃」

 いつも不思議ながら、背を向けていた沖田がどう冬乃の目覚めに気づいたのか、振り返って微笑んでくれるのへ、

 

 「おはようございますっ・・」

 咄嗟に返しながら冬乃は、どきどきと朝から頬を赤らめる。

 

 脳裏をよぎる昨夜の記憶と。いま目の前で、質の良い着物を纏ってゆく沖田に対して。

 

 

 今朝は、江戸城への登城を控えている。

 

 (きっと・・)

 

 冬乃は更に続くであろう、彼の着替えを布団の中からそっと期待する。

 

 『裃姿』を、ついに見られるのではないかと。

 

 

 「冬乃の朝餉はそこに置いてあるから」

 (え)

 

 だが冬乃からすれば突然の、思ってもみなかったその言葉を受けた冬乃は、起き上がって指された方向を見遣った。

 

 床の間の位置に、ひとつ膳が置かれている。

 (まさか・・)

 

 「総司さんはもう済まされた・・のですか?」

 「ああ」

 

 「・・・」

 朝餉の配膳にも、沖田が食事していることにも、全く気付かず一人寝ていた自分に、冬乃は更に赤くなった。

 これでは結局、昨夜沖田に言ってもらえたとおりに丸々ゆっくり寝坊した状態ではないかと。

 

 「好きな時に食べたらいいよ。給仕には遅くなるかもと伝えてあるから、早くに取りに来ることもないはず」

 

 (うう)

 冬乃は恐縮して頷いた。

 

 

 

 

 

 

 (総司さんの裃姿、見たかった・・・)

 

 そうしてまもなく迎えた、彼らの出発を前に。

 いま冬乃は、落胆していた。

 

 

 だいたい近藤でさえ、迷いに迷ったあげく結局、羽織袴の装いに留めたくらいだったのだ。

 

 

 今回は慶喜への謁見が公に予定されたわけではない、というのもあるようだけど、

 

 近藤曰く、御目見の直参旗本身分を賜ったとはいえ、江戸城に勤める生粋の旗本たちへ遠慮の礼をこめたのだそうで。

 

 登城時には旗本ならば着ていても当たり前の、絹の熨斗目の着物に麻裃の装いを、敢えて避け、

 御目見以下の直参の一般的な装いである羽織袴を選んだということらしい。

 

 といっても御目見以下であってもまた歴とした将軍家来の身分なので、裃の格式さえ落とせば、登城時に着ても何らおかしくはない。つまり土方や沖田が着てもいいのである。

 ゆえに、せっかくなら沖田の裃姿を拝みたかった冬乃としては、至極残念で仕方ない。

 

 

 一方、すでに略式化したらしいものの、江戸登城時の形式というものがあって。それに従うべく、

 

 近藤のほか今回は土方や沖田にも、それぞれ与えられている直参身分に合わせた、荷物持ち等の御供の人数が、臨時で雇い入れられた。

 

 さらに馬上となる近藤には、これは京の頃からもおこなっているように、手の空いている平隊士たちが形式的に供侍として付き添って。

 

 

 ちなみに未だ新選組所有の馬たちは、江戸への陸路を来ている最中なので、近藤の乗る馬もまた他所から借りてきた臨時である。

 

 

 そんなわけで、色々その場つくろいとはなりながらも、

 組んでしまえば見事に堂々たる出で立ちとなった一行は、そうして江戸城へ向けて出発した。

 

 

 沖田の裃姿を想像力で補完しながら、

 皆が道の向こうに消えるまで長く見送っていた冬乃は、

 やがて冷えてきた身に気づき、宿の中へと引き返した。

 

 

 もちろんまだ朝餉はそのままである。

 さすがに空腹を感じ始めている冬乃は、すれ違った宿の者と会釈をし合いながら、部屋へと急いだ。



 





 

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