94.
船が、横浜の病院に立ち寄ったのち遂に前方の視界いっぱいに拡がる江戸の地へ、刻一刻と近づくにつれ、
あきらかに皆の表情には、高揚が見え出していた。
冬乃は、昇りゆく彼らの士気を強く感じながら、
内海に入り大分穏やかになった波の上、突き進む船の甲板で、初めての江戸の地を共に眺めていた。
近藤は只静かにその頬に涙を伝わせている。
心にあらゆる想いが、押し寄せているのだろう。
見守るようにその隣に立つ沖田の、腕の内で冬乃は、また一歩近づいた終焉の時へと意識が向かわぬように努める。
たとえば今も。
平成の、残念ながら濁った空に覆われるビルだらけの東京とは全く違って、
遮るもののない、果てしなき空と、遥か遠く向こうの山々まで見渡せる、穏やかで広大な町並みを見つめながら、
この濁りのない広い空に、夜は散りばめられるであろう星々や、朝日や夕日の照らす光景は、どんなにか美しいだろうと、
そんなことにまで想いを馳せてみたりしながら。
それから。
(・・お風呂入りたい)
そんな割と深刻な想いも、定期的に巡らせて久しい。
これまで冷たすぎる水で倒れそうになりながら体や髪を拭いてはいたけども、きちんと風呂に入ってさっぱりしたくて仕方がない。
潮風まみれの皆も、きっと同じ想いではなかろうか。
(そうだ、たしか釜屋っていう御用宿・・)
美味しそうな名前だったので容易に記憶の底から引っ張り出せた冬乃は、
そうしてこれから暫く、新選組の皆が江戸での主な宿として使うことになる、その旅籠に迄、想いを巡らせた。
順動丸で先発していた永倉たちは、既にそこに入っているはず。
また新選組で貸し切り状態になっているだろうから、風呂場も沖田に見張りをしてもらうことになってしまうのだろうけど。
「・・・」
先日の風呂での事を、そして思い出してしまい。
冬乃は結局、鬱々とした想いに陥り、
諦念の内に、もう目と鼻の先まで来た江戸の地をともすれば涙で霞みかける視界に映し続けた。
遂に江戸へと降り立ってすぐ、
本来の歴史でならば、伊東の件での報復を受けて負傷していた近藤が、病の沖田とともに、病院へ向かうはずだったが、
元気な二人は、当然まっすぐに、永倉たち新選組の同志が待つ釜屋へと向かった。
(すごい・・)
一行がまもなく到着した釜屋は。
堂々とした本陣さながらの門構え、後ろを振り返れば海が一望できて、
冬乃はこんな時世でなかったなら、嬉しくなるような宿泊だったことだろうにと、胸が痛くなって。
時世が急転する直前の、まさに大政奉還の頃、
東下していた土方と井上が此処を利用しているのだ。
冬乃は、斜め前で佇み同じく門を見上げている土方を、おもわず見遣った。
その時より未だ半年も経たぬうちに、この時世を迎え、そんなたった数か月まえ共にこの門をくぐった井上は、もう隣に居ない。
冬乃の見つめる先、やがて、何かを振り切るように土方が、大きく一歩を踏み出し、門へと向かい出した。
「行こう」
優しく声をかけてくれる沖田を振り向き、冬乃は頷く。
沖田の前で近藤も、土方に引かれるように歩み出した。




