91.
(・・・・え)
まさか本当に、こんなすぐ帰ってきてしまうなんて。
冬乃は。目の前の天井を今、呆然と見つめていた。
それも統真の病院ではない、
東京の、家の部屋の天井を。
(なん・・・で)
大体、
統真が冬乃に会うよりも前に、まず冬乃が東京まで運ばれでもしなければ、家で目覚めることにもならないはず。
(あ、薬!)
次には、冬乃は大慌てで身を起こした。
まだ統真の声がしないか聞き耳を立てたが、もう帰ってしまったのだろうか、
聞こえてきたのは一階から呼びかけてくる母の声だけだった。
「冬乃、もう降りてきなさい!」
と。
(急がなきゃ・・)
一刻の猶予も無い。
早く幕末へ戻らなくてはならない。
統真にとにかくまずは連絡しなくてはと、冬乃は携帯を探して部屋の中を廻り始めた。
「何してるの、遅刻するわよ」
ついに部屋の前まで迫った母の声に、だが冬乃は仕方なく動きを止める。
「あ、の、今まで心配かけてごめんなさい、でも私いつ退院したの」
そしてドアを開けるなり聞いてしまった冬乃へ。
母が呆れたような表情になった。
「何言ってるの、先月したでしょ・・」
(・・先月・・?)
「・・ほんとに・・もう二度とあんなのやめてよ。必ず、階段は一段ずつきちんと降りること」
「・・は?」
「は、て何よ。未だ飛ばし降りする気じゃないでしょうね、あんな目に遭っておいて」
「お母さん、さっきから何言ってるの・・?」
「何って・・あんたこそ何いつまでも寝ぼけてるの」
「・・・」
「・・・」
「・・頭打った後遺症がやっぱり何かあるのかしら・・・もう一度検査し・・」
「ちょ、ちょっと待って、ほんとに」
冬乃はついに耐えきれず遮った。
「今の話って、私、階段落ちて頭打ったから入院したってコト?」
「・・・・」
返事で肯定されずとも。
今の冬乃の問いに対して、吃驚で目を見開いた母の反応を見れば、明らかで。
(どういうこと??)
「すぐ病院行ったほうがいいわ、今日学校休みなさい」
「え」
「でもまだ外来あいてないわよね・・何時だったかしら・・」
「学校って、・・夏休みでしょ今」
聞きながら、
冬乃は不安になって母を凝視した。
「本当に、どうしたのよ・・もう先週に学校始まってるじゃない・・」
母の声が震えた。
「とっくに夏休みは終わって九月でしょ・・!」
(う・・そ)
ぐらり、と視界が反転して。
手を伸ばしながら叫んでくる母の声を最後に、冬乃の意識は遠のいた。
「一過性の意識障害の後に・・」
「・・様子を見て、・・」
話し事が降ってくる。開けてゆく視界とともに冬乃の瞳は、心配そうに見下ろす母や白衣の医者を映した。
そして。
「千、秋・・真弓・・・」
懐かしい顔を前に。冬乃の瞳は一気に潤んでいた。
逢いたかった・・・
「ようやく、逢えた」
おもわず声が零れて。
千秋と真弓が、
何故か顔を見合わせた。
「ようやく、って・・なにもぅ」
冬乃へ向き直った千秋もみるみる瞳を潤ませ。
「なんか、そんなすっごい離れてたみたいに喜んでもらえるのは嬉しいけどさ・・」
横で真弓がひどく心配そうに冬乃を覗き込む。
(え?)
さらに二人の横では、母と医者も同じような表情をした。
「まだ、意識失って倒れたの、影響してる・・とか・・・?」
「うちら、昨日も学校で会ってるから・・ね?」
随分と気遣う声になりながら、二人が冬乃へ言い聞かせるようにして呟いた。
(それ・・って)
もしかして本当に、今は九月だというのか。
それでは、もうとっくに幕末の世では時が経過して、――――
(や・・)
「総司さ・・」
「え」
冬乃は勢いよく身を起こし、目の前の千秋たちの手を掴んでいた。
「統っ・・統真さんにっ、連絡してお願い、今すぐ・・!!」
だが身を起こした勢いがありすぎ、そのまま眩暈でふらついた冬乃を、
二人が慌てて支えてくれながらも。
「統真さん、って」
「誰・・?」
困惑を隠せない様子で、冬乃を見つめ返して。
(え?)
「だ、だから、あの助けてくれた人・・私が剣道の試合のとき会場で倒」
「剣道って??習ってたの?」
「え、いつのまに?なんで剣道??」
(何・・何言ってるの二人とも・・)
「中学の時からずっと二人とも応援に来てくれたじゃん、総・・沖田様に憧れて始めたって話したら二人とも、」
「沖田様って、誰?」
どうなってるの
再び冬乃の目の前は、昏くなった。
なんだ・・夢
(・・・・だよね・・?)
そして此処は、
眠りに落ちる前まで居たあの同じ船室なはずと。
そう思考が進むまで、冬乃は暫しの時を要し。
揺れのせいなのか、夢の中で何度も見舞われた眩暈が未だ続いているような感覚に陥る。
まるで時を超えて戻って来たかの、不安をも伴い。
今あの霧も文机も目の前に無いのだから、そんなはずがないのに。
だけどあまりにもリアルな夢だった。
夢の中で冬乃は、もうてっきり未来に帰ってしまったのだと、信じて疑わなかった。
(本当に、ただの夢・・だったんだよね・・・??)
今が確かに、
寝てしまったあれから『ほんのすぐ後』なのだと。
冬乃は、次には確かめずにはいられなくなり、
ふらつく身を起こして、波に大きく揺れる足場で倒れそうになりながら、あちこちに手をついて伝い、船室を出て、沖田が居るはずの甲板をめざした。
隣の部屋から土方たちの声はしなかったが、他の人の声ならば、どこかの船室から聞こえ、
そこに混ざる武士言葉を聞いて安堵が広がるも、それでも沖田の姿を目に映すまでは、まだ足りずに。
(総司さん・・・っ)
はたして、碧空の回光と、凍てつく風に迎えられながら、冬乃の目はこちらを振り返る沖田を映し。
冬乃は、おもわず駆け寄ってしまいそうになった。
「冬乃」
低く穏やかに、優しい、冬乃の大好きな常の声が、呼び掛けてきて。
沖田の横に居た近藤も振り返り、微笑んでくれる。
胸内を大きく満ちてゆく安堵に救われながら、冬乃は結局、駆け寄った。
見たら触れても確認したくなって。伸ばした指先に、確かに温かな肉体を感じて、
漸く冬乃は息をつく。
「どうした・・?」
冬乃の様子に心配になった沖田が、覗き込んでくるのへ冬乃は大丈夫だと首を振ってみせた。
尤も近藤が居なければ、抱きついていたところ、そこはなんとか抑えて。
「私も此処に居ていいですか」
せめて添えた言葉に、
だが沖田のほうが答えの代わりに冬乃を引き寄せて、冬乃の背から深々と抱き包んだ。
早くも冷えていた冬乃の体はそうして突如、温かなぬくもりを纏い。
心まで深く包まれる常の感覚とともに、冬乃は、背の沖田へと自らも身を凭せ掛けると、
近藤が気恥ずかしそうに視線を逸らして海へと向き直るのにつられ、冬乃も眼前に広がる海を見遣った。
遠く向こうまで、果てしなく波打つ濃紺の海と、澄みわたる空との境界に、朧ろげに陸が見えている。この船が寄る予定でいる紀州だろう。
(ん)
不思議と酔いが無くなっていることに、冬乃はふと気づいた。
車酔いの時も、遠くを見ていると良いと聞くので、きっと同じ効果に違いない。
もっと早くにこうしなかった事をちょっと後悔しつつ、いま沖田の腕の中に居られるからこそ可能なのだとも思い至る。おかげで寒さを感じずにいられるのだ。
時おり急に大きな波を受けて足場の甲板ごと上下するが、沖田の支えの中ではそれだって何の問題もなくいられる。
(でも・・毎回こうしててもらうのは、きっとムリそう・・)
冬乃はちらちらと視線を感じていた。
甲板に出てきている他の幕兵たちからの。
当然のようにそんなものは気にしてない様子の沖田と、
同じくそこは気にしてない様子で海を眺めている斜め前の近藤との間で、
「・・・」
冬乃は、ひたすら視線に気づかぬふりに徹することにした。
(・・にしても)
延々と紺の世界を見つめながら、冬乃の思考は、先程のおかしな夢へと流れる。
(なんであんな変なの見たんだろ)
入院していた理由がすり替わっていたのも然ることながら、
あの夢のなかの千秋たちは、まるで、『冬乃であって冬乃でない』冬乃と、過ごしてきたかのようだった。
沖田のことも剣道のことも、初耳だなんて。
どうするとそんな突拍子もない事情の夢をみるのか、冬乃は己で己に首を傾げる。
(そういえば統真さんのことも知らなかった)
あの夢では、二人が、いや『冬乃』も含めて、まだ統真に出会っていないだけだったのか。
それとも。
(・・て、そんなこと想像しても仕方ないけど)
でも。
ずっと冬乃の頭の片隅に、引っかかってきた事がある。
おもえばあの夢は、
まるでそれを具現化したかのようだった。
元の世ではない未来は、どうなるのかと。
(そう・・だ)
『冬乃』は、
沖田のことを知らず、剣道を始めることもない。
統真にも、出会わない。
沖田と千代の歴史を変えた先の、未来の世でならば、
そうなるのではないのか。
“千代の魂” が、
沖田の魂との再逢を望み探し求めて人間界へ降りる未来が、
もう無いのだから。




