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90.





 宵の帷の下、冷たい海風の吹き付ける甲板で、

 

 向こう大阪城の方面一帯が炎に包まれているさまを皆、寒さも忘れ見つめていた。

 

 ある者は嗚咽を抑え、ある者は怒りに震え、

 ある者は只々、呆然と。

 

 

 彼らを乗せて兵庫の港へ向かう、この富士山丸には、

 のちに土方と函館まで行動を共にすることになる、旧幕府海軍副総裁の榎本も乗り合わせている。

 

 彼もまた、近藤と土方が佇む前でいま、憤りに肩を震わせて、遠ざかる炎を睨みつけていた。

 

 

 涙を堪え続ける近藤の後ろには、沖田が見守るようにして立ち。

 その沖田の横に、冬乃は居たものの、

 

 極寒のなか風邪をひいてもいけないと、先程ひとり船室まで戻って来ている。

 

 

 この船室には近藤、沖田、冬乃が入り、隣の船室には土方、島田、そして山崎が入っている。

 なんとか船まで乗り込めた彼だが、体力を使い果たしてしまったかのように、それからは意識を失っている時間が増えていた。

 

 今も音一つない隣の船室のほうを、冬乃は壁越しに見遣った。

 そんな折にも周囲の他の船室からは、辛そうな呻き声や、傷で弱った身のために早くも船酔いをしているのか、激しく嘔吐する音が聞こえてくる。

 合間には、共に乗り込んでいる医者たちの励ます声も。

 

 

 新選組は、この富士山丸と、もう一隻、順動丸という船で、それぞれ兵庫から分かれて出航することになる。

 富士山丸には、新選組を含めた旧幕府軍の重症の傷病人を優先的に留めるはずで、そのため医者の多くもこちら側に残るだろう。

 

 そしてこの船は兵庫で、敗走してくる兵をぎりぎりまで待って彼らを乗せてから、さらに紀州沖でも乗せた後、最終的に江戸へ向かうことになる。

 

 富士山丸より先に兵庫を発つ予定の順動丸のほうに、永倉たちなど新選組の多くの隊士が乗る。彼らは一足早く江戸に到着して近藤たちを待つことになるだろう。

 

 

 

 (船ってこんなに揺れたっけ・・)

 

 傷病で体が弱っているわけではない冬乃でも、ともすれば気持ち悪さをおぼえる。

 

 今も再び苦しげに吐く音がどこからか聞こえ。冬乃ですらこれでは、彼らの苦しみは如何ばかりかと嘆息した。

 

 吐く力さえ残っていないかの、山崎のことも、気懸りだった。

 冬乃は先ほど甲板で、医者がもって今日明日だと近藤へ伝えていたのを聞いている。

 

 

 (山崎様・・)

 

 彼の運命に対し、冬乃にできることは何もない無力感は、かわらず心を苛む。

 

 せめて銃創の痛みだけでも緩和できたなら。

 

 (あの鎮痛薬もっともらっておいたらよかった・・)

 

 千代に使われた鎮痛薬が傷に対しても効くのか、冬乃にはそもそも分からないながら。

 

 

 先日の文机をめぐるやりとりを冬乃はふと思い起こした。

 

 早々に帰されてしまわないに越したことはないけれど、

 

 万一そんな事態になったなら、ただでは戻るまいと、

 統真にまた薬を頼んでしまおうと。

 

 冬乃はせめてそんな気休めを己に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カモメが飛び交う空の下、富士山丸は兵庫を出航した。

 

 日中でもやはり冬の海風は冬乃には厳しく、

 冬乃は全くもって甲板には出て行かない。

 

 近藤は飽くことなく海を眺めにしょっちゅう甲板へ上がるので、自然、沖田も付き添いで上がっている。

 

 この船に潜り込んでいる敵などさすがにいないはずなので、心配は要らないだろうけど、

 それでも気心の知れた新選組の仲間だけで乗り合わせているわけでもないためか、土方からも、できるだけ近藤の傍を離れるなと沖田へ命令が出ているようだった。

 

 一方の土方は、寒さを避けられるならば避けたい様子で、冬乃同様、船室に籠っていることが多い。

 山崎につきっきりの島田と、時折なにか会話をしている声が、隣から聞こえてくる。

 

 

 冬乃はどうにもやはり船酔いで体調の芳しくない身を、誰も居ない船室でとうとう横たえた。

 

 (きもちわる)

 横になった瞬間よけいに揺れを全身で受けて、冬乃はきつく目を瞑る。

 

 それでも目を瞑ったのは良かったのか、暫くすると、なすすべなくじっと座っていた先程迄よりは若干ましになった気がしてきた。

 

 

 できればこのまま眠れるなら眠ってしまいたい。

 

 いや、もしや船酔い対策には何がなんでも眠るべきなのではなかろうか。

 幸いに何かするべき仕事があるわけでもないのだ。

 

 

 (眠くなる眠くなる眠くなる・・・羊・・)

 

 冬乃は念じることにした。







  



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