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87.


 



 

 泣き疲れて、やっと涙が止まり。

 少し待てば赤いだろう目も収まってくれるかと、待っているうちに、

 

 またじわじわと想い起しては、みるみる涙が溢れ出る。

 

 そんな事態を、延々と繰り返した頃。

 冬乃はもう諦めるしかなかった。

 

 いいかげんに戻らなくては、心配されてしまうだろう。

 

 

 廊下の端でうずくまっていた冬乃は、溜息をついてやおら立ち上がった。

 

 

 

 凍えるように冷たい廊下の板張りを、なるべく踏まないように冬乃は爪先立ちながら歩んでゆく。

 

 もう何処の部屋も火を落としているようだった。

 きっと沖田たちの部屋もとっくに暗くなっているだろうから、冬乃の目が赤いことなんて気づかれなくて済んだのではないかと、

 

 そんなことを思えば、もっと早く帰っても良かったものを大分無駄な時間を過ごしたのかもしれない先程が、今さら悔やまれる。

 

 

 

 部屋は、やはり暗くなっていて。

 

 冬乃はそっと、原田のらしき豪快ないびきに迎えられながら奥へと進んだ。

 

 沖田も既に横になっている。冬乃が隣の布団へと、二人分の褞袍を着たままに滑り込めば、すぐに沖田の腕が冬乃を布団ごと当たり前のように抱き寄せてきて、

 冬乃は闇に慣れた視界ではっと上目に彼を見上げた。

 

 冬乃の心の臓はあいかわらず煩くなっても、今は嬉しさよりも、切なさが勝り。

 

 「おかえり」

 すぐ間近でそんな冬乃を見下ろした沖田の、常の穏やかな低い声が小声で囁かれる。

 遅かったね、と暗に言うかのような、

 薄闇のなかでこちらもどこか寂しげとすらとれる眼が、次には見返してきて。冬乃は咄嗟に、小さく頷き返した。

 

 

 それからは互いに何も言わず。

 冬乃は、沖田の腕に包まれたまま、まもなく目を閉じて、再び滲んだ涙も遣り過ごした。

 

 

 

 

 

 

 各自の部屋で朝餉を終え、皆は旅籠の玄関先に集まった。

 

 乗船は順次支度のできた者からと、場へ呼び掛けた土方が、

 続いて治療のために昨夜大阪城に残した隊士の呼戻しを、近くに居る平隊士に頼む。

 

 急ぎ出てゆく彼らの背後で、残る誰もが、ついに迎えた今日の出立に再び肩を落としていた。

 

 

 冬乃は廊下を戻ってゆく近藤の、辛そうな背から、思わず目を逸らした。

 

 近藤たちは、五年もの歳月を過ごした京阪の地を離れ、江戸へと帰ることになるのだ。

 それも、五年前には想像もしなかった望まぬかたちで。

 

 そんな結成当初からの隊士は察する迄も無く、いまここに集う全ての隊士の、悲しみもやるせなさもまた、

 誰もが声にはせずとも、痛いほど冬乃にも伝わってくる。

 

 

 皆、言葉少なに支度へ戻ってゆく中を、無力感に拉がれながら冬乃もまた部屋へ戻る沖田に続いた。

 

 

 「江戸の地で決戦するだけの事だ・・!」

 

 突然、誰かの鼓舞するように叫んだ声が、背後の廊下に響き渡った。

 

 驚いて振り返った冬乃の向こう、隊士たちも皆歩みを止めていて。

 

 「だが・・もし上様がこのまま恭順なさられるのならそれは叶わぬ・・」

 

 「いいや、上様はきっとお心替えなさられようぞ!」

 「そうだ・・!江戸であれば、上様のお気持ちも晴れようぞ・・!」

 

 「つまり一時お気を迷われたと申されるか」

 「そうだ、そうに決まっておる!もしくは上様なりのお考えがあったのだ。元より勝機は我らにある、上様ほどの御方が真にこれをお解りにならぬはずがござらん・・!」

 

 誰かの鼓舞が引き寄せた隊士たちの会話は、またたくまにその場の皆を巻き込んだ。

 歓声に近しき、互いを鼓舞し合う雄叫びが廊下に満ちる。

 

 それはまさに正論で。

 

 もしも慶喜が、この先に恭順を改めて、関東で陸海軍を総動員し綿密な軍略をもって新政府軍を迎え討っていたのなら、歴史は大きく変わっていたに違いなかった。

 

 

 (なのに・・・)

 

 胸奥を奔った哀痛に顔を歪めた冬乃を、同じく立ち止まっていた沖田がちらりと見遣って、

 

 その視線に気づいた冬乃は、はっと為すすべなく慌てて俯いた。

 

 

 慶喜がこの先も恭順を覆すことは無い。隊士たちの求めるような未来は来ない。

 一瞬で、沖田に伝わってしまったことだろう。

 

 冬乃は今この場で感情を顔に出してしまった己の浅はかさを恨みながら、再び歩み出した沖田にそっと続いた。

 

 

 どちらにしても沖田や土方には、この先の望みの無い未来などもう想定されてしまっているのは分かっている。

 

 (・・でも、もしかしたら)

 これまで未来について頑なに口を噤んできた冬乃の様子は、じつは土方たちに最初の疑念を落とした程度だったのかもしれないのに、それを、

 続く冬乃の、今のような細かな反応の積み重ねのせいで、最終的に確信にまで導いてしまったのだとしたら。

 

 

 そう考えてみれば情けなさまで襲ってきて冬乃は、おもわず頬を手で押さえた。

 

 今更どうにもならないだろうけど、せめてこれからでも顔に出ないように努めるしかない。

 伝わる時期を誤ってはならない事なら、未だこの先も多くあるのだから。

 

 

 

 

 そんな決意をした、矢先だというに。

 

 (・・あっ・・)

 

 部屋へ戻って支度を終えた冬乃は、厠へ向かう庭先にて、大きく安堵の表情を浮かべてしまった。

 

 

 今朝の集会でも姿が見えず、かなり心配になっていた求め人が、そこに居たのだ。

 

 「池田様、」

 冬乃は近寄った。

 

 「ご無事でなによりです・・その、今朝もお姿が見えなかったので・・」

 

 一説に池田は伏見の戦さにて戦死と後世で伝えられていた事も思い出していた冬乃は、いま見るからに元気そうな池田を前に、ますます心の底からほっとしてしまい。

 

 そんな表情に、池田が当然驚いた様子をみせて、冬乃は先程の決意を思い起こし、慌てて微笑に替える。

 

 

 「ご心配いただいたのでしたら、かたじけない。少々弾丸が掠っただけですが、」

 きりっと池田が返事をして、己の腕の一箇所を服の上から指した。

 

 「ねんのため治療を受けるよう金創の方に言われましたため、昨夜は御城に留まっていました。先程迎えの方々とともに、戻って参ったところです」

 

 (きんそう?)

 話からして、外科医のことだろうか。

 

 「もうお怪我のほうは、大丈夫なのですか・・?」

 「はい、おかげさまで」

 

 冬乃はほっとして息をついた。

 

 

 「・・皆、江戸で決戦だと張り切っているようですね」

 

 だが続いた、そのどこか一歩引いたようにすら聞こえる台詞には、冬乃は少し驚いて池田を見上げていた。

 

 「我らは上様に従う迄ですが、・・それで江戸決戦になれば良し、ならずとも新選組は戦うでしょう、食い止めねばなりませんから」

 

 既に。池田はどんな行く末になっても受け止める覚悟を決めているからなのだと。

 

 すぐに冬乃は気づいた。

 

 

 「貴女も、最後までついてらっしゃるのですね」

 

 「・・はい」

 

 そんなに、冬乃も思い詰めて見えたのだろうか。それとも。

 

 どう見えたにしても、結局またも表情から判ってしまったのだろうとしか。

 冬乃はもはや自嘲を隠せないままに微笑んでみせた。

 

 「懸命に、」

 冬乃の戸惑いを見たのか、池田がさらに言葉を追わせた。

 

 「行く末に向き合おうとしてらっしゃる、僕たちと全く同じ、眼をされてますから」

 

 (え)

 

 「それでは、また」

 

 

 

 池田の、もう一説での死期さえも、あと二月も無く。

 

 冬乃は佇んで、今度こそ堪えきった涙にぼやけはじめる視界で、去ってゆく池田の背を暫く見送っていた。






 


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