85.
(・・・え、)
ガラガラと戸を開けてから、視界に飛び込んできた光景に。冬乃は目を瞠った。
(此処もなの・・・!?)
見事に脱衣所と洗い場の間の仕切りが無く、向こうの風呂桶までが湯気の中でも見渡せるではないか。
(江戸時代のお風呂場ってやっぱ全部こうなわけ??)
たまたまこれまで冬乃が出会ってきた風呂場だけ何処も仕切りがなかった、と言うには最早むりがありそうで。
「・・・」
冬乃は急速に高まった心の音を胸に、おもわず後ろの沖田を見上げた。
どうやら冬乃の入浴中すべてが見える位置で待っていてほしいと、お願いしてしまっていたことに、気づいて。
(で、でも)
そんな状況がいくら冬乃には恥ずかしいとはいえ、沖田を寒空の下に待たせたくない思いに変わりはないし、なにより、
(ふうふ・・なんだし)
あいもかわらず恥ずかしがっているほうがおかしいのだ、きっと。
冬乃は急いでそう己へ言い聞かせると、再び脱衣所へと向き直った。
あいかわらず自覚なく沖田を惑わせてくる冬乃を、
今も沖田は、慣れた諦めの境地で見守る。
ほんのり湯気のたちこめる脱衣所の、籠の前では、
上着を脱いだ冬乃がそろそろと、袴の紐を解いてゆく。
俯いた小さな横頬は色づき、見るからに気恥ずかしげにしていて、
沖田は背でも向けてやればいいのは分かっていても、どうしても冬乃から目を離せずに。
冬乃の気を紛らしてやる為、否、むしろ己の気を紛らわすが為、先程から沖田は適当な世間話をしているが、二人共にその効果はまるで無い。
やがて冬乃が緩慢な動きで脱ぎ去った袴を、そっと籠へ軽く折り入れ、
暫しの躊躇ののちに、袷の男帯にその細い指をかけた。
袴の時以上に躊躇を繰り返しながら、漸う袷も脱ぎきった冬乃は、
沖田の側からは見えない、前を寛げた襦袢の覆いの下で、湯文字も取り去ってゆく。
膝下からふくらはぎを露わにし、尻肌の薄ら透ける薄い襦袢一枚の姿となった冬乃は、あきらかに沖田の視線をより強く意識している様子で、再び躊躇した侭そこから進まない。
沖田の続けている世間話は恐らく彼女の耳に全く入っていないだろう。やはり背を向けてやるべきか、
沖田がそう漸く決心した時、冬乃もまた決心がついたかのように、つと、するりと片襟を落とした。
現れた細い肩先は、冬乃の胸前で交差された腕の動きに、伴って微かに上下し、
その刹那もう片方の襟が落とされ。
たわんだ襦袢は冬乃の背をするすると落ち、沖田の目に、揺れた黒髪の下の白肌が細い腰元まで曝されてゆく。
更なる決心に押されたかのように、そして冬乃は交差していた腕を解き放ち、襦袢を前へと引いたその手に持って、一糸纏わぬ姿となった。
そのまま、風呂場へ向かいもせず硬直した冬乃が、ふと吐息を伴いながら、
「あ…の…」
か細い声を零して、沖田のほうへ顔だけ向けた。
その冬乃の表情は。恥じらって桃色の頬を上気させ、潤みきった瞳で沖田を見つめ、
「総司…さん…」
切なげに沖田をよぶ声を、艶やかな唇から奏で。
刹那に沖田を強く惹きつけ。
「おねが…い、すこしだけ…」
うしろを向いていて
とでも言おうとしたのか、
聞くより前に、だが沖田は最早動いていた。
戸を背にして懐手で凭れ、冬乃の着替えなど見慣れているからか、まるで意に介していなそうに先程から世間話をしている沖田を、冬乃のほうはまともに向くこともできずに。
羞恥と闘いながらも一枚一枚服を脱ぐたび、冬乃の心も躰も沖田をより強く意識して求めはじめてしまうのを感じても、
変わらず世間話をしている沖田を自分だけが意識しているようで、そんな自身に閉口しながら、なんとか平静を努めて服を脱ぎきった。
だけど裸になって、ついに耐えられなくなった冬乃は、
手にした襦袢で胸元を隠しながら沖田に顔だけ向けて、
想いを、懸命に声に押し出した。
「おねが…い、すこしだけ…」
抱きしめて
そう言おうとした矢先、
沖田が不意に戸を離れ、向かってきて。
(え・・?)
あっというまに前に来た沖田が、裸の冬乃を抱き寄せ、
温かな着物の波で窒息しそうになるほどの強い抱擁に、冬乃は溺れ込んだ。
「貴女は、どうしてそう、いつも・・」
おもわず呟いた沖田の言葉に。
はっと反応して腕の中で身じろいだ冬乃を、沖田は、想いの儘に一層抱き締める。
第一後ろを向いてとでも言おうとしたであろうところ、反対に抱擁されたのだからさぞ驚いたことだろうと、
思えども。
もう我慢などできなかった
口には出さず沖田は、手に触れるなめらかな背の肌をなぞり上げる。
びくりと冬乃の身が小さく跳ねても、構わず辿らせた己の指を次には冬乃の顎にかけた。
持ち上げれば、存外に戸惑いのない、只々蕩けた眼差しが、沖田をまっすぐに見上げ。
艶やかな唇は、沖田を迎えるように小さく開かれる。
(冬乃)
刹那、貪りついていた。
肌を舞う大きな熱い手に、ぞくりと、冬乃は身を震わせる。
口づけと抱擁の、冬乃の動きを容易に奪う、その二重の強靭な拘束は、
冬乃が沖田へ身を任せゆく、常のはじまり。
漸く、
長く感じてきた、あの違和感からの解放を、
長く待ち望んできた、彼と最も近づける、このひとときを。迎えて。
涙さえ滲んで、冬乃は慌ててきつく目を瞑った。
これまでの距離を取り戻そうとするかのように、縋ってくる冬乃を沖田は応えてきつく抱き締める。
(・・いっそ、このまま)
立ち昇った衝動は、
だが遥かに凌駕する自制に瞬間、
水を浴びたように、我に還ったように、覆われ。
己に廻らせた箍の、激しく軋む音を聞いた。
沖田は、
冬乃の額へそっと口づけを落とした。
そのままもう何もせず、唯、抱き包め。
まもなく、ひどく問いたげに沖田を見上げてくる艶濡れた瞳から、逃れるように、冬乃の身を腕内へ引き寄せてその眼差しを塞いだ。
腕の中の冬乃は、やがて観念した様子で沖田の胸へと、その頬を寄せた。
廊下を何人もの隊士とすれ違う。
この旅籠内で動き回れている隊士たちは皆、殆ど怪我もなく元気そうで。
そんな中、今も向こうから山野と蟻通が歩んで来て、その珍しい組み合わせに、冬乃は目を瞬かせた。
いやもしかしたら、遠い昔に三人でなんだかんだ甘味屋へ行った仲ではあるし、古参同士でもある二人があれからいつのまにか仲良くなっていても、おかしくはないのかもしれない。
廊下ですれ違いざまに二人は、沖田に遠慮してか冬乃と何か会話しようとする気配もなく、沖田と冬乃に挨拶だけしてきた。
蟻通は、濡れたままの洗い髪で頬を火照らせている冬乃から、気遣ってかすぐに目も逸らして。
沖田がつと、促すように冬乃を見た。
二人に今一度会釈をして冬乃は、また沖田に続いた。
揺れる篝火の庭側から時折吹きつける風に、冬乃は身を震わせる。
あの二人の目には、見るからに風呂帰りの冬乃と付き添う沖田が、どう映っただろう。ふとそんなふうに思って、冬乃は小さく溜息をついた。
きっと、
傍から見れば、何もかわらず仲睦まじいかぎりなのではないだろうかと。
あの後暫し経って冬乃は、沖田に見守られながら洗い場へ向かった。
ひとり体を洗っている時も、急ぎめなれど湯に浸かっている時も、
近くで見ていながら沖田は、もう何もしてこなかったことに。
どうしても、寂しさがつのり。
此処は仮の屯所同然、まして辛い戦さの様々な状況の後。だからだったのか。
けれど何かそれだけではない感を、
再び例の違和感を、
呼び起こされてしまっている。
抱いて
あの時いっそ、はっきりそうねだったなら、
沖田は冬乃の望む距離にまで、戻ってきてくれたのだろうか。
だけど口にしなくても。
冬乃のその願いは、確実に伝わっていただろうに。
(そう・・)
沖田が、解からなかったはずがない、
それなのに。
(・・どうして)
彼に触れていても届かない距離に苛まれ、恋しくて渇望感に圧し潰される、
この想いは、あの頃とまるで同じではないか。
時のさだめに阻まれ、結ばれることなど叶わないと思っていた、あの頃と。
部屋に着いてからすぐ火鉢の前で濡れ髪をてぬぐいに押さえていた冬乃に、沖田が湯冷めするといけないと、冬乃の褞袍の上から更に沖田の褞袍を着せてくれた。
モコモコの状態が功を奏して、さすがにまもなく髪ごと温まってきた冬乃が、褞袍を返すべく沖田を振り返ると、彼は布団の上で掻いた胡坐に片肘を乗せた恰好で、何か本を読んでいた。
沖田の隣には斎藤がやはり本を、ただこちらはきっちりと正座をして、すっと背筋を伸ばしたままで読んでいる。
その隣では永倉がすでに寝ていて、さらに隣の原田は寝そべっていて、よくみると彼の場合は、真顔なのに春画本を読んでいる。冬乃はもちろん気づかないふりでそっと目を逸らす。
冬乃の布団は沖田のもう片方の隣、一番奥の壁際に在る。
まだ壬生の頃に、幹部の皆と狭い離れでこんなふうに過ごしたことを、冬乃は思い出した。
ここでも、四人の布団なら壁から出入口の襖近くまで隙間なく敷き詰められているけども、
あの時とは違って、冬乃がいま居る、皆の布団の足側方向には、たとえばこの火鉢も隅へ動かさずに済むほど十分な空間があるので、たとえ厠へ行くにしても誰かを踏んづける心配はなくて済むだろう。
褞袍を手に立ち上がった冬乃を、沖田が本から顔を上げて目を合わせてくる。
あの頃を懐かしく想うと同時に、一瞬にして胸内を切なさが駆け抜けた冬乃は、潤みかけた視界に、慌てて手元の褞袍を見遣り、ごまかすように抱え直した。
あの頃居た、山南も藤堂も井上も、もう居ないのだ。
「冬乃、」
あの頃には想像すらできなかった沖田との仲も、
様々な事が変わり、
全ては終焉へと、向かっている。
「褞袍はまだ持ってていいよ。後でまた寒くなるかもしれない」
「あ・・」
より目頭が熱くなって冬乃は沖田の目を見れないままに、頭を下げた。
「ありがとうございます」
今、彼との、何かが確かに変わってしまっていても。
(総司さんは・・それでも優しいままなのに)
冬乃は、あの頃の自分に叱られるだろうほど、こんなにも贅沢にもっと求めてしまうようになっていて。
二人の間でこそ、多くの事が変わりゆき、
あの頃には知りもしなかった、こんな渇望感の苦しみだって、
二人の関係の遷移のなかで、生じて消えて、今また巡り戻ってきてしまった。
出逢ったはじまりから、二人に関わるずっと変わらないものなど、
沖田とのふれあいだけが消し去ってくれる、冬乃に隙をついては纏う此処の世との疎外感と、
ゆえに懐く、
“此処の世には帰属させてもらえずに、元の世へ永遠に帰されてしまう日が来る”
その拭えない直観だけなのではないか。




