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73.





 もう帰らなくてはならない刻かもしれない。

 

 自ら身を離す気に到底なれない冬乃は、長く深い抱擁に包まれたまま、ふと息を顰めた。

 

 身動きすら尚も惜しく。

 いっそこのまま死んでしまいたいとさえ、想いは巡る。これきりの二人の家で、沖田の腕の中、この一番大好きな居場所で。此処だけは、どんなに望んでも永遠を得るすべが無いからこそ。

 

 この身の命を終えた先の、漸く約束された真の"永遠" にならば、今確かに救われているというのに。

 

 それでも、もうその時がすぐにでも来てほしい程の待ちきれない切望も、

 その時が来るまでの避けられない長い別離の辛苦も。

 あらゆる想いのすべてが今、胸内で綯い交ぜになりながら、

 

 今はとにかくこのまま一ミリも離れたくない、その苦しい想いをまず何とか断ち切ろうとして冬乃は、遂に己を奮い立たせた。

 

 

 わかっているから。

 冬乃から動き出さないかぎり、ずっと沖田はこうしていてくれるのだと。

 

 

 冬乃は、深く、時間をかけて息を吸い込み。吐くと。

 最後に、ゆっくりと顔を上げた。

 

 すぐに優しい双眸に迎えられ。

 額へと慈しむようにして落とされた口づけに、おもわず目を瞑る。続いて唇にもふれるだけの熱が落ち、

 その熱がそっと離れてゆくのに引かれて、冬乃は瞼を擡げた。

 

 

 いつかの、強く堪えるような眼が一瞬、冬乃を見返した。

 

 冬乃の瞠目を。

 だがその眼は、受け流すように唯、次には微笑んで。

 

 「・・そろそろ出よう」

 続いたその促しは、

 それでも、名残惜しげな響きをともなうのに。

 

 

 (総司・・さん・・・?)

 

 

 両肩を支えられて冬乃の身は、ゆっくりと離される。離れたことで俄かに纏わりはじめる常の、此処の世との疎外感に、

 重ねて、ふたりの間には今、まるで見えない隔たりを置かれたような感覚が、冬乃を覆っていた。

 

 

 それは以前にも、どこかで在った感覚。

 

 

 冬乃の体を抱えて立ち上がる沖田に、導かれるが侭その腕に掴まった刹那、

 更に既視感までおぼえ。

 

 

 もはや冬乃を覆い尽くした違和感で、思考が引きずられ、立ちながら縋るように見上げてしまったのかもしれない。

 

 見つめた先にふと、少し困ったような、何故か苦しげなとさえいえる表情を垣間見た冬乃の、視界は、

 けれども刹那、沖田の襟元で塞がれた。

 それは再びの、きつく強い抱擁で。

 

 (・・あ・・・)

 

 急速に溢れ出た安息の想いに、押しやられた違和感が未だ少し心奥を燻っても、

 こんな抱擁は常にたがわず、惑う冬乃の心の目までも間もなく塞いだ。

 

 かわらず沖田のぬくもりであっというまに溶け去る、此処の世との疎外感と、まるでいま共に押し流されてゆく思考をも見送り、冬乃は、夢中で沖田の背へと腕を回す。

 

 尤も沖田の広い背には回りきらない腕で冬乃は、彼の両脇の向こう定位置を握り締める。

 いっそう抱き寄せられ、圧されて息を零した。

 

 

 なのに。またまもなく冬乃の体は離されてしまい。

 

 離れる熱とともに再び忍び寄った、ひやりと冷たい感覚が、またたくまに冬乃の心を覆い、

 

 沖田からこれ以上離れたくない想いで窒息しそうになるほどの葛藤に、冬乃は再び苛まれた。

 

 

 早まっている。

 生じた感は、冬乃の心を更に凍えさせ。

 

 沖田と肉体のふれあいによって溶け去る、此処の世との氷のような隔たりの感覚は、以前ならば彼から身を離した直後のこんなにもすぐに蘇ってなど来なかったというのに。

 

 (それ・・に・・・何・・)

 

 今は、更に、何か拭いようのない違和感、

 

 沖田との間に置かれたその見えない隔たりの存在をも、やはり確かに感じていて。

 

 

 「近いうち、また戻ってこられるといいが・・」

 

 冬乃は茫然としたままに顔を上げた。応えて冬乃を見下ろしてきた眼にはもう、先程一瞬に見たあの熱の色も無い。

 只々優しく、穏やかなその眼差しをまえに、冬乃の心中は寂しさのほうが勝る。

 

 (あ・・・)

 

 この違和感は、

 

 まるであの時と同じなのだと。

 

 

 遂に思い至ったその感は、そして冬乃を一気に困惑へと陥れた。

 

 

 「いつになるか、わからない・・か」

 庭先へ向かいだす背が呟く、その後ろで、冬乃は息を凝らす。

 

 (これ・・は)

 

 遥かまえ冬乃が想いを告白してしまったも同然だった、上七軒の料亭での時、その直後に受けた一連の彼の反応への、あの違和感とまるで同じではないか。

 

 それは、続く後日に『避けられている』という答えへと、結びついたもの。

 

 

 (で・・も、なんで・・・)

 

 

 沖田が振り返り、冬乃の手をそっと攫った。

 

 そう。あの時と違って、

 いま繋いでくれる手は、こんなにも温かく。

 

 

 「寺にも、・・」

 

 冬乃を見返す眼差しは、こんなにも深く愛情に満ちているのに。

 

 

 (・・・なのに、どうして)

 

 

 

 「何度でも、坊さんに会えるまで行ってみるが、それも出来得て開戦までだろう」

 

 

 (・・・え?)

 

 鼓膜の底へ届いた今の言葉には、冬乃ははっと我に返って、沖田の双眸を窺った。

 

 「念の為聞いておきたい。答えられるなら、教えて」

 

 (あ・・・)

 「開戦は、いつ」

 

 もう今更、隠すことでもない。

 

 「一月の、三日・・です」

 

 「やはり間もなくか」

 教えてくれて有難う、と添えた沖田が小さく溜息をついた。

 

 「これに関しての猶予は無いな・・」

 

 冬乃が元の世へ帰れる方法を探るまでの猶予、という意味だろう。

 

 沖田があのとき感想したように、そもそも雪山にあの僧が来るかどうかも、

 まして僧が冬乃の帰り方を思いつくかどうかすら、分からないなかで。

 

 

 (総司さん・・・)

 

 ただでさえ酷い多忙の中を、これから彼がその薄い希望に賭けて冬乃のために何度も山へ行くというのでは、冬乃はあまりに申し訳なくなって。

 だけど、

 

 「・・きっと、」

 

 沖田の最期を見届ければ冬乃の役目は終わって、帰され、二度と戻ってこられないことを

 冬乃は直観のように予感していて、そしてその予感が正しければ沖田がこれから労力を割く必要もない。

 それを伝えるなど、冬乃にはとても出来そうになかった。

 

 それでは沖田との関係のはじまりから、永住できると誓ったその嘘をずっとつき通し続けていたと、告白するも同然で。

 

 

 とてもそんな勇気までは、持てない。

 

 (ごめ・・なさい・・・)

 

 

 「・・またいつかは・・急に帰されてしまう時が、あると思います・・」

 

 冬乃は沖田の双眸から目を逸らしそうになるのを抑え、言うべき言葉を懸命に紡ぐ。

 

 「その時に、・・今度はもう此処へは戻らないで、向こうに留まると・・約束します・・ので、お寺へは行っていただかなくて大丈夫・・ですから・・・」




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