72.
(総司・・さん・・)
その死期は、歴史の流れに定められ抗うすべもない運命なのに。それでもそんなふうに冬乃に謝る彼へ、冬乃はもう返す言葉も見つからず、
唯うつむいたまま、変わらず首を振ってみせるしかなかった。
「冬乃には・・俺がいなくなった後も無事に、幸せに生きていってほしいと願っている」
冬乃は、顔を擡げていた。
今かけられた言葉の意味を。理解が追いつくまでに、暫しの時を要して。
(それ・・、て)
「ここからは先程の、山での話の続きだが」
沖田を振り向く冬乃に、彼は何かを籠めるように双眸を合わせてきた。
「やはり、冬乃が元の世に帰れる確かな方法が、もし見つかれば」
「その機会を逃さずに、」
未だ冬乃の心のほうが理解に追いつかない間も、発せられる彼の言葉は、次々と冬乃の鼓膜へ落ちて。
「帰る事を一番に選んでほしい」
冬乃は、ついに戸惑いのまま呆然と、沖田の双眸を見つめ返した。
「それがもしも一度きりの機会ならば、俺の死より前であろうと」
帰ってほしい
確かにそう繰り返した沖田の言葉を。最早、冬乃はうわの空のように聞いて。
「・・い・・・や、です・・」
漸う押し出した冬乃の声が、掠れた。
今の彼の物言いは、元の世へ永遠に帰れという意味なのだと。それだけは理解して。
元の世へと帰される
それはきっと逃れられないであろう冬乃の近い未来。
それでも決して、沖田の最期を見届けることさえできずに帰されるなど、到底受け入れられる選択ではないのに。
(なん・・で)
ずっと懼れていたそんな事態を、
まさか沖田から選ぶように言われると想像もしていなかった冬乃は。
胸内を切りつける鋭い痛みに戸惑いに、震えた手をおもわず沖田へと、縋る想いで伸ばしていた。
彼に指先のふれた刹那、
古寺での桜舞う、もうきっと見ることは無いあの光景が、
不意に冬乃の脳裏に想い起され。
冬乃は、はっとして動きを止めた。
『無事に、幸せに生きていってほしい』
沖田の先の言葉が、耳奥に残っている。
もう冬を越すを望んでもいない冬乃に
まるで、また春を見せられるようにと願うかの、その言葉
(そう・・・だった・・)
冬乃自らが近藤の死因を問われたつい先程、この後の開戦を確かに肯定してしまった。その上、
沖田には、その全面戦争の結末もその後さえも、やはり想定できてしまっているのだとすれば。こんな今の世に、もう間もなく己の死後ひとり残される冬乃へ、
今となっては最も安全な元の世へと、帰れる方法がもし見つかるならば帰るようにと。
沖田ならそう望んでくるに決まっていたではないか。
彼が己の死期を確かめようとした訳も、ひとつにこの先の冬乃にとって最善の道は何かを、そうして判断する為だったのだろう。
(・・総司さん・・・)
「違、う・・んです」
だけど冬乃が望んでいる道は、
「どうか・・・」
貴方がいない世界を
生きてゆく道じゃない
『生きていってほしい』
反するその言葉は今、
冬乃の心をきつく縛り付ける。
――追わせて
冬乃は、その喉まで出掛かった願いを必死に抑え込んで、
一気に溢れ落ちた涙も払い忘れて、唯、指先の向こう、沖田の襟を力なく握り締めた。
そんな冬乃の内に秘めた願いなど。
(・・貴方は、もしかしたらもう・・・わかってて・・・)
「居させて、ください・・」
弱く震えた声になりながら冬乃は、握り締める沖田の襟元へと額を寄せた。
追うことを
認めてはもらえないというのなら
(・・せめて)
「総司さんと過ごした、此処の世に・・・」
時の壁に阻まれ。きっとそれすら叶わないことなど、わかっていても。
(それでも貴方にまで許してもらえないなんて、・・そんなの・・・)
「おねが、い・・」
此処に居ていいと、言って
(貴方だけは)
零れ落ちた冬乃の縋る声は、まもなく堰を切った涙ともはや止めきれない慟哭で強くしゃくり上げた。
「・・御免、冬乃」
いっそう辛そうな声が落ちてきても、
冬乃はもう、喉を込み上げる自分の泣き声を止めることも叶わず。
これまで堪えていた全てが、心の奥底からいま溢れ出て押し寄せるかのように、
冬乃は、込み上げ続ける泣き声に自身で驚いてもなすすべなく、沖田の胸元にしがみついたまま、呼吸も侭ならない咽びに喘いだ。
「冬乃、御免・・冬乃」
こうまで泣かれるとは、沖田とて思いもしなかったのだろう。幾度も謝り呼びかける沖田の声を、冬乃は己の声の狭間に聞いた。聞いても、もう堰を切ったきりの慟哭を自身で収めるすべのない冬乃は、沖田の襟元が冬乃の涙で濡れそぼつなか、懸命に顔を伏せるしかできずにいた。
「・・ご・・・め、なさ・・」
漸う言葉を押し出せるまでに、どれほどの時が経ったのか、
冬乃の背を撫で続ける沖田の大きな手と、しだいに呼吸の波が合ってゆき、やがて冬乃の感情の疾風が少しだけ落ち着くまでに。
未だ嗚咽は続く内で、冬乃は取り乱したことを詫びようとして、俯いたままにもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
つと冬乃の背から手が去り、かわりに硬い腕が回って冬乃を一瞬、強く抱き包めた。
彼も再び「御免」と、否、それ以上の言葉には成らない、あらゆる想いをも籠めるかのように。
まもなくその力は緩められ。覗き込むような気配を感じても、顔を上げられないでいる冬乃を察したように、
「このままでいいから聞いていて」
そんな前置きが落とされ。
「世がこうなった今、俺があと数月で冬乃の傍に居られなくなる以上は、元の世へ帰る事をあくまで最善の選択肢として据えてほしい。・・冬乃の気持ちに副わぬ願いを言ってすまない・・だが、この気持ちは変わらない」
(・・・っ)
ただ、
と沖田の気遣う声が落ちた。
「その機会が無いままならば、以前に伝えたように近藤先生の奥方を頼って、・・援け合って、生きていってほしい。世が落ち着くまで身を隠す住まいなど新たに必要な手配については、四月迄に整えておく」
「・・・ありが・・とう・・ございます」
震える声を無理やり押し出し、冬乃は顔を伏せたままにきつく目を瞑る。
(・・それ・・なのに)
時の隔たりの壁、その変わらず聳える此処の世との疎外感が、
冬乃に直観ともいえる予感を根強く植え付けたまま、それは拭い去るのも叶わぬ事。
沖田が冬乃のためにこうしてどれほど遺してくれても、
どんなに冬乃が願っても拒んでも。
すべての使命を終えた時、きっと冬乃は元の世へ帰されてしまうのだろうと。
まさに、
今の沖田の望むように。
(・・けれど)
冬乃の心を凍えさせてきたその疎外感を、その苦しみを、沖田が知らなくても。
そして跡形なく、沖田との変えられたはずの全ての軌跡は此処の世から消え去り、元のままの歴史の流れへと帰されてしまう事が、
それがいずれどれほど冬乃を苛むか、彼には想像のしようがなくても。
なにより、沖田の望みが、冬乃の身を心配し想っての事であると。もう痛いほど伝わってきても。
(それでも私は、・・ただ)
許してもらえたらと、どうしても望んでしまう。
沖田を少しでも感じられる此処の世に、居続けられることを。
(貴方にだけは・・・許されたかった)
そして
なによりも本当は
不意の、澄んだ鳴き声に呼ばれたように冬乃は、沖田の腕の中で彼の胸元に横頬を寄せて、声のした庭先へと目を向けていた。
翡翠の羽が、涙に霞むままの視界から飛び去ってゆき。
あらわれたその向こうを
いつのまにかあの山から運ばれて来たかの粉雪が、はらはらと、舞い。
その天泣に、
この魂の――千代の、
言の葉がまるで、舞い落ちてくる錯覚が刹那に重なって。
冬乃は、胸内へ降り積もるその言葉を叫んでしまいたい想いに、再び酷く駆られた。
『離れたくない
もう二度と』
――連れていって
その本当の願いは
気づかれているかもしれなくても、
拒まれるとわかっていても。
それでも声にして伝えなければ後悔してしまう
そんな想いにまで、押され。
「総司さん・・、私は・・・」
冬乃は沖田の胸元へ向き直って額をうずめ、震えてしまう手を彼の襟元から離せずに、
「貴方を・・・追わせて、もらえるなら、・・」
意を決して伝えたい言葉たちを、掠れてしまう声に懸命にのせてゆく。
「あとすこしの、月日も・・もう辛くなくなるんです・・」
冬乃を包む沖田の腕に刹那、堪えるような力が籠もるのを感じた。
「・・・お願い、・・離れたくない・・・」
目の前の襟を冬乃は強く握り締める。
「総司さんのあとを、追わせて・・・一緒に死なせて」
奥底の魂から訴えてくる言の葉が。冬乃の心を埋め尽くしてゆく。
今度こそ、離さないで――――
「わかった・・・一緒においで」
(・・・・・え・・?)
「――そんな事を。言えるわけないだろ・・」
たまらず遂に顔を上げた冬乃の瞳に、見下ろすあまりに辛そうな表情が映り、
冬乃は刹那に言葉をうしなって。
「・・俺が、冬乃に望む事は」
その表情が揺れ。冬乃の片頬には沖田の掌が添えられた。
「冬乃が天寿を全うする事。そして、」
冬乃を慈しむ眼差しが、今の言葉に瞳を見開いた冬乃を見つめ返す。
頬に添う温かな手は冬乃の涙を柔くぬぐうと、
上がって髪上の櫛に、そっとふれた。
「二の世で再び出逢う事」
(・・あ・・・・)
『俺と冬乃としてではなくなっても
必ず、また一緒になろう』
あの日かわした
互いの魂の、再逢の契り――――
「どれほど時を経ようと。必ず、迎えにいく」
冬乃は、涙の明ける霞みの晴れた視界に、
冬乃への深い愛情を湛えた双眸を映した。
(総司・・さん・・・)
「それまで待っていてほしい」
此処の世に留まる願いも
彼を追う願いも
なにひとつ許してはもらえないというのに
彼はそうして冬乃を
訪れる別離の苦しみに、縛り付けるというのに。
(・・・それなのに)
『どれほど時を経ようと。必ず、迎えにいく』
この魂に向けられた、その誓いは、
冬乃の心を再び氷のように覆い尽くしていた疎外感を絶望を、溶かして。
それどころか、
この魂――千代と沖田がかわした再逢の契りをも、
その誓いはまるで包みこむように。
(・・・ちがう、)
今の誓いは、その契りを遥かに超えた想いを伝えている。
時の流れを超越した彼の究竟の魂が、今、
沖田に、言の葉で言わせ伝えさせたかのように、
まっすぐに、この魂――千代へと。
千代と沖田、二人の再逢ならば、冬乃と統真によって既に果たされているのだから。
それでも尚、罪の呵責が為に苦しみから解放されないままでいた千代の、
救済に、
導かれたこの奇跡のなかで。
千代と冬乃の、魂から、真に願い続けてきたものが、
今ようやく誓われたのだとしたら。
こんなにも深いやすらぎを、
冬乃の心の奥底から感じているわけも、きっと。
(そういう・・こと・・だったの・・・?)
離れたくない
もう何処の世にも行かず、永劫に魂でそばにいさせて
その真の願いは、
彼の『究竟』の魂が、統真として冬乃、千代の魂と再逢を果たした先、
冬乃の天寿ののちに本来ならば約束されるはずだったのではないか。
けれど千代自身で生み出した罪にまみれたままの、この魂は、
まずその罪を苦しみを拭い去り、浄化されなければならなかった。
決して仏の力による強制ではない、自らの意思に縁って。
(・・・それとも)
始まりはもっと、ずっと前に。
沖田の魂が肉体を離れ、迎えに来た千代の魂とふれた時、
千代の果てのない苦しみを知ったとしたら。
二の世を擲ち、千代の救済が為、究竟と成る修行に投じたのが先なのか。
それだけではない。その始まりより、
想いは世を隔て更に強まるばかりの、千代の真の願いをも叶えるが為に。
いま冬乃の心奥、まるで魂からの直観のように解ることは、唯、
始まりがたとえいつからであっても、
(この奇跡は)
千代の魂の浄化――救済だけを、見据えたのではない、
『どれほど時を経ようと』
二の世を超え、時の流れをも超え
救済を経て
『必ず、迎えにいく』
『浄土』よりもさらに先、
永劫に二人が別つことのない、無常を超えた『涅槃』へと、
迎えるための奇跡――――だったのだと。
いつか、
冬乃が沖田の願いの通りにこの天寿を全うしたとき。
(貴方に・・総司さんに、また逢える)
「はい・・・」
沖田の澄みわたる双眸が、しっかりと顔を上げた冬乃を見つめ返す。
「待ちます・・“二の世で” 迎えに来てくださるのを・・」
貴方の傍に、とわにいられる時が来るその日を。
深く安堵したように沖田の強い抱擁が、それから冬乃を長く包んで。
粉雪の止んだ碧空から穏やかに降り注ぐ光は、そんな二人を柔く照らし続けた。




