70.
草を食べてはゆっくり前進していた馬の、時折揺れる艶やかな黒尾が、やがて障子の向こうに消え。冬乃は、残像の先に全姿をあらわした松へと視線を流した。
奥の部屋の此処からでは、あの松の足元の枯山水までは見えない。後でもういちど最後に目に焼き付けたいと、冬乃は頭の片隅で思ってから、
先程この家に来てからずっとこんな調子で、どうしても見納めたくてあれこれ眺めてしまう冬乃の様子には、沖田も何かしら気づいてしまっているのではないかと、
そんな心配が、つとよぎり。
冬乃は背のぬくもりに包まれながらも小さく震えた膝上の拳を、隠すように握り締めた。
(・・それとも・・)
いくら冬乃が、口に出しては伝えられずにいようと、
そうしてどんなに冬乃が“肯定” しなかろうと。
先程の沖田の話からしても、
これまで冬乃のひたすら口を噤んできた様子に、沖田たちには、この先が決して旧幕府側にとって明るい未来ではないことなど“みえて” しまっているのではないかとも、思えていて。
それも土方が冬乃を訪ねて聞いてきた、あのじつに第二次長州征伐の直前の頃からとうに、少しずつ忍び寄るように。
勿論あの頃は聞いてきた土方も、未だどのような未来が待っているかを鮮明に判ったわけではないだろう。
けど恐らく、今ならばもう、
はっきりと。
そしてそれなら冬乃に接したことで、土方たちがこの幕末の世で最も早く、国の行く末を見通してしまった存在といえるのだろう。
今の時点で彼ら以外に誰が、全面戦争を向かえた際の旧幕府側の『敗北』をも、想像できるだろうか。
あの第二次長州征伐では。
諸々の不幸が重なり再起を挫かれた幕府側の、激しい落胆とは真逆に、
長州やその後の討幕側に、気運と勢いを与えるにまで至ったといえども。
当時、はなから闘う意気に欠いていた幕府軍との勝敗が、
つまり互いのもつ本来の力量による結末ではなかった事ならば、討幕側とて承知の事。
しかもそれからの幕府は、失墜した威光と癒えぬ財政難にあえぎながらも、再びの戦さを避けられぬ事態に備えるべく、着々と軍備の強化を推し進めてきた。
そして今や、旧幕府軍本体ならば、薩長が束になっても勝てるはずのない圧倒的な差にまで達している。
実際のところ武力討幕側の面々も、“本気になった” 旧幕府側と全面戦争を迎えて闘えば、勝利できるとはまず信じてはいなかったともいわれる。
彼らがそれでもいま開戦をひたすらに求め、この先に強行できたわけは、ひとえに、
今上の帝を担げる算段をつけていたが為。
錦の御旗
とは、帝という『正義』をどちらの軍が擁したかを示す、
戦時における政治上の“勝利宣言”。
これを示せさえすれば、
『正統な軍――官軍』を名乗ることができ、
従わない者達は『逆賊』とされ、そうなるを望まない藩をも、己達の軍に引き込むことが叶う。
そしてそうなれば、帝を伴って国元へと逃がれ、その地で徹底抗戦をも望める。
ゆえに必要なものは、その初期の抗戦において帝を奪還されぬよう耐えうるまでの戦力でよく、
それを薩摩ならば、確実に保持していた。
だからこそ彼らは戦争を切望し、画策し。現状への焦燥にも後押しされて、この先は更になりふりかまわずどんなに汚い手をつかってでも、開戦へこぎつけるべく尽力することになる。
―――けれど、こののち蓋を開けてみれば、彼らにその一連の抗戦の心積もりすら必要は無く。
開戦から一日、この錦旗を討幕軍が掲げたが直後、
それまで第二次長州征伐の時さながら余りに不慮の事態が多発した後ですら、各所で持ち直していたはずの旧幕府軍の形勢は、
再び、いとも簡単に逆転してしまう。
諸藩を含めた多くの者たちが、翻る旗を前に次々とその剣を下ろしたからだ。
『逆賊』となるを懼れる者は、討幕側の想定した以上に遥かに数多に上ったのだ。
一部の気骨ある兵と、会津そして新選組などの、
先帝の想いを受け継ぐがゆえに、その旗が偽にも等しいと受け止める気概をもつ者達だけが、
取り残され。
それは昇り続けてきた気運が、
討幕側へと、完全に味方した瞬間だった。
その旗をまえに慶喜もまた、当然の如く、絶対恭順の姿勢を採った。
そして旧幕府軍は、保有していた戦力全てを発揮する機会も永遠に失ったまま、
まもなく江戸の不戦開城いわゆる“無血” 開城を経て、
『誠の正義』を貫くため戦い続けるを選んだ者達は、やがて江戸を去り。戦さの地は会津、そして北のさいはての地へと。
信念は違えても同じくより良い国をめざして、両者の間で長らく繰り広げてきた血で血をあらう闘いは、
最後まで互いにその志を交えること叶わず、
そうして終止符を打つまで、続いて。
縁側に降り立った小鳥が、首を傾げるように、部屋の中を覗いた。
少し吟味したかの間をおくと、軽やかに縁側の端まで跳ねてゆく。
追うように舞い降りてきたもう一羽が、同じく縁側を辿りだして、まもなく二羽は歌い合うようにさえずりを奏ではじめた。
可愛い歌声の合間には、今や家のおもてに居る様子で土間の方角から聞こえてくる時折の、まのびした馬の嘶き。
そんな束の間な生き物たちの合唱ののちに、縁側の端まで辿り着いた小鳥たちが空を仰ぎ、再び高らかに飛び立ってゆき。
変わらぬのどかな光景は、なおさら冬乃の胸を締めつけていた。
(・・・人が、戦争なんて、しなかったら)
そういう存在でさえ、なかったなら。
(・・どうして、)
大切な者を喪い、数多の犠牲に苦しんで、
二度と繰り返すまいと。人々はそのつど祈り誓ったはずが。
その悼みをまるで忘れたように、やがては再び戦争の時世を迎えてしまう。平和的な解決など、またも叶わないまま、
いつの時代も、これが人の限界であるかのように。
伊東や龍馬のような抗う存在が、いつかはそんな限界に勝利する日など、望めるのだろうか。
人の世から、永遠に戦争が無くなる歴史など。
『どいつも伊東さんのような人ばかりだったら、元からこんな乱世にもなっちゃいない。流すしかねえ血もある』
土方の言葉が脳裏に想い起され。冬乃は小さく息を吐いた。
人の世への、諦念とすら形容できるその言葉。
土方達は、戦争も、死も、当然のように受け止めている。全てのはじまりから。
何もかも、
いつまでも受け止められずにいるのは、冬乃のほう。
それなら、――――
沖田が欲している答えもまた、受け止められないままなのは冬乃であって。彼ではないのだから。
彼が望むなら、
冬乃は隠さずに伝えるべきなのではないか。




