63.
今生の別れになるかもしれなくても
いつの時も、さよならの言葉だけは誰もが口にしなかった
新選組が遂に屯所を完全に引き払う前夜。
使用人たちは最後の仕事を早めに終わらせると、近藤の部屋へ集まった。
「此度の事、急でまことに申し訳ありません」
皆を前に深く頭を下げた近藤に、使用人たちも慌てて頭を下げる。
新選組の次の行き先は伏見奉行所であり。新選組の引っ越しには再三つきあってきた彼らも、今回はさすがに同行できない。
「全てが片付いたら、この屯所に帰って来たいと考えています。だが当分の間は留守にするより他なく」
つい先日までも、いつ帰れるかは分からぬ中、新選組は慌ただしく主要な荷物だけ携えて二条城に詰めていたばかりだった。
その後は更に他所へ移動しつつ、結局は数日で帰ってきたのだったが、
明日からの伏見行きにおいては、京を出る事が確定したうえ戻りの期限はおろか目途すら全くみえず、使用人たちに留まっていてもらう道理がもう無かった。
「面目次第もござらぬ・・」
繰り返された哀しそうな近藤の詫びの声に、茂吉が顔を上げて、とんでもないと首を振って返し。
部屋の隅で冬乃は、滲む涙を堪えながらそんな茂吉たちの背を見つめた。
冬乃が此処の世へ来た、そのじつに初めの日から、
茂吉や藤兵衛そしてお孝とはずっと、共にこの新選組で働いてきた。その日々が今、ひとつひとつ記憶を巡って、堪えている涙の堰をともすれば崩してしまいそうになる。
「皆々様には、此れまで言葉に尽くし難い程、大変お世話になりました」
やがて近藤がそう言うと膝を進め、茂吉たち古株三名の前にひとつひとつ丁寧に包みを置き始めた。
冬乃も急いで立ち上がり、茂吉たちの後ろに坐す、西本願寺の頃に新たに入ってきてくれた使用人たちへと、あらかじめ近藤より託されていた包みを渡してゆく。
「思いのままお渡ししたい程に包むことが叶わず、お恥ずかしい限りですが・・こちらを当面の金子として受け取ってはいただけないでしょうか」
座り直した近藤が、そして恐縮したような表情で言った。
組からの用立てに重ねて、近藤土方個人の給与からの心付も上乗せされ、ことに茂吉たち古株三名には彼らの向こう一年分の給金に匹敵する額を包んでいるが、
近藤からすれば、これまでの感謝と突然のお暇にたいする詫びには到底いたらないと思っているのだろう。
一方で、畳に置かれた厚みのある包みを目にした茂吉たちは、驚いて顔を見合わせた。
「こないにいただけません」
茂吉が焦った様子でいつも以上の早口で口奔り。
「しかし」
今度は近藤が、隣の土方と顔を見合わせる。
「でしたら、こちらは“予約金” も含ませてもらっていると、思っていただけませんか」
つと土方が茂吉たちへ向いて、珍しく微笑んだ。
「いつかまた我々が此処へ帰って参った暁には、貴方がたにもどうか戻ってきていただきたく」
「ああ、その通り・・!」
近藤が合わせて破顔し。
「ぜひそうお受け取りいただきたい・・そしてまことに、できればまた戻ってきてはいただけないだろうか」
「それは、もちろんでございます」
「お帰りをお待ちしております」
すぐに茂吉たちが口々に答えて。
「では・・有難く頂戴いたします」
改めて代表して礼をする茂吉に継いで、藤兵衛たち皆も畳へと両手をついた。
支度を終えていた茂吉たちを門前で見送り、涙の滲んだままに冬乃は、女使用人部屋に戻って荷物をまとめているお孝を手伝いながら、
いつもとかわらず楽しげに世間話をし続けてくれるお孝の明るさに、内心救われていた。
ゆえに。
「うちは、お武家はんの事情はよう分からしまへん。そやけど、・・冬乃はんは何があっても、死んだらあかんえ」
荷物をまとめ終えて立ち上がったお孝が突然放ったその言葉は、
冬乃を瞠目させ。
咄嗟の事に声も出せずお孝を見つめる冬乃に、お孝が悲しげに首を振ってみせた。
「大きな戦さになってまうかもしれへんのやろ・・組のお方々は気い張りつめてはるよに見えるし、冬乃はんはこのところずうっと思い詰めた顔してはったさかい」
(え)
「これから何があっても冬乃はんは、・・貴女を喪うたら悲しむ・・苦しむ人のため思うて、生きてあげなあかんえ」
刹那に母の顔を思い浮かべた冬乃は、息を呑んだ。
「江戸に居てはる親御さんのこと、苦しめたらあかん」
冬乃の心内の揺れを分かりきっているかのように、お孝が言い直して。
「・・教えてください、」
冬乃は。おもわず呟いていた。
「そうして・・生きることで、私が苦しみ続けることになっても」
ずっと、心の奥底に沈んでいた、その問いを。
「・・それでも、親は私に、生きていてほしいのですか。苦しくても生きなくてはいけないのですか・・・」
「悲しいこと言わはる」
お孝が瞳を涙ぐませて小さく溜息をついた。
「そないなこと子に言わせてしもうたら辛いわ。申し訳のうなる・・」
まるで我が子からの言葉を受けたかのように、酷く辛そうな声を零し。
「そやけど、月並みな言い様になってまうけど、いつかはきっと状況が良い方に変わる時も来るかもしれへんて、踏ん張っていてほしいの。・・無理に動かんでもええ、ただ生きようとしていてほしいの。
そしていつかはまた、生きているからこそ出来るはずのいろんな事を楽しめるよになってほしい、そないに幸せもまた掴んでほしいんよ」
「けど、そうやね・・子にどないに辛くても必死に生きててほしい言うのは、きっと親のわがままやわ・・・」
「もし・・」
お孝が尚、悲しげに目を伏せた。
「親としてやなく、一人の人として言わせてもらうんやったら、」
「・・授かった命やから、何が何でも大事にせなあかん粗末にしたらあかん言うのは道理やろけど、それぞれにいろんな事情もあるいうのに・・それやのに、どないな事があっても苦しみのたうちまわってでも生き続けろやなんて、・・それはそれで、そないなこと強いるんは鬼やて思う・・」
「矛盾しとること言うてるけど・・」
「いえ、」
冬乃は慌てて首を振った。
どちらもお孝の心からの言葉なのだ。
親として、子には生きる希望を諦めないでほしい、一方で他人が誰かに深い苦しみの中でも生き続けろとは、強制できるはずもないと。
そして、
それでも。冬乃には生きていつかまた幸せを見つけてほしいと。
そんなお孝の気持ちが、沁み入るように伝わってきて。
「有難うございます・・、」
冬乃は小さく俯いた。
「・・こんなこと聞いてしまって、ごめんなさい」
「うちが言いだした事や。そやけどほんに、気を強う持っててな。・・戦さになったら、大切な人達にいろんな事が起こってまうかもしれへんけど・・そこで踏ん張らなあかん」
(お孝さん)
冬乃は深くお辞儀をして返した。
踏み止まれる自信は、日ごと欠けてゆくけれど、
お孝の言葉は、その時が来て思い出せるのだろうか。
生きる気力も、死ぬ気力すらもきっと、無くなってしまうなかで、
それでも想いに押された最期の力が冬乃を突き動かしてしまうだろう、その時に。
「ほな・・また会う日まで元気でいてね」
「お孝さんも・・」
宵闇のとばりが降りた空の下、門前まで見送った冬乃を振り返り、お孝がにっこりと微笑んでくれる。
最後はまた笑顔を見せてくれたそんなお孝に、冬乃は精一杯、笑顔で返そうとした。
「ややわ、泣かんといて」
「すみませ・・」
全く成功しなかったけども。
「・・これまで本当にありがとうございました・・」
「うちこそほんにおおきにな」
もう何度目になるか分からない感謝の辞を尚言い足りずに繰り返す冬乃に、そしてお孝も何度も返してくれながら、
「ほな・・行くね」
やがて、意を決したように一歩前へと歩み出て。
幾度も振り返って手を振ってくれるお孝が、遠く道の角を曲がって見えなくなっても、冬乃は長く佇んでいた。




