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44.




 藤堂を一階まで降りて見送ってから、冬乃は沖田に助けられつつも、階段から廊下を着物の長すぎる裾でずっと掃除しながら部屋へと戻ってきた。

 

 襖を閉め切るなり、片頬に添えられた手に冬乃の視線は持ち上げられ。その目の前を懐紙がよぎった。

 

 驚いた冬乃の、紅を湛えた唇は、幾度かの掠めるような口づけと交互にそっと懐紙でも柔く拭われてゆく。

 

 (あ・・)

 次の刹那にシュッと解かれた帯が、落ちきるよりも前、きつく抱き締めてきた沖田の力強い腕のなかで冬乃は、反面小さく溜息をついた。

 

 露梅を、思い出して。

 きっと彼女のこともこんなふうにして、紅を落として、こうして強く抱き締めていたのかもしれないと。次にはそんな光景まで想像してしまい。

 

 冬乃のいま芽生えた想いなど知らなそうな沖田が、

 つと冬乃の後頭部から首元へと流してきた片手でそっと、促すように冬乃の顔を沖田へと擡げさせ、

 

 残る片腕ならば冬乃の躰を抱き寄せたままに、

 唇、徐々に首すじへと、少し横から屈むようにして口づけを辿らせてきて、

 

 その常の巧みな手捌きで、

 気づけば冬乃の纏う着物を脱がし始め、

 

 冬乃は不意に。思い出した。

 

 遊女の恰好の冬乃だけども、

 いまは月のものだったことに。

 

 (あっ・・)

 熱を帯びた大きな手の感触が、

 「総…司さ、…んっ」

 冬乃の襟内へと潜り込んで。首すじに口づけられたままに、

 冬乃は慌てて声をあげた。

 「いま…私…っ…」

 

 ぴたりと沖田の動きが止まり。

 

 「・・・」

 いま私

 だけで分かったらしい、まさかの彼を。冬乃はおずおずと見返す。

 

 「残念」

 と笑ってみせる沖田の、未だ熱を孕んだ眼にかわらず心の臓を跳ねさせた冬乃こそ、内心残念でたまらないなんてことは、

 どうせ見透かされてるだろうから言わないけれど。

 

 大きな手が今度は、目の前をよぎった。

 冬乃の結い髪の左右に差された大小様々に煌びやかな簪へは視線もよこさず、

 冬乃の前髪をふんわりと留め上げる櫛へと、そっと沖田の手が触れたのを感じ。

 

 いま冬乃の髪を彩る飾りのうちで一番高価な物でもあるだろうそれは、勿論のこと沖田の贈ってくれたあの結婚の証。

 あれから冬乃がこの櫛を差さなかった日は無い。さすがに男装の時は例外だけれど。

 

 「いつも差してくれてるね」

 沖田が嬉しげに微笑んで、冬乃はどぎまぎと頷いた。

 

 「これも」

 と沖田の手が更に、櫛のすぐ後ろへ横向きで差し込まれている簪へ触れる。

 

 そう。この簪はそして、沖田に最初に買ってもらえたあの簪だ。

 これもまた冬乃の髪にいつも居る。

 ちなみに北野で買ってもらえたあの予備としての簪は、行李のなかで留守番している。

 

 

 「はい・・」

 冬乃は微笑んだ。

 

 「だってこの先も一生、つけていたいくらいですから・・」

 

 

 (なのに・・)

 いずれも、未来へは持ち帰れない

 

 一生と、口にした刹那に想い起した、その胸を衝く哀しみに冬乃は咄嗟に目を伏せた。

 

 だからいつか還されてしまうその前に、この櫛と簪たちを地中へ埋めて未来で掘り起こそうと本気で考えていた。

 

 あの僧に会うまでは。

 

 

 (・・私の居る未来の世は、元の歴史の未来)

 

 あの僧はそう言ったのだ。

 それなら、

 

 此処で冬乃が巡った全ての軌跡も、冬乃の世ではみることができない歴史で、

 

 此処の世で櫛たちを地中へ埋めても、

 そのタイムカプセルが、元のままの未来に還ってしまう冬乃へ届くことは無い。

 

 

 (・・・・あれ・・ちょっとまって・・)

 

 それでも、

 変更が成されたこの歴史の、続く未来のほうにも別の冬乃が存在するのなら。

 その冬乃が手にすることはできるのではないだろうか。

 

 (・・・え?)

 

 でもそうとしても。その冬乃は、もう別の冬乃だ。

 

 (“私” じゃない私・・ってこと・・?)

 つまり此処での記憶を持っているはずが、ない。

 

 

 それに――――

 

 

 

 「冬乃・・」

 

 

 沖田の呼びかけに、どきりと冬乃は目を瞬かせた。

 

 心配そうな顔が見下ろしている。

 

 一生つけていたい、と言ったきり固まっていたのだから当然だ。

 

 「ごめんなさい、ちょっと・・いろいろ思い出すことがあっただけです、なんでもないです」

 

 「・・・」

 沖田が常に違わず無理に追及してくることはなく、唯その手を簪から降ろしてきて、冬乃の片頬を柔く包んだ。

 

 それだけで、注がれるように深い愛情を感じて冬乃は、

 温かなその手のなかで自然と微笑んで。

 

 

 冬乃の表情に少しほっとしたような顔になった沖田を冬乃は、まっすぐ見つめ返していた。

 

 

 櫛も簪も、

 沖田と過ごした此の日々も、

 

 何もかもが、未来の世には遺らなくても。

 

 冬乃の記憶のなかには、鮮明に存在し続けるのだからそれでいいと。

 懸命に己に言い聞かせる。

 

 

 (私が・・)

 

 その記憶だけで、ずっと生きていけるのなら

 

 (そうやって耐えられればの・・前提だけど・・)

 

 だけどそんな未来は、日ごとに薄れゆき。




 思考ごと刹那に目を瞑り冬乃は。目の前のまだある幸せを見据えるべく、それからしっかりと瞼を擡げた。

 

 「総司さん」

 

 まだ彼の傍に居られるこの幸せを。

 

 「今夜は・・私が総司さんにできること・・させてください」

 

 全身全霊で、彼を愛せる幸せを。

 

 いつかのような台詞を囁いて冬乃は沖田を見上げる。

 

 

 嬉しいよ

 とすぐに沖田が、それは愛しげに返してくれて。

 

 「にしても、」

 と、つと笑んだ。

 

 「・・よりによって、その恰好で」

 「え?」

 

 (あ・・)

 

 そうだ冬乃は、いま“遊女” なのだった。

 

 「そ・・の、露梅さんのようにはきっと上手に・・できないです…けど…」

 どんどん語尾が掠れるようになってしまって思わず俯いた冬乃の、

 体が不意に強く抱き寄せられ。

 

 「有難う、・・・と言いたいところだが」

 ぎゅっと冬乃は一瞬さらに抱擁を受けた。

 「別の機会に、存分に頼もうかな。今夜は休んで・・」

 

 「いや、こういう時ぐらいは、というべきか」

 言い直す沖田に冬乃は目を瞬かせる。

 

 こういう時、つまり冬乃が月のものの時という事だろう。

 

 

 

 そうしてその夜は。

 

 艶やかな褥の上、冬乃は沖田の温かい腕のなか、

 延々ととりとめのない話をして時々額に降る口づけに気が散りつつ。

 

 気づけばその深い温もりに包まれたまま、

 朝を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屯所が広すぎて今まで何処に居たのか、見かけることすらなかったニワトリたちを冬乃は今、ようやく瞳に映していた。

 

 なおも、未だ豚たちにはお目にかかれていないのだが。

 

 (そういえば何か動物たちのコトで、総司さんに聞こうと思ってたような・・・)

 

 頭の隅に引っかかる朧な記憶に、冬乃は首を傾げる。

 (なんだっけ?)

 

 ぼんやりと、向こうをゆくニワトリたちの行軍を見送ったのち。そういえば放心している時間は無かったと、冬乃は慌てて目の前の火へと視線を戻した。

 

 

 近藤が今日も立て込んでいる。

 遂に、大政奉還を迎え。

 

 冬乃も、本当はすぐにでも藤堂へ話を聞きに行きたいのだが、

 近藤と新選組、そして幕閣、いや旧幕閣、はいま蜂の巣をつついたが如き事態の収拾に奔り回っていて、

 当然に近藤の付き人の冬乃まで、大量のやりとりの書簡にここ連日、文字どおり埋もれている。

 

 勿論、処理の終わった書簡は片っ端から庭で燃やして灰にしてゆく。それなのに、そのぶん新たな書簡が舞い込むものだから、近藤の部屋はいつまでたっても踏み場が無い。

 

 一日の終わりに明日の再開に向けて整理しながら書簡を隅へと寄せてゆく作業が、おっくうですらある。どうせ明朝また全て開いてしまうのにだ。

 近藤が布団を敷いて寝られる場所を確保するためには、致し方ないのだが。

 

 

 (それにしても・・)

 

 

 つと、びゅうと風が吹いて、顔の位置にまで煙が被さり、

 冬乃は慌てて手にしている書簡で扇いだ。

 

 (・・きっとこういうの全部、のちの世に遺してあったら史料としてすごく役立ったと思うのに・・ほんともったいない・・)

 

 今も裏庭で大量の書簡を燃やしながら冬乃の胸にはそんな想いがよぎったりするのだけど、勝手にどこかに隠しておいたり埋めたりして万一よからぬ結果になってもいけないと、諦めの溜息をつく。

 

 「冬乃さん、これも追加で頼みたい」

 

 「はいっ」

 縁側に出てきた近藤の掛け声に振り向き、冬乃は急いで受け取りに向かった。






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