42.
初めて結ばれてからのあの頃
離れてしまって彼にふれていられない時間は
只々長く感じて苦しくてたまらなくて
やっと一番近くまで近づけたあとの、そんな反動は
冬乃を強く苛んだ
だけどやがて、その恋わずらいの“中毒症状” と
少しずつ上手く付き合えるようになった。
(きっと・・)
冬乃のなかで、沖田薬、の効きが長くなったのだと。
それが効いているうちは、
離れている渇望感の苦しみなど打ち消すほどに、深い幸せな余韻に包まれていられて。
(・・でも昨日みたいにすぐ仕事だと)
効きすぎて、どちらにしても何も手に付かないなんてコトになってしまうのだけど。
結局、どっぷり心も躰も抜け出せていない点で、
いつまでたっても恋わずらいの重症な中毒状態であることには変わらないのだろう、
だから“効き” が切れてしまえば、渇望感のほうが勝ってきて、
離れている苦しみに苛まれだすこともまた、初めの頃と何も変わってはいない。
それでも効いているその時間――麻薬のような恍惚感が冬乃を包んでいる時間が、
初めのころよりは確実に長くなっていた、
・・・のに。
これまでは。
これから先、予感している。
そんな幸せな陶酔の時間はどんどん短くなり、
刻一刻と終焉が近づき、いつかは少しの別離も耐えられなくなる時が来て、
そうなってしまったらもう、そんな“薬” の切れた時間はまるで・・・・
「生き地獄もいいところやわ」
耳に飛び込んできたお孝の言葉に。冬乃はぎょっとして顔を上げた。
「え・・」
「うちの妹の息子、もしまた京で戦さになったら今度は自分も闘いに出る言うて聞かへんらしいの」
夕餉の前に近藤が外出するに合わせて、今日の仕事は終わりになったため、早速厨房で手伝いに入っていた冬乃の横、
不意にそう言ったお孝は大きく嘆息した。
「お侍様でもないのに何言うてんのやろか、あの阿呆」
そしてまるで自分の息子の事のように、お孝が今一度憤りの声をあげる。
「だいたい戦さなんて平穏に物事すすませること失敗した結果やないの、ようは阿呆が始めることえ」
冬乃は目を丸くした。
こんなに怒っているお孝を見たことが無い。よほど腹に据えかねているようだ。
「巧く解決できひんからて力で解決しようやなんて、ほんに野蛮やわ。あんたら産んだ母親の気持ち、ちぃっとは想ってほしいわ・・・そしたら戦さなんて始められへんはずやないの」
「・・・なんて、お侍様の処で働かせてもろうてんのにこないなこと声を大にして言えへんけど」
(お孝さん・・)
「妹が可哀想で仕方がおへんわ・・・」
生き地獄の言葉は、妹の気持ちを指して言ったのだろう。
冬乃はいたたまれなくなって小さく頷く。お孝にかけてあげられる言葉も見つからず、皿を拭く手元に視線を落とした。
子を授かれば、その子の母としての幸せとともに、またこんなふうに新たな苦しみが生まれるのだろう。
冬乃は次にはそう思うと、おもわず手の布を握り締めた。
幸せと対の苦しみの、こんな無限の連鎖もまた、此の世の宿命なのか。
その連鎖はもう幾度と冬乃のことも苛んで。
(それでも・・まだ私は)
つかの間の幸せを求め、
その後にくる苦しみには必死に目を瞑ろうとしている。
「なんや二人してまだそこにおったんか」
厨房の戸が勢いよく開いて、茂吉が飛び込んできた。
「用意できた順にはよ運び出しておくんなせっ・・」
今日は大阪に出張していた隊士達も戻ってきている。食事の必要な人数がいつも以上に増えているのだ。
茂吉のむりもない焦り方に、冬乃たちも慌てて動き出した。
外出の近藤の護衛で沖田も夕餉の席には居ないので、冬乃は寂しさを持て余しながらぽつんといつもの席に座った。
藤堂も斎藤も居ないために、冬乃の左右は閑散としていて。
まだ開け放っている遠くの庭先から冬乃の横を通り抜けてゆく風が冷たい。
(そういえば)
冬乃も居なかったこの数か月、沖田は此処に一人で座っていたのだろうか。
それとも近藤の近くや、向かいの永倉達の側へ座っていたのかもしれないが、
どうであっても藤堂と斎藤がこうして不在である寂しさは、冬乃だけの想いでは無い事は確かだろう。
此処に一人で座っていると、想いは余計につのり。
(どうしてるかな藤堂様)
大政奉還を待たず、会いに行ってみようか。
(・・・でも)
冬乃は急いで思いなおす。
大政奉還の後も伊東の考えを確認すべく必ず会いに行くつもりでいるのに、更にその前にもだなんて。そう何度も頻繁に会いに行っていいはずがない。
この情勢下、誰が何処で見ているか分からないのだ。いくら頭巾をして顔なら隠していようと、何度も出没する女がいれば目立つに違いない。
(・・・・変装すればいいんだ)
だけどめげずに冬乃は。そして思いついた。
「行商人のふり・・?」
「はい」
翌日の昼下がり。
あれこれ躊躇していたが遂に意を決した冬乃は、畏まって沖田の前に正座していた。
今の新選組と伊東たちの秘すべき関係上、まず沖田の許可は得ておくべきだと思ったのだ。
変装だろうと、会いに行く事を。
「男装も考えたのですが・・こういうときは女のほうが周囲に警戒させないと思いました。かといって何度も訪ねたらやっぱり怪しまれてしまいそうで」
「それで行商人か・・」
「はい」
行商人であれば、何度も出入りしていようと不自然ではなく。
それも男の行商人が出入りするより女であるほうが、はるかに変装と疑われる確率自体少ないだろう。
「今はきっと監察の方たちが中心になっていろんな変装で連絡を繋いでいらっしゃるのでしょうけど、今回うまくできそうでしたら、もしかしたらこのさき私もお役に立てたらって・・」
「それは頼めない」
即答で返された冬乃は口を噤んだ。
「気持ちは有難いが、俺が傍に居ない時に冬乃を危険な仕事に関わらせたくは無い。藤堂に会う事は止めないが、そんな仕事まで買って出る事はしないでほしい」
尤も。
と沖田は続けた。
「藤堂にそれを冬乃が申し出たところで、十中八九同じように返されるだろうけど」
それから、と更に沖田は続けた。
「念には念を入れ、冬乃から向こうの屯所を訪ねるのではなく、何処かで落ち合うほうがいい」
「・・え?」
(でもそうすると、)
「行商人ではなく、別の変装が要る・・ね」
簪が重た・・・
冬乃は目の前の鏡に映る自身の姿を茫然と眺めつつ、肩が凝りそうな髪飾りたちの重さに困惑していた。
どうせなら太夫の恰好をと、沖田が注文したせいである。
いま冬乃の居る此処は、かつて露梅が在籍していた置屋。
女将の協力を受け、冬乃はいま、藤堂と落ち合うべく遊女になっている。
(・・・って)
なんで!?
心の奥で先程から叫んでいるが。
だいたい、
「あの総司さん・・やっぱりこれは・・」
この恰好で藤堂と会うのは、色々おかしくないか。
「これなら堂々と藤堂を呼び出せるだろ」
邪気たっぷりに微笑む沖田を見上げて、冬乃は目を瞬かせる。
(ぜったい楽しんでる・・・。)
今頃、艶文を携えた、変装ではない正真正銘この置屋の使いの者が、藤堂を訪ねた頃だろう。
突然に冬乃太夫を名乗る者からの艶文を受けた藤堂は、一体この後どんな顔をしてやってくるのだろうか。
(こっちはもぉ申し訳なさしか無いんだけど)
「それに藤堂様が、この後お時間あるかどうかだって・・」
「あるよ。今日の藤堂の大まかな予定は監察に確認してきた」
「・・・」
あれから何やら思いついた様子の沖田が、四半刻後に一緒に出かけるから支度をと言い置くなり、近藤へ暫しの暇をもらいに行ってしまった。
そうして戻ってきた沖田に駕籠で連れて来られた先が、此処、まさかの島原。
「心配しないでも、座敷へ出るわけじゃない。藤堂がこの部屋に来るだけ」
「いえ、ですから、その・・私は着替える必要があったのでしょうか・・」
沖田が更に微笑って、冬乃の片頬へ手を添えてくる。
紅ののる冬乃の唇へ、掠めるような口づけだけが落とされ。
「・・俺が見たかったからに決まってるでしょ」
(え)
そんな事も分からないのかと、むしろ言いたげな眼が愛しそうに冬乃を見下ろした。
「すごく綺麗だよ、冬乃」
そんなふうに言われては。
もう冬乃が絆されないわけが、なく。
「俺も藤堂に会うのは久しぶりだから楽しみだ」
(総司さん・・)
今の台詞に更にきゅんとした冬乃を、だが。
「で、暫く俺は隠れてるから宜しく」
例のドS笑顔が、にんまりと見返した。
(・・・・んん?)




