39.
目が覚めたら、冬乃が横に寝ていた。
いや、冬乃の気配に目が覚めた
が正しいのだろうか。
「・・冬乃」
おもわず呼びかけて沖田は、伸ばした手の内に彼女の柔らかな頬をそのままそっと包みこんだ。
己の褐色の手と対照的な、朝の光に透きとおる彼女の白肌をつたい、柔らかな唇に触れる。
指先に感じる、かすかに温かな吐息。
(冬乃)
今一度。待ちわびた愛しい存在の名を、胸内に囁く。
(おかえり)
その躰を、腕の中へ抱き寄せた。
冬乃を包む、硬い腕の感触、ぬくもり、芳りが。
最も帰りたかった場所へ、真っ先に戻ってこられたことを知らせて。
冬乃は霧から解放されても目を瞑ったまま、身動きしてしまうのさえ勿体なくなってつい息をひそめた。
このまま、この腕の中にずっといたい。
(・・本当に止まってしまえばいいのに)
この世界がこれ以上はもう、先に進むことなく。
そうして永遠にこのひとときに、幾度でも戻ってこられたなら。
もう何度となく繰り返したその叶うはずのない願いを、再び胸内に呟く。
無意識に沖田の胸元へ擦り寄っていたのだろう。
つと頭上で、くすりと微笑う気配がした。
「冬乃、」
こっち向いて
優しい低い声が次には降りてきて冬乃の鼓膜を擽って。
冬乃は、観念して素直に顔を擡げた。
(・・総司さん)
すぐ真上で冬乃を見下ろす澄んだ瞳を、見つめ返しながら、
「おかえり冬乃」
その瞳が嬉しそうに微笑んでくれるのを前に。冬乃は、止まってくれるはずのない時の中、今回の再三すぎる不在をおもえば、酷く申し訳なさが襲ってきて、
「ごめんなさい・・」
押し出した声がおもわず震え。
「次はいつ貴女に逢えるのか、楽しみになってた」
そんな沖田の返しに。
ゆえに冬乃はそのまま瞠目した。
前回もう未来へは帰らないとはっきりと告げたのに、また帰ってしまったことを、
わかってはいたがやはり沖田は責めては来ず、どころか、まるで再び帰ってしまうことがあったとしてさえもそれすら許されてしまいそうな響きで。
(・・そんなふうに)
いつも貴方は優しいから
(私は・・救われてばかり)
「・・・今度こそは」
冬乃は、祈りを籠めて首を振っていた。
「今度こそはもう、戻りません」
一体、既にどのくらいの時が経過してしまったのだろう。
「今日は、いつで・・」
(・・?)
冬乃は大きく顔を上げたことで視界の端に映った景色へふと感じた違和感に、言葉の途中で周囲へと視線を流した。
(此処・・・どこ・・・?)
「屯所を引っ越した」
冬乃の視線が彷徨っているのへ沖田が微笑って答えてきた。
(あ・・っ)
冬乃が未来へ帰ってしまったのは五月。それから暫くして新選組は、西本願寺から屯所をまた新たに移転するのだった。
「そして今日は、」
沖田の恒例の返事が続く。
冬乃は息を凝らした。
(・・大丈夫)
まだ、間に合っているに決まっている。
藤堂の死に、間に合っていないなら、
いま目の前で彼がこんなに穏やかでいるはずがないから。
「十月の十日」
それでも、冬乃はその返事を耳に、震えた息を零した。
藤堂の死の刻限まで、もうあと二月もないところまで来ているではないか。
「今、近藤様と伊東様の件は・・」
恐る恐る尋ねる冬乃へ、しかし沖田は尚穏やかに「それならば、」囁いた。
「心配ないよ」
(え・・)
「つい先日も、伊東さんから内々の協力があったばかりだ」
(・・・あ・・)
そうだった。薩摩の過激分子による暴動の計画が、このころ土佐の陸援隊に潜入していた新選組隊士によって伝えられ、
近藤達は、その情報の正誤確認を伊東に依頼したのだ。
これまでの努力で伊東達は、薩摩や土佐の過激派寄りの志士との交流も着々と深めていた。
そうして伊東は、今回の情報が確かな事を確認し、近藤達にその旨を連絡、
それを受けて近藤達が会津へ報告したのが十月九日、つまり、まさに昨日だったはず。
「だから少なくとも今はまだ、危惧したような事態にはなってはいない」
冬乃は一抹の安堵で、小さく頷いた。
(それなら・・)
歴史通りに、
この時までは、まだ近藤達から伊東への信頼があったのだ。
そしてきっと今も近藤と伊東の二人の志は、同じ方向を向いているはず。
(なのに残りの一月ちょっとの間に、急変してしまうなんて)
永倉の遺した記録では、
この一月ほど後に、伊東達の元へ行っていた斎藤が、伊東の近藤暗殺計画を知って戻ってくることになったとある。
(だけど・・・)
やはりあまりにも、信じ難く。
伊東こそ、そのようなやり方を一番嫌うような人ではないか。
(永倉様ごめんなさい・・永倉様を疑っているわけじゃないんです、でも)
本当に暗殺計画があったのか、
(何かの間違えだった、ってことはないの・・・?)
本当はいったい何があったのか。
真実は未来の世において様々な推察とともに、謎に包まれたまま。
冬乃が帰っている間にも、新選組史に遺るほどの或る哀しい事件が、この分離をめぐって起こっていたはずで。
近藤と伊東の間の秘密裏の関係は、そんな数多の痛みを乗り越えてここまで続いてきたのだろう。
このころも伊東は変わらず長州に寛容的であり、
そして現状の対外的な見せ方も付加されて、今や非常に難しい立ち位置であるにもかかわらず。
(それでも・・・結局は、そのせいなの・・?)
もし冬乃の推測が正しければ、伊東は近藤を裏切ってなどいない、それなのにこの後の近藤がそんな伊東を信じられなくなるような、重大な何かが起こったのだ。
その時から生じた誤解は、最後まで解けることはなく。
今日が十日ということは。
あと四日で、大政奉還を迎える。
これにより薩摩の激派らによる『武力討幕』に向けた朝廷工作が功を成さずに済み、一時的には戦争を回避することになって。
まだ第二次長州征伐からの消耗が癒えぬなかで、再びその時の二の舞が起こることを少なくともこの時点では避けることが叶ったのだ。
(大政奉還の後・・藤堂様に会いにいこう・・。)
本当は伊東が今どう考えていて、何を志すのか。今一度、・・否、今こそ知りたい。
その答えによって、漸く、藤堂にもう少し何かを伝えられるかもしれない。
「冬乃」
(・・あ)
黙り込んでしまっていたことに気が付いた冬乃は、はっと沖田を見返した。
「もしかしたら冬乃は、江戸に来てたかもしれなかった」
(え?)
その謎の台詞に。一瞬にして冬乃の思考は奪われ、
冬乃は驚いたまま沖田を見つめた。
「本当なら、俺は土方さんと一緒に江戸へ隊士募集に行く予定だったんだが、今回も結局、近藤先生の護衛のほうを優先させてもらった」
もし俺が江戸へ行っていたら
沖田がにっこりと微笑む。
「いつ冬乃が戻ってきても真っ先に逢えるように、文机を『肌身離さず』江戸まで持って行ってたと思う」
(あ)
そうなれば冬乃が江戸の地に“タイムスリップ” していたかもしれないのだと。
二人の枕元の文机へとおもわず視線を奔らせながら冬乃は、沖田の先の台詞の意味が分かって、
そして次には、目を見開いた。
思い出して。
(総司、さん)
史実でなら。
このころ沖田が江戸へ行かなかった理由は、結核の発病のせいだった事を。
(良か・・った・・・)
胸奥をこみあげる想いに圧されながら、冬乃は改めて今、目の前の彼が見るからに壮健なさまを、
千代の魂からの願いが、
確かに叶ったのだということを。実感したと同時に、
冬乃の双瞳には涙が溢れてきて。
「・・何故泣くの」
さすがに驚いた様子の沖田が、戸惑った眼で冬乃を覗き込んだ。
「そ、の・・江戸に行ってても、真っ先に逢えるようになんて思っててくれたからです」
咄嗟の、と言っても本当にそれはそれで感動した事を冬乃は慌てて理由に挙げる。
「・・・」
沖田が少し困ったように微笑んで、その大きな手を冬乃の頭に置いた。あやすように撫でて。
そしてつと何か思ったのか、ふっと微笑った。
「まあ、江戸との行き来の“道中” お天道様の真下、だった可能性もあるが」
(・・・あ。)
「その場合、また冬乃に裸で来られたら、土方さんがどうなってたことか」
(う)
確実に怒髪、天を衝いてたとおもいます・・・。
冬乃は未だ頭を撫でられながら胸中おもわず返答する。
「そう思ってみれば、見ものだったか。絶好の機会を逃したかな」
(え)
あいかわらずのドS発言に冬乃が慄いた時。
沖田がその悪戯な眼差しで、急に冬乃の腰を引き寄せた。
(きゃあ!?)
沖田の布団の中、冬乃はそのまま抱き包められたままに。
「裸でこそ無いが」
彼の揶揄う声をすぐ真上に聞く。
「今回は、未来の湯文字も着けてないんだね」
(・・・・あ・・っ)
おむつを外して、なんだかんだでそれから下着を穿いた記憶がそういえば。無い。
(すっかり忘れてた・・・!)
「っ…!」
惑うことなく、温かな手が裾内へ潜り込んできた。焦る冬乃の、裏の腿をその大きな手はゆっくり擽るようになぞり上げてゆく。
まだそこに触る前から、冬乃が下着を穿いてないことを分かっているなんて、
つまり冬乃の目が覚める前にすでに、
(確認済!?)
「もう・・っ」
おむつを脱いでおいたのは大正解だったらしい。
とはいえ。何も着けないで来るなんて、それじゃまるで・・
「・・ン?」
冬乃の頬が紅潮したことは見えていないはずなのに、お見通しのように沖田の微笑った振動が伝わって。
「もう何」
揶揄うようなその声は、あまりにも真近で。
そして。
冬乃が先程までの幸せなひとときの映像に邪魔されながらも、
新しい女使用人部屋で、前屯所から沖田が運び込んでおいてくれた行李を開けてなんとか着替え終えた頃。
お孝が部屋に入ってきた。
(あっ)
「冬乃はん!?」
大きな笑顔に迎えられた冬乃は、
「ご無沙汰してすみません!」
慌ててお辞儀で返しながらも、
屯所をまたも引っ越したというのに、こうしてお孝が新選組についてきてくれている事に、なんだか組に代わって御礼まで言いたくなり。
茂吉や藤兵衛たちも此処、引っ越し先へ来てくれている事は、先程この新女使用人部屋へ沖田に連れてこられるときに話で聞いている。
その時の感激がお孝を前にじわりと胸内で蘇り、冬乃は更に深々と頭を下げていた。
「ややわぁ」
お孝には長期不在を謝ったきり頭を上げない冬乃が大げさに見えたのか、
「今回に限ってどないしたん、顔あげて」
だいたい冬乃が実家帰りで居なくなることなど毎度の事。とばかりに、
温かな笑顔が、お孝に促されて顔を擡げた冬乃を迎えて。
(お孝さん)
ここまで一緒に来てくれたというのに。・・それなのに、
もうすぐお孝達とも別れる時が迫っているが為に。
その未来に胸奥を掴まれている冬乃は、いつも通りににこやかに微笑んでくれるお孝を目にして、
咄嗟にもう一度頭を下げていた。
「あの、あとごめんなさい」
泣きそうになった顔を隠すために。
「いつもお土産も持ってこなくて」
もとい毎回、気にはなっていた事。
「何言わはるん」
お孝の更にあっけらかんとした声が落ちてきた。
「冬乃はんが帰るたんびに持ってきてくれはってたら、どこにも行かへんうちが貰いっぱなしになってまうやないの」
(あ・・)
温かい返しに、冬乃はほっとしつつも、
おもえばそれだけ頻繁に帰っていたわけで。
引き続き項垂れた冬乃に、だが、
「またよろしゅうなあ。嬉しいわぁ」
そんな優しい追い打ちが来る。
冬乃はよけいに熱くなった目頭に諦めて、遂に顔を上げた。
「こちらこそよろしくお願いします・・!」
涙ぐんでいる冬乃に気づいて瞠目するお孝へ、
「久しぶりに会えたら感動してしまいました・・」
冬乃はそんな言い訳で、できうるかぎりの笑顔を返した。
これより二月後に。
新選組は此処を引き払い、二条城へ向かうことになる。
そして戦さへと進んで、
それからは新選組はもう二度と、京の地へ戻ることはない。
だから。
(あと二カ月・・お孝さん達と過ごせるこの最後の時間に、せめてできるかぎりのことをしよう)
真っ先に思いつくのは、使用人の仕事を近藤の仕事の後に手伝う事。
新しいこの屯所は、西本願寺の屯所以上に広大なはず。
まだ殆ど案内されていないので想像でしかないが、もし広すぎるとなれば、猫の手だって借りたいだろうと。
(そういえば)
沖田に聞きそびれていたが、西本願寺に居た頃あとから募集されて入ってきてくれた他の使用人たちも来てくれているのだろうか。
「この新しい屯所もまた広そうですけど・・」
冬乃は早速聞いた。
「人手は足りてますでしょうか?夕餉の後の時間とかになってしまうかもしれませんが、よかったら私にも手伝わせてください」
「ま」
お孝が目を瞬かせた。
「冬乃はんが助けてくれはるんやったら百人力やけど、・・ええんのん?冬乃はんもこれからもっと忙しいんとちゃうん。今いろいろ・・あるんやない・・?」
近藤の付き人になっている冬乃に、
いま京の誰の目からみても分かるこのかつてないほど不穏な世情下で、公儀方新選組の仕事ならば山積みなのではないかと、
お孝がそういう意味で聞いてくれたらしいことに冬乃は気が付いて。
(そう、だよね・・・そうなんだけど・・)
この時期は、
先の四侯会議が失敗に終わったことで、長州や土佐内の過激派と共に、薩摩もが内々に討幕へと舵転換してゆく中、
幾つもの暴動計画が企てられ、その阻止に新選組は変わらぬ多忙を極めている時期であり。
そのうえ近藤は、在京の一『旗本』としても日夜政策をめぐり各所の会議へ足繁く通っているさなか。
だからこそ沖田も、近藤の護衛のために京に残ったのだ。
「・・・それでも少しの時間でもお手伝いさせていただきたいんです・・」
つい呟くような返事になってしまった冬乃へ、
「おおきになあ」
お孝がほっこりと微笑んでくれた。
「ほな助けてもろうてまうこともある思うけど、無理はせえへんようにしてな」
「はい」
冬乃はほっとして微笑み返した。
「そや」
と、お孝が何か思い出したように突如、うふと微笑った。
「あのニワトリさんたちも、引っ越してきてはるえ」




