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38.



 (これ・・)

 点滴を外さないと、着替えはムリなのでは。

 

 冬乃はバッグを引き寄せた手を宙に留め、どう動かしてもついてくるチューブとスタンドを困って横に見上げた。

 

 (ていうか、このままじゃ点滴ごと幕末行くんじゃ・・)

 

 でもたしか以前、膝上に落ちた下着は行かなかった。あくまで手に持っていた物だった。

 今回、腕の静脈に繋がれている物となるけども、この場合どうなるのだろうか。

 (・・とか、考えてても分かるわけないし)

 

 次には冬乃はあっさり諦め、とにかくおむつだけは替えなくてはと、

 慌ててバッグから下着を取り出してしまってから、そうだ先におむつを脱がなくてはと思い直す。

 

 点滴に繋がれる腕はやはり大きく動かすことはできそうになく、座ったまま冬乃は病院服の膝上まである裾に邪魔されながらもなんとか片腕だけでおむつを脱ぎきり、おむつをゴミ箱へシュートして、

 

 再びバッグから下着を取り出そうとした時。

 だが統真達が話し終えたのか、カタンと部屋の扉が音を発して。

 (きゃああぁ)

 咄嗟に布団の中へ隠れようとした冬乃は、

 

 「わ」

 次には冬乃に絡まったチューブに引っ張られてベッドへ突進してくるスタンドを、止めるべく慌てて立ち上がった途端に、スリッパに足をとられ、

 

 掴んだスタンドごと、コケた。

 

 

 

 

 

 目が覚めたら、医師と母の呆れ顔が揃って見下ろしていた。


 

 「危険ですから点滴をつけたまま激しく動かないでください。第一、昏睡が続いた後で急に動き回ったりしてはいけません」

 目覚めてまもなく医師に叱られる。

 「スミマセン・・」

 医師曰く急激な血圧低下による失神で数分ほど意識を失っていたらしい。

 

 「この後、流動食を試しますから、点滴はもう外しておきます」

 (と、統真さんは・・!?)

 医師がスタンドへ寄って視界が開けるやいなや慌てて辺りを見回し始める冬乃へ、母が分かったように「統真君なら帰ったわ」と告げてくる。

 

 そんな。

 冬乃は愕然と母を見上げた。

 

 「急用でもう電車の時間を待てなかったみたいよ」

 明朝の面会開始時間の時にまた来ると言っていた、と母は継いだ。

 「話は聞いたわ。・・でも何か統真君とは話の途中だったの?もう帰ることを彼、随分と申し訳なそうにしてたけど」

 

 「・・・」

 統真が母を少しでも安心させるべく話してくれた内容は、きっと、

 精神医学面からみて冬乃の見続けている夢が一連の昏睡と関わりがある可能性と、その夢の中の人に冬乃が別れを告げることによってその後は昏睡しなくなる可能性がある、といった内容だろう。

 

 冬乃は母へそれ以上何を言えるわけでもなく、ただ小さく首を振った。

 

 一分一秒をも急がなくてはならない状況が統真に伝わりきっていなかったのは、自分の説明不足なのだから仕方がないが、

 (最初にもっとお願いしておけばよかった・・)

 

 動き回るなと叱られたばかりだけど、最早これは後で母たちの目を盗んででも統真を探しに病院を抜け出すしかないのではないか。

 医師に腕の点滴を外されながら、冬乃はちらりと、向こうのテーブルにある携帯を見やった。

 

 その視界の手前にふと、漸く冬乃からの離脱を果たした憐れなスタンドが映る。

 

 そういえばもし点滴ごと幕末へ飛んでいたならどうせ自分で外すはめになったのだから、先に点滴を外してから動くのが正解だったのかもしれない。

 といっても、

 自分で点滴を外すなどしたことがない冬乃にとって、あの慌てている状況下で正常な判断ができたはずもなかっただろうけど。

 

 (結局幕末には飛べなかったしね・・)

 

 やはり部屋のすぐ外の距離では、離れたことにならなかったようだ。

 

 「くれぐれも安静にしていてくださいね」

 

 念を押す医師に平謝りしながら冬乃は、母が席を外すタイミングはいつだろうかと目の端に追う。

 

 そういえばまだ履けていない下着をどうしようかと一瞬、冬乃の脳裏をよぎったものの、

 そもそも勝手に替えていいものなのかも分からない。先程のうちに幕末へ飛べなかった以上、後で看護師がおむつを回収に来た時におむつはすでに自分で取ってしまったと白状し、もう自身の下着を履いてもいいか許可をもらうしかないだろう。

 

 とにかくまずは、母がまた病室を出たらすぐにでも統真に電話をかけて居場所を聞くつもりで、

 冬乃は機を逃さぬべく今か今かと布団の中、手に汗を握り締めた。

 

 

 のに。

 

 

 

 (そんな・・・・)

 

 例の“タイムスリップ疲れ” を感じながら布団でじっと横になり続けていた冬乃は、いつのまにか眠り込んでしまっていたらしく。

 

 どうやら起こされもせず、早朝を迎えたようだった。

 淡い朝日が射しこむ病室で、簡易ベッドに眠る母を見ながら、冬乃は大きく嘆息した。

 

 (どうしよう)

 今更こんな早朝に電話したところで、迷惑以前に繋がらないだろう。

 (バカ私・・)

 

 呆れて泣きそうになりながら、冬乃はよろよろと半身を起こす。

 (面会時間って、何時からだろ)

 昨日のうちに会いに行ってしまうつもりでいたから、それすら確認していない。

 

 これからその面会時間までの数時間、拷問の如きひとときになりそうだ。

 

 冬乃はそっと起き上がった。病室内の化粧室へ、母を起こさぬよう静かに向かいながらも、胸内を一層焼く焦燥に、進む足取りはもつれ。

 

 (藤堂様・・)

 もう一体、幕末ではどのくらい過ぎてしまったのか。

 

 潰されそうな思いでいっぱいになりながら、冬乃は殆ど自動的な動きで手洗いまで済ませ、

 ベッドに戻っても、先程から全くといっていいほど朝日の光量が変わっていないさまに、そのあまりに遅い時間の経過に、再び嘆息し。

 どうしようもなく、目を瞑った。

 

 

 どれくらい拷問の時間が過ぎただろうか。

 やがて漸く起き出した母の気配に、冬乃は目を開けて。

 母が傍までやってきて、冬乃が起きているのを見るとコールボタンを押した。

 

 「よく寝ていたわねえ」

 冬乃を見下ろしながら母はどこか安心したような声を出し。

 「起きたら食事をさせるつもりでいたのに、夕方になってもまだ起きないから、無理に起こして食べさせるよりはって、暫くの間また点滴していたのよ。あんたそれも気づいてないでしょ」

 

 冬乃が驚いて「全然気づかなかった」と呟くと、母は小さく息を吐いた。

 一時、あまりに反応が無いさまに、まさかまた昏睡しているのかと医師が慌てて確認する事態だったらしい。

 

 「今度こそ食べられるわね?」

 

 冬乃は頷いた。

 正直食欲なんて無いけども、点滴にまた繋がれるわけにもいかない。

 

 看護師がやってきて冬乃の検温をして出て行った。

 間もなく流動食が運ばれてきて、冬乃が味気ないそれを飲み込んでいると、なんと統真からの電話が鳴った。

 (統真さん・・!)

 すぐ分かるように、すでに遥か前に着信音を彼用に変えてある。

 

 「ケータイ取って!」

 冬乃が目を輝かせてテーブルの上の携帯を指すと、

 母は手渡してくれながらも、冬乃がベッドから出ようとしているのを見て一瞬その手を止めた。

 「どこ行くつもりよ。ここで話すか、指定場所まで移動してから掛け直しなさい」

 

 (あ・・)

 個室では許可されているので忘れていたが、廊下を含めた殆どの場所では携帯電話の使用が禁止されていたことを冬乃は思い出した。

 (たしかケータイの電波がすぐ近くの医療機器に影響するから・・って聞いたっけ)

 

 「統真さん、」

 携帯を受け取り冬乃はこの場で出ることにした。

 「おはようございます・・」

 母が居る前で何か余計な事を話してしまわぬよう緊張が奔りながらも、

 「おはよう。昨日はごめんね」

 統真の開口一番のそんな言葉に、「いえ」と冬乃はつい首を振る。

 

 「俺が戻っても貴女は昏睡しなかったけど、・・今回はしそうなのかな?」

 「は、はい。あの、十分な距離をとらないとだめだったみたいです・・」

 

 電話口の向こうで、きっと統真は首をかしげたに違いない。

 「・・まあとりあえず、もうすぐ着くから。面会開始時間よりかなり前だけど大丈夫?」

 (わっ)

 「もちろんです!!」

 喜びのあまり声が大きく出てしまった冬乃は、慌てて口を噤んだ。

 「じゃあ、またその時」

 「ありがとうございますっ、お待ちしてます・・!」

 と言っても、きっと統真が部屋に入ってくるよりも前に、冬乃は昏睡に落ちてしまうだろうけど。

 

 (よかった・・・あと少しで・・)

 

 安心したら急に食欲が出てきた冬乃は、母へ携帯を返すと残りの食事を一気に掻き込んだ。

 「統真君が来てくれるのね?」

 母がそんな冬乃の横に腰を下ろす。

 「本当によく面倒みてくれる子ね。あんたの事が好きなのかしら」

 

 (え)

 

 ぎょっとした冬乃は、

 次には、母とそんな会話をしていることに内心驚きながらも、

 「違う・・と思う」

 ぽつり、否定していた。

 

 「もっと、お医者さんの卵としての使命感みたいなものというか・・・博愛的なもの・・だと思う」

 

 慈悲

 まさにそんな言葉が浮かぶ。

 

 「ふうん、そうなの?」

 母は納得したのかしてないのか、どちらとも取れる声を出した。

 

 看護師が見計らったようにやってきて、冬乃の前の食器を片付けてゆく。

 冬乃は統真を待って高鳴る鼓動を胸に、そうだ何かどうせなら向こうへ持っていけるものはないだろうかと、つとバッグのほうを見やった時。

 

 懐かしい霧に、その視界は一瞬で遮られた。

 

 

 

   



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