36.
以前よりも遥かに実感を増したからなのか。
目の前の彼が、冬乃の愛してやまない人の生まれかわりなのだと。
瞳にその姿を映した刹那、
むしろ感傷にも似た、深く込み上げてくる情感に冬乃は、息を奪われていた。
「・・冬乃さん」
心配そうに見下ろす彼の、よく見ればあの人と同じ澄みわたる双眸は、やがて冬乃のひとつふたつ続けられたゆったりとしたまばたきと、
「統・・真さん」
息を吹き返したかの呟きに、
安堵の色を広げるように見開かれてゆき。
「貴女を呼んだら・・目覚めるような気がした」
ぽつり囁かれた言葉に、
それでも、冬乃のほうが瞠目した。
「また二日も昏睡状態だと聞いて、学会の手伝いが終わってすぐ戻ってきた。そういえば一週間ほど来ないでいいと言われていたのを思い出したけど」
思い出した時はもう此処まで来ていたと、統真は困ったように微笑い。
「・・・何度か、貴女は俺が来るとすぐ目覚めたから。今回も或いはと、そう思ったら取るものも取りあえず京都に向かってた」
枕元から冬乃は、おもわずじっと統真を見上げた。
彼はどこまで、この現象もとい、その魂の作用に気づいているのだろう、
そして、
冬乃のことに。
(総司さん・・・)
彼が、貴方の、生まれかわりで。
そして、
あの僧の言ったような存在なら。
「昏睡から覚める事例に、よく聴覚への刺激が言われる。どの音に反応するかは人によって様々だけども、たまたま俺の声の特定の周波数帯が、貴女の覚醒を援けているのかもしれない」
「・・・」
まだ。統真の"覚醒" のほうは、訪れてはいないようで。
冬乃は幾分がっかりした心地で、統真のいかにも医者の卵らしいその分析に、緩慢に頷いてみせた。
(・・あれ)
つと統真が点滴スタンドのほうへ寄ったことで不意に鮮やかな色が目の端に映りこんで、冬乃は次には首だけ動かしてそのほうを見遣った。
(・・あのバッグ・・)
たしか、違うバッグで京都には来ていたはず。なのに家に残してあったはずのショッキングピンクのボストンバッグが、統真の背後の椅子の上に乗っている。
「貴女のお母さんがいらしてるよ」
未だぼんやりしたままの冬乃の視線を追って、統真がバッグの存在理由を教えてくれた。
(お母さんが・・・?)
「俺とすれ違いで電話しに出て行かれたけど、そろそろ戻られるんじゃないかな」
(電話・・)
母の名に続いてその既に懐かしい響きを耳に、冬乃は小さく息を吐いた。
――平成の世に、本当に帰ってきてしまったのだと。
現実感が、俄かに増して。
(・・・もう時間が無い・・)
伴って急襲した不安感は、たちまち冬乃の心を覆い出した。
早く戻らないと間に合わなくなる
幕末の世で、藤堂の命の刻限はあと半年まで迫っていた。きっと此処では、あと一日あるか無いかなのではないか。
そして、
(二日・・・総司さんの最期までは、きっと此処ではそのくらいしかない・・)
胸を焼くような焦燥が冬乃を襲った。
いったいどうしたら、母にこれ以上の心配をかけずにすぐまた昏睡状態に戻れるというのだろう。
(それに最後まで幕末にいられるためには・・本当にもう、どうすれば)
「冬乃・・!」
すっと横開きの扉が流れ、携帯を手にした母が入ってくるなり、冬乃が目を開けているのを見とめて声をあげた。
次には脱力したように深く安堵の表情を浮かべた母が、足早にベッド脇まで向かってきて。
自ら作り出す罪悪感ならば捨て得たはずなのに、ちりりと再び冬乃の胸奥を奔り抜けた。
こんなに冬乃の目覚めを喜んでくれる母を置いて、冬乃は今すぐにでもまた向こうへ戻りたいと、そればかり願ってしまっている事に。
「・・ごめんなさい」
冬乃から零れ出た言葉へ、母が「いいの」と囁く。
この先また心配をかけることを含めての咄嗟の詫びだったけども、母には勿論伝わっていないだろう。
冬乃は母の目を見ていられずに逸らした。まるで長い昏睡の後で疲れているかのふりで、目を瞑ってしまおうとして、
けど統真にはまだ此処に居てもらわなくてはならない以上は休むふりをするわけにもいかないのではと、またすぐに目を開ける。
「眠気があるなら無理しないで寝たほうがいいよ」
冬乃の様子に統真がそんなふうに声をかけてきて、冬乃は急いで首を振り。
「あの・・」
そのままつい縋るように彼を見上げていた。
「京都にはいつまで・・」
彼は少し困惑したように微笑んだ。
「まだ決めてはないけど」
どうしてそれを聞くのか知りたげな眼が、冬乃を見返し。
「貴女の容態が落ち着くまでは居るつもり」
冬乃は返事どころか、全く考えがまとまらないままに、
統真がコールボタンを押していたのかまもなく入ってきた看護師と医者へと、視線を流した。
冬乃の問診が始まっても、冬乃の意識は考えるほど迫りくる恐怖に圧し潰されそうになり、
返答も途絶えがちな冬乃の状態を昏睡後の疲労だと思ったらしい医者は、早々に切り上げると、話があると言って母を連れて出て行った。
看護師が無言でてきぱきと動いている横で、統真が再び心配そうに冬乃を見遣って。
やがて看護師が出て行くと、彼は冬乃の枕元まで戻ってきた。
「またあの夢を見たりした?」
(・・・え?)
冬乃は、すぐには彼の質問の意味が分からずに。
(・・・あ)
千代の薬をもらうために話した夢の事だと。暫しのち思い出して、
「はい・・っ」
横になったまま咄嗟に頷いていた。
「そう・・」
統真は少し考える様子になった後、
「一応、貴女に渡した薬はあれから保管庫へ全て戻したけど、・・また必要?」
ベッド脇の簡易椅子に腰を下ろしながら、気遣うように冬乃を見下ろしてきた。
「薬は・・おかげでもう大丈夫なのですが・・」
冬乃は統真を見上げながら、
もう、この流れで彼に頼むしかないのだろう事を、頭の内で懸命に並べてみる。
「代わりにお願いがあります。・・何度もごめんなさい、でも」
冬乃は統真の目を見据えた。
「夢の中で、ある人にさよならを―――してくるために・・そうして、もうこんなふうに昏睡しなくなるために・・必要なことで」
比喩にしたのに、言いながら涙が溢れそうになった冬乃は、最後まで言い切らぬうちに慌てて目を伏せた。
「あの」
ごまかすために冬乃は身じろぎし。
「起き上がっても、いいですか」
ベッドの背凭れに角度をつけるコントローラーの在り処を探してみると、統真がすぐに渡してきた。
礼を言って受け取り、背凭れを起こしながら、冬乃はなお顔を俯かせた、
「・・統真さんが仰るように、」
言葉を探しながら。
「統真さんが近くに来ると、昏睡から覚めるんです・・声だけじゃなくて、何かもっと・・」
(・・・だめ・・やっぱりどう伝えたらいいのか分からない・・)
どんな時に統真の魂の力が働くのか、冬乃も完全に説明できるわけではない。
物理的な距離の接近と、統真の意識が冬乃へ向いた時、
その両方が掛け合わされた瞬間だと、これまでの経験から漠然と想像してはいるものの、正確なところは分かりようもない。
そしてこれから先もずっと。冬乃と統真が人である以上、完全に知るすべは無いだろう。
そんななのに、統真の『声の周波数説』に合わせた別の尤もらしい仮説をいま適当に挙げてみることなんて、冬乃にはとてもできそうになく。
「・・・とにかく近くに統真さんが来ただけでも、これまで目が覚めてたんです・・」




