35.
柔らかな風に押されながら、馬上の冬乃たちはゆっくりと坂を下る。
ふと見れば馬のたてがみに、一枚の桜の花びらが絡まっていた。冬乃はこの帰り道も沖田の膝上に横抱きされた姿勢で座るままに、ついと手を伸ばして花びらを摘まみ上げた。
冬乃の行動にか、沖田がふっと微笑ったのを感じて、冬乃は沖田を見上げる。
「浮世離れした桜だったな・・あの僧も、相変わらず」
冬乃は頷いた。
振り返れば本当に、別世にでも迷い込んでいたようなひとときだったのだから。
あれから僧は、古い書物に語られるという極楽浄土の世界について、そして一切が謎につつまれた涅槃の先について、あれこれと話して聞かせてくれた。
冬乃はだんだんと、おとぎ話でも聞いているような心地になって。
それに、
涅槃の境地に達しながら、この世界に留まった究竟の存在は、きっとそうと分からぬだけで多くいるはずなのだと、
自分もいつかはお逢いしたいと、もしかしたらもうお逢いしているのかもしれないと、そんなふうに僧が熱く語っているのを前に、
その存在になる二世前の存在にならば、ちょうどいま会っているかもしれないですと、冬乃は言ってみたくなる小さな衝動にも幾度も駆られ。
「そのような究竟の存在になるには、どれほどの功徳を積まれたのでしょうね」
そんなさなか、沖田がそうしてどこか感嘆した声で僧に相槌を挟んだので、そのとき冬乃は瞠目して沖田を見上げた。
「功徳・・仰るとおりで、」
そのとき僧は呟くように頷き。
「"慈悲" の行い・・善意から救いの手をさしのべる行い・・・まさに仏への道でございましょう」
しかし問題がございます
と間を置かず僧は困ったように微笑んだ。
「先に述べましたように義そして善悪が何たるかは、人様によって受け取り様が違います・・そうなれば善意とは、つまるところ何でしょうか」
冬乃は、僧の投げかけに、息を凝らして答えを待った。
「あくまで与えられる側にとっての"善行" をしてさしあげることが、その者を救う慈悲の行い、ということになるのであれば」
一呼吸のちに僧は続けてゆく。
「いいかえますれば、与うる側の信ずる善意がもしも、与えられる側にとって善意でなかった場合には・・、時に押し付けとなりえてしまうといえましょうか」
冬乃は不意に、思い出し。
近藤と町に出て浪士達と闘ったあの日、生き残った浪士の自害を咄嗟に止めていた時のことを。
あの行為が冬乃の中で信じる善に突き動かされたものであったことは確かで。だけれどもその行為が正しかったのか、ずっと分からないままで。
「・・しかしながら、あくまでその者が望むことを叶えてさしあげることだけが善行であるかというと、また一概にそうともいきませぬ」
ゆるやかな風に乗せるように僧が話を続ける。
「与えられる側の信じる"善" の定義は、時の経過によって変化することもまたあり得ますゆえ。その者がのちに振り返って、当時は押し付けであったその受けた善行を後から感謝するもまた、起こりうること・・」
(あ・・・)
「ゆえに私達は、ひたすら各々の信じる善行を、心より相手を想って施し続けるより他ないのかもしれませぬ」
「勿論の事、その善行にあたっては世に広く受け入れられている善悪と照らし合わせての、賢明な判断も必要でございます。それらは相手にとっての善を知る上で、大変に重要なことでございます・・」
(・・え)
冬乃は再び心中に渦巻いた思いに、つと息を呑んだ。
"武士の世" で広く受け入れられている、
彼らにとっての善は、
それならやはり、闘いの中で栄誉の死を、互いに尊重することではないのかと。
近藤が言ったように、互いに真剣を交えて闘う際に手加減をすべきでない事、
そして、そこにはたとえば沖田のいつかの選択のように、丸腰の相手や逃げ出す者ならば殺さない事も、
つまり一方的な殺害はしない事をも含むだろう。
そして、
その対の、闘いを続けた末の自刃ならば。尊重すべき事も。
(私は・・・)
あの時、近藤は冬乃の行為を咎めずにいてくれた。けれども、やはり本当のところは武士にとっての"善行" ではなかった、ということなのではないか。
僧が言ったような、いつかあの時の侍が振り返って冬乃の行為を認めてくれる日が、来ないかぎり。
心奥を突き刺した痛みに冬乃は息を震わせた。
――ひたすら各々の信じる善行を、心より相手を想って施し続けるより他ないのかもしれませぬ
慰めのように僧のその言葉を、胸内で繰り返しながらも。
「・・ならば」
そんな冬乃の横では、沖田が小さく息を吐いた。
「功徳どころか、その逆の、己の善に背く行為を幾度もしてきた私の・・次世で向かう先は地獄界でしょうね」
沖田のそんな静かな声を受けて冬乃は、弾かれたように彼を見上げていた。
(今・・なんて・・?)
「組織に害した、元は仲間だった者達を、私は幾度も手にかけた」
続く沖田の告白に。
「だが、この先も。私は迷うことなく行う」
冬乃は息を殺し。
(新選組に害した・・元は仲間だった者達・・・)
隊規に背いた隊士を、
だが逃げて生き延びることを望んだ者を。
裁きの場へと引きずり戻し、刑に処した事、闘いの中ではない死を与えた事を、
言っているのだと。
「・・御心で信じておられる善には背くとも、貴方様の"組織" にとって為すべき事であると、貴方様は同時に認めてらっしゃるということですね・・」
「ええ」
ただ、
と沖田は言い足した。
「さすがに、卑劣な方法での処断には、迷わぬわけではなかったですが」
冬乃は、芹沢達の暗殺の日、あの一瞬かいま見た沖田の表情を今また、見上げる先に見とめ。
「貴方様の向かわれる世は、」
不意に紡がれた僧の返事に、はっと冬乃は続けて僧を向いた。
「地獄界ではございませぬ。それだけは、疑いようのないことでございます」
「・・しかし」
「功徳を怠ったからとて、」
沖田の差し挟んだ懐疑へ、僧は静かにかぶりを振った。
「それすなわち地獄界へ向かうというわけではございませぬ。先程申しました様に、戒律にも在るところの"不殺生" も、また然り・・・」
「・・更には、貴方様の場合、御魂が大変に清くいらっしゃる。ゆえに尚のこと、一筋縄ではいかぬのでございましょう。貴方様が次に行かれる世は、少なくとも地獄界などではありませぬ、それだけは確かでございます」
僧は再びそう繰り返すと、「されど」継いだ。
これ以上は私にも観えませぬ
と。
あの僧には、沖田の次世が地獄界ではないことまでは、観えていたというなら。
(あの僧も僧で、いったい)
本当に、何者なのだろうかと。
冬乃を此の世の人間ではないと一見で観抜いたり、
今もって不思議な別世から戻ってきた感覚のなか、冬乃は深まる謎に、遂に溜息をついた。
僧は、まるで己はそれらの存在ではないような物言いをしていたが、本人に自覚が無いだけで、彼も統真と同じく何か、修行僧では無しにすでに仏の側の存在なのではないのか。
(・・統真さんも、本当に自覚が無いだけなのかもしれない)
だから自分を人間として認知し、あたりまえのように人間として生きているのかもしれないと。
(あの僧を見てたら、そんなふうに思えてくる・・・)
だが、そうなるとどうやって、統真は冬乃に対して『慈悲の力』を使っているのか。
本人の自覚が無いまま力だけが発動する、それではまるで、肉体や心つまり精神の働きではなく、
その制御の及ばぬ、魂、の働き――――
(そう考えてみるしか・・もう、説明がつかない・・・よね・・?)
いつかに冬乃が混乱して思考を打ち切った、ひとつの感を。今また思い起こして。
千代より受け継いだこの魂が、まるで冬乃の心を操って、
そして冬乃の心は、体を操り、
時に逆転して体が、心を操る。
そんなふうに感じてきた事。
(・・そして)
所詮、"現世でのみ存在する宿り木" の体と心では、
前世から次世へと無常の内を移りゆく、自らも無常である魂に、
操られることはあっても。
それを操るすべなど到底、持たないのではないかと。
そんなふうに、今ならはっきりと思える。
それにもし確かにそうならば、
統真の魂の、仏としての"慈悲の力" を、
彼の人間としての体と心では、本来、認識すらできないだろうと。
(そう・・・きっと、本来、なら)
それでも、その身が宿す魂は
この十方世界の究竟の存在
(“普通の" 仏様じゃないってことだから・・・)
冬乃でさえ。天上界から降りた魂をこの身に、
この奇跡のなかで既に幾つもの魂からの直観を、受けてきたのだ。つまり、
非常に限定的であっても、魂の及ぼすものを僅かに認識していて。
(・・・だから統真さんなら、もっと)
今は未だ、気づいていないだけで。
きっと然るべき時が来れば。
そして、その時こそ――――――
「冬乃ッ」
「・・・冬乃さ・・」
目の前が、突然真っ白になった。
(え・・・?)
「冬乃さん」
沖田の声と重なる、もう一人の声が。
聞こえて。




