30.
強風で巻きつく裾に何度も足をとられ、冬乃はそのたび立ち止まった。
止まってもまた歩み、一歩ずつ千代の家へと向かいながら、冬乃の意識は今も先程までの沖田との会話に囚われている。
あの問いに、冬乃が返せた答えはひとつだった。
「お二人は・・仲違いして、分離組は戻ってこなくなってしまいます」
そんな、
きっとあの場であの問いを投げてきた沖田ならばもう、冬乃の先の表情でとうに悟ってしまったであろう事しか。
「・・・その後は?」
珍しく続いた彼の追及に。
冬乃はそして、俯くしかなかった。
それ以上、表情を見せないために。
「その後も・・・そのままになります・・」
殺し合う結末になる
そんな事を伝えるなど、できるはずもなく。
「・・・」
もはや答えになっていない事なんて分かっていた。次に来るだろう更なる追及へ冬乃が身構えた時、
だが、不意に沖田の手が冬乃の握り締めた膝の上の拳をそっと包んで、
冬乃ははっとして顔を上げていた。
冬乃の表情を見ていなくても、もう次を聞かなくても。冬乃の胸内に抑えられた答えを知ったのかもしれない。
沖田の、こんなに酷く辛そうな表情を、初めて見た冬乃は、
そのとき声も忘れて只々瞳を見開いて。
「歴史は変えられないと」
そんな冬乃を。
どこか覚悟した眼が見返した。
「以前、冬乃がそう答えたと土方さんから聞いたが」
本当に、変えられないのか
そう問う静かな声音が、続いた。
どんなにあがこうと――――変えられない親友の死期だけは、
今、まだ彼に知らせずに済むとしたら。
(きっと・・・こう答えるしか)
「いいえ」
冬乃は強くゆっくりと瞬いて、沖田の目を見据えた。
「・・本当は」
歴史の大流を変えられなくても、大切な人達の命の長さを変えられなくても、
全てを変えられないわけではない
ただ唯一、命の散り方なら
――貴方の歴史を変えられたように
「変えられる可能性は、あります」
冬乃のその言葉に、偽りは無い。
だからこそ、
沖田はふと息をつくと、冬乃の願った通り、それ以上聞いてはこなかった。
「冬乃」
代わりに、
「確認したい事がある」
"変える" そのすべを探るかのように、
「以前冬乃は、先生達が口論せずに済む方法がもしかしたら見つかりそうだとも、言っていたね」
そんなふうに促してきた沖田に。
冬乃は一瞬だけ迷って。だがすぐに頷いた。
「近藤様と伊東様のお考え・・志が、この先もずっとおふたり同じ方向を向いてさえいれば・・・何か糸口を見つけられるはずと、そう思えています・・」
これまで冬乃は。
近藤たちが"口論" する未来が待っていると、
そしてその原因は二人の思想がきちんと互いへ伝わらずに、様々な誤解が重なったためではないかと、
唯そんなふうに伝えて、
両者ですれ違いが生じ始めたりしてはいないか、常に観察してもらえるよう働きかけてきた。
それだけで。その"喧嘩" の程度までは、決して伝えなかった、
もう絆が戻らなくなるほどの"喧嘩" だとは、
まして近藤が伊東に懐いたかもしれない誤解の中身が『伊東が討幕に転じた』、そんな誤解であった可能性など。
――冬乃が動いたことで相応に深刻な結末だとは、多かれ少なかれ想像されていただろうとしても。
「ですが、」
分離組が戻らない未来を知った沖田に、
もう隠し通す事は不可能だろう。
「この先お二人の志が、もしも表裏ほどに違っていってしまうのだとしたら・・」
伊東と近藤は、今後"歴史" が示すかぎり
そうまで思想を違えてゆく可能性があると
つまり、その意味は
「・・・だとしたら、どうがんばっても避けられないのかもしれません。歴史に遺された諸々の事柄からでは結局、推測しかできないんです・・お二人に、」
――悲劇の結末をむかえるほどの
「・・"仲違いしたままになってしまうほどの" 、思想の隔たりが、本当にあったのか、そんなもの無かったのかは・・・ただお二人の真実がどうであっても、このままでは」
ただの口論や喧嘩などではない
敵対してゆく未来が、待っているという事を。
「・・・ですが私は」
冬乃は、声にできなかった言葉たちを置き去りにしたまま、包まれている拳を再び握り込んだ。
「おふたりはずっと同じ方向を目指していたと、思い・・信じたいです・・・そして」
「同じ方向では無くなったという誤解が、おふたりの関係を引き裂いていったのだと」
「話してくれて有難う」
未だ辛そうな沖田の顔が冬乃の瞳に映っていた。
「ならば改めて」
決意したかのように。彼は低く息を吐いた。
「その"誤解"が生じてゆくのを、なんとしてでも阻止だな」
冬乃は頷いて。それでも、辛そうな顔をもうそれ以上見ていられずに、
まだ少し震える己の身を寄せ、彼の胸前に顔をうずめた。
「・・仲違いしたままになってしまう事、ずっと黙っていてごめんなさい」
声がくぐもった冬乃の、背を沖田の腕が抱き包み。その優しいぬくもりのなか、冬乃は告白を続けた。
「お伝えしてこれからのことを総司さんに相談するときは、もっと、おふたりのすれ違いを避けられる確信がもててからにしたかったんです」
周囲が記録に遺した伊東の敵対的言動は、真実ではないと、
伊東が、たしかに討幕に転換してゆくことは無いという確信を。だからこそ、これからの二人の隔絶もきっと誤解によるものと、
そして誤解ならば解いてゆくことも叶うはずと。
その確かな希望が欲しかった。
「ごめんなさい・・」
でなければ、期待は所詮、祈りの域を出ずに。彼を今のように苦しめてしまうと、懼れて。
「冬乃」
冬乃の背を抱き包める腕が強まった。
「冬乃が話さない時は、色々と考えてくれた上での選択だと分かっている」
「だが、一人で思い詰めずに話してほしい気持ちにも変わりはない。この話も・・聞くべきではなかったかと一時は思ったが、やはり聞けて良かったと今は思う」
(総司さん・・)
「今後、先生と伊東さんの"志の目指す方向" が同じでは無くなったと」
冬乃の言い回しに合わせ、沖田が確かめるように続けた。
「そのように俺達が誤解したとしたなら、それも"仲違いしたまま" になる程という事は、つまり」
「『伊東さんは敵方に寝返った』、そのように俺達は誤解したという事になるね」
やはり沖田は正確に、冬乃が言い回しで濁して声にはできなかった言葉たちを、読んでいて。
冬乃は、沖田の腕のなかで顔を伏せたまま、小さく頷き肯定した。
「しかし皮肉だな・・見せかけの仲違いが、本当になってゆくとは」
落ちてきた嘆息を耳に、
冬乃は急いで首を振った。
「仲違いは、きっと、防げます」
無理やり押し出した返事は掠れても。
(だって絶対に)
「防がなきゃ、いけないんです・・・」
「ああ。必ず」
応えた沖田の腕の力が、更に強まった。
「藤堂達が無事、戻ってくる為に」
その言葉は。
今も鉛のように、冬乃の胸奥に深く沈んでいる。
行く道が何度も涙で霞み。手の甲に払っても次には、まるでこの先の予兆のような強風に阻まれながら。
冬乃は抗い、歩み続けていた。
もうずっと。
(・・大丈夫・・・藤堂様の望みに、沿うようになる)
彼が再び組に戻ってくる未来は、望めなくても。
全てが収まり分離組が戻ってくる未来、それ自体が望めないからである事以前に、
あと半年で藤堂の命の炎は尽きてしまうのだから。
それでも、彼の望む最期へと向かう未来ならばきっと望めるはず。
祈りをこめて冬乃は、その可能性を信じている。
(・・けど)
どうしても一方で、不安が胸内をよぎる。
ひとりの命の散り様を変えるために、元の歴史がどこまでの変更を許容するのか
冬乃には今も分からずに。
歴史の大波になど、端から敵わない事なら承知している。
だけどこれから冬乃が抗おうと向かう波は、微小な波でも決して無いはずで。
藤堂の死因を変えるべく冬乃が目指している事は、史実では殺し合う結末に向かった二つの組織の隔絶を白紙にする事なのだから、
安藤や山南の時とは、明らかに幕末史そのものに及ぼす影響の規模が違うのではないか。
大流のなかの波飛沫では済まないだろう。
だからこそ、本当に叶う事なのか。そんな漠然とした不安が拭えないでもいる。
(・・大丈夫)
冬乃は今一度、己に言い聞かせた。
(きっと安藤様や、山南様が示してくださったように、藤堂様も望む最期を迎えられる)
かわらず強風に圧されるなか、冬乃は今度こそ前を見据えた。
ひときわ強い一陣の風が、そんな冬乃を押し退けていった。
「ようするに」
コン、と土方の煙管が灰吹きを鳴らした。
「この先の"表向きの" 歴史通りに、本当に伊東が俺達と反目する可能性もあるってことだな・・」
「その可能性も覚悟しておくべきでしょうね」
それから
沖田の低く抑えた声が続いた。
「その場合は、判明した時点で一刻も早く藤堂達を呼び戻してください」
「・・藤堂が万一にでも、伊東につく可能性は無いとは言えねえ」
「無いですよ」
沖田は即答した。
「こちらが余程の事をしない限りはね」
「余程の事、か」
「ですが、まずは冬乃の言う可能性のほうを」
「ああ」
土方は頷いた。
「その歴史は、あくまで誤解が招いた結果だと言うんだな」
深い溜息と引き換えに、土方は再び煙管を口元へ持ってくる。
「俺も、それを信じてえよ」
閉め切った障子が激しい風でガタガタと音を立てた。
「でなけりゃ、・・反目したまま放置するわけにはいかねえからな・・・」
吐き出した煙が彷徨い。
「"仲違い" の後に俺達がどうしたかは・・言わなかったんだよな、はっきりとは」
「ええ」
煙の向こうで、沖田が声音を落としたままに頷いた。
「ですが冬乃がそれを言わなかった事が答えです。それ程の事をしたんでしょう」
粛清――
その二文字が、
土方と沖田の胸内に淀んでいた。
新選組で、意味する粛清は。裏切りを死をもって償わせるという事に、他ならない。
「・・藤堂も含めてだと思うか」
「今言ったように、」
「冬乃が"仲違い" の結末を答えなかった事自体が、答えです」
「俄かには信じられねえ・・俺達が藤堂を・・」
土方の表情が遂に苦痛に歪んだ。
ガタガタと、今もひっきりなしに障子が悲鳴をあげて。
「藤堂までそうなったとすれば」
音の合間に、沖田の苦しげな声音が連なる。
「そのきっかけを作ったのは間違いなく俺達の側でしょう、つまり」
「それが余程の事、ってやつか。・・だとすりゃ、」
「組は何らかの卑劣なやり方で、伊東さんを"粛清" した」
ごう、と、ひときわ激しい風が建物さえも揺らした。
「・・なあ。確かに、歴史は変えられると、あいつは言ったのか」
縋るように。土方の眼は沖田を見据えた。
同じ想いに押されるように、沖田は頷いてみせた。
「ですから今はそれに賭けましょう」
土方の眼の光は、決意に変わり。
「藤堂には」
それでも尚、苦しげにかぶりを振った。
「この事、伝えねえほうがよさそうだな」
「ええ・・」
止むことをしらぬ風が、びゅうびゅうと舞い狂う音を伴い。二人の間の沈黙をまるで嘲笑うかのように続いた。




