17.
雨が降り出して。
バラバラと軒先を叩きはじめた音は瞬く間に激しくなり、ヒナたちが今どうしているのか気になった冬乃は、おもわず障子のほうを凝視した。
とはいえ、吹き込む風が冷たかったために障子なら既に閉め切ってある。
近藤が顔を上げ、「やはり降ってきたか」と溜息をついた。これは暫く外に出られそうにない。
「秋ももうそろそろ終わりだな」
近藤が更に続けて呟いた。
冬の到来は、もう季節だけではなく。これから、この時代そのものが冬を迎える。
そして近藤たちにとっても、冬乃にとっても、もう冬の時代で終わって。この先に春は来ない。
いくら季節だけは、あともう一巡、繰り返しても。
己の名の一部だけに、何か因縁めいたものを感じてしまう。冬乃は内心自嘲した。
人生が冬のままで終わるなら終わってもいい。いっそ、
冬を越したとしてもいつかまた冬が来るかもしれない、そんなふうに何度も“人生の冬” を迎える苦しみを味わうよりは。
「この仕事を片付けたら、休憩にしよう」
気を取り直したかの近藤の、温かい声に冬乃は顔を上げた。
「はい」
冬だからこそ良い事もあるのだ。ぬくもりが、より温かく有難く感じられるように。
冬は決して、わるいものでもない。
(私の名だし)
冬乃は小さく力なく微笑った。
「ああ、なんか似たような事、土方さんにも聞かれたんだよね」
昼過ぎまで続いた雨の名残のぬかるみを避けて、夕餉の広間から幹部棟までの帰り道、冬乃と藤堂は一緒に歩いていた。
ちなみに沖田なら夕番に出ていたため、今時分は未だ風呂を上がった頃だろう。この先の道ですれ違うかもしれないと冬乃は少し期待しながらも、藤堂に確かめようと構えていた事柄を口にしていた。
伊東と近藤の思想に、いま何か異なるところがないかを。
「でも冬乃ちゃんがなんでそんなこと聞くの?」
「・・近いうち、」
冬乃は用意しておいた言い訳を切り出す。
「お二人が“口論” する記録が未来には残っているんです。でも記録にはそれだけで、肝心の理由が残っていません。防ぎたいんです、お二人の・・喧嘩なんて。だから、」
藤堂が目を丸くして聞いている。
「もし藤堂さま、さんのほうで、伊東様と近藤様のご両者の間に何かご意見の食い違いがあることを気づかれてらしたらと・・。きっと藤堂さんなら、そんなお二人の仲介ができるかもしれないって。すみません、勝手な事言ってて」
藤堂はひとつ小さく息を吐いた。
「よくよく考えてみれば、ってくらいの違いしかないよ。土方さんにも答えたけど・・伊東先生はさ、けっこう長州に同情的・・寛容的なことをおっしゃるから。ひやっとする時はあるんだ。あるとしたらそれくらい」
だけど、
と、冬乃が今ので受けた内心のこわばりを知ってか知らでか、藤堂は続けた。
「それだって、伊東先生は長州がしてきた事を許しているわけじゃないんだ。ただ、もっと初めの頃に天子様のご意向が長州に、いや、天下に、正確に伝わらなかったことが一番の憂うべきことだって。そしてその最大の原因は、朝廷内部の牽制や幕府の閉鎖的な体制のせいだって・・だから伊東先生は変えたいんだ。もっと政治が広く天下に開けたものに」
(あ・・)
「そしてそれって近藤さんもよく言ってることだよね。だから二人に食い違いとか口論になるほどの原因は、俺にもごめん、わかんないや」
幕府体制の変革。近藤も伊東も、めざしている大筋は変わっていない。
だが、だとしたら。
(やっぱりそれじゃ・・)
孝明帝はじめ今時点の慶喜や幕閣の多く、そして近藤の期待する変革とは、
これまでどうり幕府を朝廷から委任された最上席に据えたままで、幕府内の古びた膿を掻き出しての体制改革、
片や、現状の薩摩ら雄藩が期待する変革は、
幕府を最上席ではなく、まず朝廷の元に同列として席を並べての体制改革。よって幕府の政府としての権威は失せるも同然、ゆえに緩く“倒幕”の側面をもつ。
政治以外では依然、徳川幕府が諸大名を統べる立場であるとしてもだ。
政治における幕府の立ち位置をどうしたいか。その思想の違いは、それでも平和的改革としては本来紙一重。
だがきっと冬乃が危惧したように、全く妥協をせず相容れなければ、表裏ほどの大きな違いを生んでしまうのかもしれず。
のちに薩摩が、相容れずに武力討幕へと転換したように。
もし伊東が後者なら、
もしくは、もっとそれ以上に大きく広い体制をめざしていたとしたら。
(・・だけど同じ後者でも、薩摩以外の藩は留まったじゃない・・)
こののち四侯会議失敗の後、武力討幕へ明確に舵転換するのは薩摩だけ。
(紙一重を紙一重でないものにしてしまうのは、・・あくまで“人次第” )
変革が最早叶いそうになくなったからと見切りをつけ武力討幕へ転換した薩摩は、その点で異端といわざるをえない。
そうまでして相容れなくなった根底には、薩摩の、長州との同盟による義理立て以上に、徳川慶喜個人への鬱積した反感があったともいわれている。
だが長州と同盟を結んでいたことも大きく影響したのは確かだろう。
ただ当初、薩摩内部ではそれでも、未だ朝敵の長州に義理立てして幕府と戦争するなどもってのほかと反対する声は根強かった。
まして伊東なら。
そのような藩同士の政治や経済という縛りのない彼だからこそ、
(幕府改革が叶わないかもしれないからって、討幕をめざしたかどうかは、)
つまり近藤達と、決定的に道を違えるかどうかは。まだわからないのだ。
「藤堂さま・・さん、」
なに、と藤堂が微笑んだ。
「伊東様のめざしてらっしゃる幕府の体制って、・・詳しくご存知ですか?」
「え、うん。いま薩摩が中心になってめざしているものに少しだけ近いんだけど、まずは、諸侯がもっと幕府に遠慮せずに政治に関わって、広く意見交換するっていう構想」
あっさりと答えてくれた藤堂に、冬乃は瞠目しつつ急いで頭を下げた。
「お、教えてくれてありがとうございます」
「べつに隠すことじゃないもの」
顔を上げた冬乃の前で、藤堂がまたもあっさりと微笑った。
孝明帝や幕府は薩摩らのめざす改革そのものは望んでいないとはいえ、確かにその内の、広く意見交換という構想自体なら、即、反孝明帝・反幕府となるわけでは無い。
幕府自身が、そして朝廷も(こちらは裏で操られることも多かったとはいえ)、いくつかの政治課題においては広く諸侯に意見を求めたことならこれまでにもあった。
いま薩摩らがめざす体制は、平たく言えば、それが全ての政治課題において為されるようになり、かつ、幕府の立ち位置そのものが諸侯と並列になることなのだ。
その立ち位置の点では、当然に孝明帝や幕府の意とは反するのだが。
(そういう意味では、ほんとうに言動に気をつけないと誤解されかねないんじゃ・・)
「もう土方さんたちにも気づかれてたみたいだから、ていうより未来から来た冬乃ちゃんなら知ってるだろうから言っちゃうけど、いま俺たち、組から分隊を出してそれを薩摩や土佐や朝廷内の政治的な動きを探れる専門の機関にしようって考えてるんだ」
(え・・・)
冬乃の懸念をよそに、本当に何から何まであっさり話してくれる藤堂に冬乃はもはや押し黙った。いや、
戸惑っている冬乃のほうがおかしいのだろう。
藤堂たちがいずれ組の謀反人として扱われる未来を知る冬乃だからこそ、違和感をおぼえるだけであって、
今の藤堂からすれば、全くうしろめたさのかけらもない活動なのだから。
やはり内々に動いていたのも混乱を避けるためなどの、彼らなりの配慮があったのだろう。
「もう少し準備が整って本当に実現できそうになったら、土方さんたちに伝える算段だったんだけどね。さすが監察だよね、とっくにわかってたみたい」
(やっぱり)
組の監察のことをむしろ誇らしげに笑っている藤堂を、冬乃は呆然と見つめる。
(・・きっと本当に、)
「伊東様と近藤様は・・、“喧嘩” するようなことなんてなかったのに、お互いの想いがきちんと伝わらなくて誤解が重なってしまったのかもしれません。・・それこそ、今の国を憂いているお二人なら、最も望まないことのはずなのに」
互いのめざす終点がどんなに同じでも、そこへ向かうまでに採る道が違えば、
互いをみることさえできない遠く隔てた道を向かえば、
それは同じ志とは、もう呼べない。採る“経路” が違うがために、採る言動ひとつひとつも違ってきて、
その言動の違いは互いへの誤解を生じ、重ねてゆくだけでなく、互いをみれてさえいたなら無くてすんだはずの憎しみにまで発展させてしまう。
佐幕派と討幕派が、国を想ってめざした終点が同じでも、そうと信じ合うことなく殺し合ったように。
近藤と伊東の、採る道もまた、
このさき互いの手も取り合えないほどに、遠く離れた道へと別ってしまうのか。
つまりは、
伊東は武力討幕の道をこのさき進んでしまうのだろうか。
(・・もし伊東様の採った道が、武力討幕ではなく、)
“倒幕” は倒幕でも。
あくまで、平和的改革をめざし貫こうとしたものだったなら。
(それなら)
本来決して、互いの手が届かないほど隔てた道ではなかったはずだ。二人がその手を伸ばし合うかどうかは、
(二人次第・・)
「そうだね。俺、二人のこと気をつけて視ててみるよ」
「お願い、します」
声が震えた冬乃を藤堂の心配そうな眼が覗き込んだ。
「そんな大きな喧嘩なの」
冬乃は咄嗟に逸らしそうになった目を藤堂に据え。感情を抑えた。
「すみません、そこまでの詳細はわからないんです」
「そっか。でもどっちにしても喧嘩なんかしてほしくないね」
冬乃は小さく頷いた。
思想が、信念が。
異なった時。
相手を悪者にしてしまうのは簡単で。
だけど、本当にもう通じ合うものが残ってはいないのか。
謀られ騙されるかもしれない、そんな不安と怖れをも乗り越えて、相手との接点を求め探ろうとする力は、勇気に他ならない。
(もしかして伊東様は、最後までそれを・・)
伊東は最期の夜、近藤の元を訪れていた。
粛清されようとしているとは微塵にも疑わなかったのか、それとも懐疑はあっても、話し合おうと、想いを伝えようとし続けたのか。
近藤がそれでも尚そんな伊東を粛清するに至るまでの、過程さえ、もっと早くにわかれば。
(防げるかもしれない、最悪の事態を・・)
「仲をとりもつために、私にもできるかぎりのことをさせてください」
冬乃の縋る眼を、藤堂はにこやかに受け止めた。
「もちろん。冬乃ちゃんがいてくれたら心強いよ」
失いたくない藤堂のその笑顔が、そこにあった。
「これからよろしくおねがいします」
見ていられずに、冬乃は頭を下げる。
藤堂が「うん」と微笑った。




