11.
将軍家茂の死去が公になり。次いで長州征伐停止の勅命が下った。
長州が、天皇および朝廷の敵であるという“汚名” を解かれたわけではない。
だが。
「あの制札が抜かれただと?!」
ようやく夜に向けては過ごし易くなってきた八月の末、
夕虫の音色をかき消す近藤の声が部屋じゅうに鳴り響いた。
部屋の中央に坐す近藤と土方の背後で、冬乃は二人の茶を用意していた。
なぜ冬乃がこの場に留まるよう土方に言われたのか、冬乃には謎だったが。
「ああ、いま急ぎ新調している」
「で、犯人は?!」
「どうせ長州派浪士共に決まってるさ」
忌々しげに吐き捨てた土方が、冬乃の差し出した茶を手にとり一気に飲み干した。
「奴ら、いい気になりやがってッ・・」
先の戦は幕府の敗北も同然に終わり、今や長州は、幕府などもう取るに足らぬと高笑いしているに違いなく。
「開戦すべきでない状況で開戦したからだ!本来ならば、幕府が長州ごときに後れを取るはずがなかった!」
憤懣やるかたない近藤が、茶を持たぬ側の拳を握り締めた。
いま闘っては敗戦も起こり得ると懸念していた近藤の読みは正しかった。かといって一度抜いた剣を納めるに納められず開戦を迎えた幕府もまた、この現状下、同じ想いでいることだろう。
「ああそうだ。今回は奴らに運が回ったまぐれにも等しい。にも関わらず制札に手を出してくるとは、随分と調子に乗ってやがるじゃねえか・・!」
土方がドンと湯呑を横の畳に置く。
彼らが言っている制札とは、長州が天皇の敵つまり朝敵である旨を公示した立て札で、三条大橋西詰に掲げられていたもの。
それを引き抜くということは、
長州がすでに今上天皇である孝明帝の赦しを得て戦争停止になったのだと、世間に印象づけることにもなる。
実際は、孝明帝は戦争継続を望んでいたものの、これ以上つづけても勝ち目は薄いからの、やむなき停戦であり、
決して孝明帝が長州を赦したからではない。
それがため、この件においても幕府側の悔しさは察するに余りある。
話は、ただの制札へのふざけた狼藉ではないのだった。
冬乃は縮こまったまま、膝の上の拳を見つめた。
「おい、」
そんな冬乃を。突然、土方が振り返った。
驚いた冬乃に、土方の鋭い眼ざしが向かい来る。
「おまえが知っているこれからの流れを全て教えろ」
冬乃は目を見開いた。
土方のその眼は、
全てを受けとめる覚悟を深く内に秘めたような、力強い意志の眼で。
「・・歳」
近藤が制止する声を出した。
「いや、」
土方が冬乃を睨んだまま、さらに近藤へ制止の意を返す。
「聞かせてもらう。近藤さん、俺達にはどうやら、この先の歴史を知っておくべき時が来ているようだ」
冬乃は、
土方が冬乃をこの場に留めた理由がこれだったことに、気づくとともに。
膝で握り締めていた両の手を。
前の畳へと降ろした。
「申し訳ありません」
土方の意志の強さに負けないように声を圧し出したはずが、掠れ。
「お話することは、できません」
畳についた冬乃の手が震えた。
頭を下げたのは、彼らの顔を見ることができないからでもあり。
(申し訳ありません)
「てめえ、これは命令だ!」
「ではご命令に背きます!御手討ちにしてくださって構いません!」
「おまえ・・!」
この先の歴史を伝えても、
抗いようのないその大波に、呑まれてゆく運命を、
聞いたところで彼らにも誰にも、どうすることもできないというのに。
近藤も、土方も、沖田たち新選組の皆も。
彼らがこの先の幕府の崩壊を知っても、その沈みゆく船から降りてはくれないことなど、冬乃には分かりきっている。
彼らの正義と信念と、誠の忠義が、それを許さない。
死へ向かう道を当然のように受け入れるだけ。
なら伝えて何になるだろう。
元より、伝えることなどあってはならない。
死しても変えることのできない、希望のない未来など。
「仮にも近藤さんの娘を、手討ちになんざできるわけねえだろが・・!くそっ・・」
土方は吐き捨てると、顔を上げた冬乃から視線を外して再び近藤へと向き直った。
「・・すまんな、歳」
まるで冬乃の代弁のように近藤が小さく呟いた。
冬乃が近藤の養女になった事は、隊に公にはしていない。だが土方や試衛館の頃からの仲間は勿論知っている。
(土方様、近藤様・・)
冬乃がもし近藤の養女でなくても、
(本当に申し訳ありません)
手討ちになどしないことも。冬乃は感じ取れた。あの場では本気で、そうなっても仕方ない覚悟で口奔ってしまったものの、後から思えば狡い回避だったのではないか。
「申し訳ありません」
今一度零れ出た冬乃の声に、
「もういい。用は済んだ、出てけ」
土方の背が、振り返らず一言答えて。
冬乃はその背に再び頭を下げて、震える膝で立ち上がった。
ただ何も聞かずに抱きしめていて
冬乃がそう願った心の声を、まるで聴きとったかのように。
沖田の部屋へと直行してしまった冬乃を出迎えた沖田が、冬乃の表情を見るなり黙って抱き包めた。
硬く温かな胸に頬を押し付けて冬乃は、安心したら溢れそうになった涙を堪える。
大丈夫だ
言葉にされずとも、伝わるほど深く抱きしめてくれる沖田の、
着物を冬乃は、夢中で握り締めた。
(このまま時が止まってくれたら)
もうこれ以上、進まないで、永遠にこの時に何度も戻ってこれたなら。
それなら幾度未来へ帰ってもまた、繰り返せるというのに。この果てのない苦しみから抜け出て。
「冬乃・・」
すっかり暗くなった外から初秋の風がすべりこむ中、緩やかな行灯の光を背に沖田がそっと冬乃を離し、顔を上げた冬乃の瞳を見据えた。
「前に言った事、覚えてる?一人で抱え込んで苦しんでほしくない、と」
「はい・・・」
以前に沖田は、これからの事を自分に明かすことで楽になる時はそうしてほしいと言ってくれたことがある。
冬乃はその時、まだ何を言っても大丈夫なのか何はだめなのか判断ができないと返したが、
冬乃が打ち明けたくなった時にはいつでも聞いてくれる、そんな沖田の愛情が、冬乃の沈みそうになる心を底から支えてくれてきた。
「ならいいんだ」
それでも心配そうに見下ろしてくる沖田に、
「ありがとうございます」
まだ少し涙が零れそうになりながら冬乃はなんとか微笑んでみせた。
この先の歴史の行く末を、けれど彼にも打ち明ける日はきっと来ないだろう。
でも藤堂の事ならば、相談できる時がいつかは来るはずと。あれからずっと冬乃は模索している。
歴史の大流も人の命の刻限も変えられない冬乃に、介在できる唯一の事、
人の、藤堂の、命の散り様を変える。
そのために。
尤もそれですら、変えられるのはその人の望みに適っていた場合だけで。だから、必ず見つけなくてはならない。
藤堂の望む死を、
歴史が遺した彼の散り方の、代わりを。
でなければ、
それを冬乃が用意できなければ。
藤堂は新選組の仲間と敵対して死んでしまう。
(それだけは・・藤堂様が望んでいた死なわけがない・・)
ぶるりと震えた冬乃の体が、強く今一度、抱き締められた。そして優しく緩まり。
「状況がもう少し落ち着いたら、」
沖田の穏やかな声音に、冬乃は顔を上げる。
「二人で温泉に行こう」
(・・温泉?!)
冬乃にすれば唐突な、その誘いは、
冬乃のこれまでの思考を一気に逸らした。
「暫くは、家の風呂で我慢してもらうけど」
「え、や、そんな充分すぎるほど満足してますいつも!あ・・でも温泉は・・温泉で・・・ぜひ・・・・」
沖田が笑った。
「うん。で、今夜はこれから帰る?」
(あ)
そうだ。沖田は今日は朝と昼間の巡察を終えていて、今夜はもう非番なのだ。
「はい」
頬が熱くなるのを感じながら答えた冬乃を、
「夕餉はどうしようか」
沖田が冬乃の腰を未だ抱いたまま見下ろしてくる。
聞いてくれたのは、常に冬乃が家に帰るときは夕餉を作りたい事を知っているからで。
ただ。
「今夜はこれから作ると遅くなってしまいそうなので、こちらで食べていくのでもいいでしょうか」
「もちろん」
沖田が予想していたかのように頷いた。
早速広間へ向かう様子で、冬乃の体をそっと解放し、刀掛けへ大刀を取りに向かう沖田を見ながら冬乃は、つと、
先程までの涙も収まっていて、それどころか今夜の二人きりで過ごせるひとときに向けて心が躍っていることに、気づいた。
(・・もしかして総司さんは、私がこうなるように・・?)
大刀を腰に差し、沖田が振り返る。
「じゃ、行こうか」
「はい・・!」
(ありがとうございます、総司さん)
癒された胸内で、そっと囁く。
大丈夫だと
きっとまた、抱きしめてくれる何度でも。
繋がれた力強い手に引かれ。冬乃は一歩、踏み出した。
制札の事件が、終結を経た翌朝。
「嬢ちゃんおはよう~」
秋の朝の気持ちの良い空気を堪能しながら井戸場へとやってきた冬乃を、原田のげっそりした顔が出迎えた。
あれから何度も制札は立て直しては抜かれ、ついに新選組は夜通し見張ることとなり。
昨夜は原田ら率いる見張りの隊が、犯人の出現を待ちくたびれて酒まで飲みだした頃に、彼らは現れたのだった。
そのまま戦闘になって敵方には死傷者も出る結果となった。
「・・おはようございます原田様」
眠そうに目をこすっている原田に、冬乃はおもわず眉尻を下げて挨拶を返す。
明らかに疲れが取れていなそうだ。
「おうサノ。昨夜はお疲れ」
幹部棟を出て向かってきた永倉が声をあげる。
「冬乃さんもおはよう」
「おはようございます」
「なあ新八っちゃん、聞いたかよ?犯人ども、またも土佐っぽだぜえ。やってらんねえよ」
(そうなんだよね・・)
原田の悲鳴まじりの溜息を耳に、冬乃は井戸の前へ立ち、釣瓶を引き上げる。
土佐は、今こそ水戸ほど悲惨な政情ではないものの、家中で思想が真っ二つに割れている藩のひとつで。
藩主や上級武家の後藤象二郎などは親幕派なのだが、下級武家の中には長州寄りの者や、坂本龍馬や中岡慎太郎などの国抜けまでして志士活動をしている者も多かった。
尤も龍馬の思想は追々、親幕派(佐幕派)とも、のちの討幕派とも、一括りにはし難いものとなり。そのせいで双方の激派から敵とみなされることになっていってしまう。
(伊東様も・・もしかしたら、この後の龍馬と同じ境遇だったんじゃ・・)
冬乃はずっと伊東の言動を観察しているが、未だ全くといって分からなかった。
只あれこれ考えれば考えるほど冬乃は、伊東がある時点から、近藤達に“誤解” されていったのではないかと、疑い始めている。
(大丈夫、まだあと少し時間はあるから。もっとよく観察して)
冬乃は自身に言い聞かせながら、桶に汲んだ水を手に掬った。顔を洗いだす冬乃の後ろでは、原田達が話を続けている。
「しっかし、土佐は上下で割れてるとばかし思ってたけどよ、昨夜ひっ捕らえた宮川って奴は上士だとよ。どうなってんでえ」
原田の更なる溜息も続く。
宮川は土佐の上級武家出身にしては珍しく、長州寄りの活動家だ。
「ああ、俺も聞いたよそれ。近藤さんなんざ、あれだよ、器がでかすぎるから、奴が切腹させろと堂々言い出した態度見て、すっかり“武士の情け” の気分になったらしい。土方さんがぼやいてた」
永倉の、心情複雑そうな声が追った。
(ぼやいてた・・)
土方もじつは温情において近藤並みに、いやもしくは近藤以上に慈悲深いのだが、
隊を統率する立場として、沖田も揶揄するほどの“鬼” の一面を貫いている。そんな彼だから、近藤が宮川の処分を穏便にと言い出したことに、色々とまた困った気分なのだろう。
「ま、もう奴の治療は終わったんだろ。これから早々に御奉行へ引き渡してくるさ」
「ああ、俺らはとっ捕まえるまでが仕事だしな」
原田がそう締めくくって肩を竦めると。
ぐわあと盛大な欠伸をした。
「やっぱ俺もういっかい寝よ・・」




