10.
「・・・冬乃さん?」
遭遇したのは。
千代だった。
「こ。こんにちは、お千代さん」
ぴたりと立ち止まった冬乃に、千代が小首を傾げる。
「その木刀、どうしましたの」
「護身用・・です」
おもえば千代は何度も屯所に来ているおかげで、門番と顔見知りになっている。警備強化後もあっさり入ってこれたのだろう。
「護身用って・・屯所よ?」
当然、そんなふうに簡単に通された千代からすれば、屯所内外で厳重警備中とは露ほどにも思うまい。
「じつは先日、外部の侵入者が出て・・」
人質になったと言うと千代のことだから心配してしまうだろう。冬乃は適当に語尾を伸ばした。
「まあ大変」
驚いた声で、どうかお気をつけていてと眉尻を下げた千代は、それでもまだ少し不思議そうに目を瞬かせて。
「でも冬乃さん、剣術をなさるの?」
やはり尤もな質問が来た。
「少しだけ・・たしなむ程度です」
茂吉達に答えたような返事で苦笑いを隠す冬乃に、
「冬乃さんってほんとうに多才でいらっしゃるのね・・!」
なぜか感動し出した千代の、キラキラ輝く視線が向かってきた。
(た、)
多才?
「それをいうなら、看護の仕事もお医者さんの仕事もできるお千代さんのほうがずっと多才です」
「冬乃さんにだってきっとできることよ」
「いえいえ無理ですって!」
首をぶるぶる振った冬乃に、千代が乗り出した。
「いいえ、蘭学書をお読みになれるくらいですもの、冬乃さんならできますわ!」
「・・って、」
乗り出したことで千代が、冬乃の手の膳を見下ろす姿勢になって。膳に改めて気がついたらしい。
「御膳を運んでらっしゃるってことは、・・近藤局長様の?」
姿勢を戻した千代の、その問いに冬乃のほうは頷いてみせる。
「まだお仕事が終わらないからと、ご所望されました」
「ごめんなさい、こんな所で立ち話してたら冷めちゃうわよね。歩きながらでもいいかしら、」
言うなり千代が早くも歩み出した。
冬乃も続く。
横に並んだ千代が、冬乃ににっこり微笑んだ。
「まずはこのとおり、おかげさまで風邪は治りました。あのとき来ていただいたのに今までずっと伺えなくてごめんなさい・・」
「なんて、じつは未だちょっと咳だけ長引いてはいるのだけど」
(・・え)
なんでもないことのように参ったわと微笑っている千代を目に、冬乃は背に奔った悪寒に震えた。
冬乃が未来に帰っていた二か月近くも、咳が続いていることになる。
(それって)
「やだわ、そんな顔しないで。大丈夫よ、このところお昼はほとんど咳もなくて調子がいいの」
「でも熱とかは・・」
「いいえ、ないと思うわ」
「倦怠感はありますか」
「暑いから、それはいつもよ」
なんだか問診されてるみたい、
と千代が微笑う。
「・・・血痰はでますか?」
千代が、真顔になった。
「・・もしかして、労咳と疑ってらっしゃるの・・?」
(お千代さん・・)
これは千代が選んだ道であり。
冬乃はただ受け止めなくてはならない。
もっと遡れば、千代の魂が、そんな己の道から愛する存在を引き離すために。冬乃を呼んだ。
だから・・・
「いえ。風邪が長引いてるだけかもしれないですし、滋養のあるものをたくさん摂って、少しでも休んでください・・無理をしないで」
「冬乃さん」
「すみません、変なこと聞いたりして。労咳かどうかは、私なんかよりお千代さんご自身のほうが分かるのに」
千代が立ち止まった。
「・・血痰ってほどじゃないの。咳のしすぎで喉が切れやすくなっているせいだと思うわ」
(やっぱり血が混じっているんですね・・)
内心に一気に絶望感が拡がっても、
「じゃあ大丈夫ですね」
冬乃は微笑んでみせた。
きっと、うまく微笑むことができているだろう。
千代の瞳が少し揺れて、冬乃は咄嗟に目を逸らした、ことをごまかすために歩みを再開した。
(・・私は)
千代から、引き継いだ者として。
(私にできることをする)
覚悟ならば、もう。
「あの・・もしまたこれから熱をぶり返したりしたら使いを寄こしてください、すぐ飛んでいきますから」
千代が冬乃の斜め後ろで数度小さく咳をした音を、冬乃はやりすごした。
「じつは、病気のときの体の辛さを楽にする薬を持ってるんです。蘭方の薬なのですが」
「今、何て?」
聞き間違えかと驚愕するような声が追ってきて、冬乃は、そのまま再び横まで並んだ彼女を向く。
「私の実家は変わってる・・ってもう御存知ですよね」
冬乃は上手く伝えられるか分からないまま、言葉を探した。
「よく珍しい物を長崎まで行って買ってくるんです」
「・・・・」
狐につままれたような顔になっている千代を、冬乃は見つめ返した。
「よく効くらしくて、先日実家から大量に送ってきました。夏風邪でもひいたら辛いときは使えーって」
「あまりに大量なんです。余らせていても仕方ないですし、ね」
「・・・すごいわ。長崎まで・・」
「はい。我ながら変な家族です」
二人の前を横断するニワトリを避けながら、冬乃は苦笑してみせる。
こんな話で通じていいのか分からないが、素直に千代が感嘆しているところを見るかぎり、無事受け入れられたのだろう。
「お千代さんは風邪が治ったことを伝えに今日はわざわざ来てくださったのですか?」
適当なところで話を変えてみた冬乃に、千代ははっと長い睫毛を瞬いた。
「ええ。それと、お誘いに伺ったの」
千代がそのままふわりと微笑む。冬乃はその笑顔を前に、胸奥を刺したままの悲しみを押しやり、
「お誘い?」と首を傾げてみせた。
「ええ先日ね、酒井様からまた御土産をいただいて、」
千代が両手で大きく円を描き、こんなに一杯、と表現する。
「酒井様が御友人にも、と仰ってくださってたから、もしよろしければ冬乃さんもいかが?」
「あ」と千代が付け足した。
「山菜よ。一足先に秋の味覚」
「わあ・・っ」
歓声をあげてしまった冬乃は、すぐ恥ずかしくなって口を噤む。
「ね、素敵でしょ?」
そんな冬乃をにこにこと千代が覗き込んできて。
「でね、母と私で腕によりをかけてお料理するから、ご都合の良い日をいくつか教えてほしいの。酒井様もお呼びしたいと思ってて、日程の調整をさせていただくわ」
「そんな・・いいのでしょうか」
「だからお誘いしてるんですもの」
冬乃は、もう喜んで受けることにした。
(ええと、こういう時って何て言うんだっけ)
ごしょうなんとかだったような。
冬乃は唸りながら、その敬語が浮かばずじまいだったので、「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
「ふふ、楽しみだわ」
千代が明るい声をあげる。
「沖田様もご都合があえばお誘いしていいかしら。酒井様がお久しぶりに沖田様にお会いしたいって、先日仰ってたの」
(あ・・)
冬乃は顔を上げた。
きっと千代と沖田が恋仲であったなら、沖田はこうして酒井とも、もっと交流があったはずなのだろう。
「はい、声をおかけしてみます」
冬乃は見えてきた幹部棟を眺め、ふと今なら沖田が居るのではないかと思い出す。
「たぶん今いらっしゃいます、これから聞いてみましょう」
「まあ、よかった!」
千代の鈴声が返った。
沖田と冬乃の予定を千代が持ち帰って後日、連絡を寄越してくれることになり。
昼番に出る沖田と別れ、冬乃は今度は空になった近藤の膳を手に、千代を門まで送ってから、引き返す道中いまや雲ひとつない空を大きく仰いだ。
千代の小さな後ろ背を見送っているとき零れそうになった涙は、近くに居る門番の手前、懸命に耐えた。
この先、千代が少しずつ病魔に蝕まれてゆく姿を冬乃はただ見ていることしかできない。運命を知っていながら非力なままの己が、恨めしかった。
これからは、だが千代だけではない、
藤堂も、井上も山崎も、近藤も原田も、
そして最後に沖田も。冬乃は、彼らの死を見届け見送らなくてはならないのだから、
(強く、いなきゃ)
見上げている空が滲んで、冬乃は唇を噛み締めた。
(大丈夫・・・)
覚悟ならできてる
(そうでしょ・・?)
だから大丈夫と、心に繰り返し言い聞かせる。頬を伝い落ちた涙を払い、冬乃は再び歩き始めた。




