4.
千代がもらい病に罹っていると。
甘味屋への誘いに千代の家を訪ねた冬乃が、出迎えた喜代から聞かされたのは。五月も終わりの頃だった。
「・・て、え?」
慌てた冬乃を、さらに喜代の背後から出迎えたのは歩き回っている千代本人。
「寝てなくていいのですか?!」
「やだわ、」
少し青白い顔を苦笑させて、千代は招き入れた冬乃へ微笑んだ。
「母は大げさなのよ。私はこのとおり、なんとか元気よ。今もこれから患者さんのところなの」
「え、でも」
「もう冬乃さん、寝てるように言ってやってくださいな。この子、痩せ我慢が得意なんですから」
喜代がそう溜息をついてから茶の用意をと土間に向かうのを見送り、冬乃は千代の、お世辞にも元気そうとはおもえない顔色を覗き込む。
「もらい病って、患者さんから・・ですよね。何の病かは、わかってるのですか・・?」
「きっとただの風邪よ、ちょっと重めの。私なら多少の熱と喉の痛みがあるだけ」
「・・・」
冬乃は脳裏で咄嗟に、千代の発病時期と想定されるのはいつだったかと思いを巡らせた。
そして、今の時期である線は薄いはずだと。
本当に今回は、ただのもらい風邪かもしれない。冬乃は少しほっとして。
「でも熱まであるなら、やっぱりお仕事も休まれて、治るまでゆっくり休養を・・」
「ありがとう。ですけど今そんなわけにはいかないのよ」
即答された冬乃は。
胸に奔った一抹の不安に、息を呑んだ。
「今、労咳の患者さんもかかえているの・・貴女には散々避けるように忠告をいただいてながら申し訳ないのですけど・・でも私しか看てあげれる人もいないのよ」
ああ。
この時だったのだ。
冬乃は突き刺した痛みに震える心内で、茫然と千代を見つめた。
もしも、このとき千代が療養を優先していたら。
もしも、もらい病に罹らなければ。
もしも、その患者を看ていなければ。
もしも・・・・
(・・・きっとお千代さんが労咳に罹患したのは、このとき・・・)
人が選択を振り返って後悔するとき。
先に何を分かっていたなら、違ったのか。
その時には、まだ。
「お千代さん。貴女が今その体調の良くない状態で、労咳の患者さんに長く接したら、貴女が労咳を患うことになりかねません。どうか今は療養されてください」
―――知るすべもない。
「ほんとにね、私は労咳にならない体質なのよ。どうかもう心配しないで」
労咳は、この時代、傍に行けばうつるものと思われていただけで、
体内の免疫が落ちている時に罹患しやすいものという細かな知識など無い。つまり、
うつるのなら、もうとっくにうつっているはずで、
うつっていないのなら、うつらない体なのだと、
そんな方向に考える千代のような人も一定数いる。
この時代では致し方のない事。
「なら言い方を変えます、・・今、お千代さんがその患者さんと接していたら、必ずお千代さんは労咳にかかります。私は先の事が観えるんです、・・占いの家系なんです!」
冬乃は、いつかに安藤に使った台詞を最後に口奔った。
千代は目を丸くし。
次には、弾けるように笑い出した。
「やだわ、冬乃さんたら、突然何をおっしゃるのかと思ったら!」
「お千代さん、」
「蘭学も御家で習ってらして、そのうえ占いの御家系って、いったい冬乃さんの御家は」
「お千代さん、信じてくださいっ・・、」
冬乃は、必死に縋っていた。
「私が今お伝えしていることは本当に起こることなんです・・!」
「冬乃さん・・」
千代の困ったような声が返った。
「そんなに心配してくださるのはありがたいわ。でもほんとうに・・看ないわけにはいかないの」
「ですがっ・・せめてお千代さんが完全に快復されてから・・」
千代は首を振った。
「あの患者さんはご家族にも会ってもらえなくて、か細い体でご自分では何もできなくなっているのに、面倒をみる人が誰もいないのよ・・一日も放っておけない」
悲しそうに溜息をつく千代に、
冬乃は、言葉を失い。千代がその清い菩薩のような微笑みで冬乃を見返してくるのへ、胸奥の動悸で息を震わせた。
(お千代さん)
もう、避けることはできないの
その運命を
(山南様の時と同じ・・・)
深く強い意志。己の信じたものを貫くその生き方は、
未来を知る冬乃にも、変えることなど叶わない。
「・・・わかりました」
冬乃は震える声を必死に抑えた。
「私の杞憂である可能性は、まだ残っていますから・・・それでも・・もし、もっと熱が出たり、もっと喉がひどく腫れたり、・・そうやって悪化したら、やっぱりどうしても休んでいただきたいんです」
きっと、
「気をつけるわ。ありがとう」
冬乃の願いもむなしく、
千代は自分よりもずっと症状の重い、その労咳の患者を優先するのだろう。
「・・・そしてせめて以前にお伝えしたような事を守ってください・・」
「ええ、そうするわ。約束します」
千代が柔らかく微笑んだ。
「今日は来ていただいたのにごめんなさい。次こそはお出かけしましょう」
屯所への帰り道、冬乃は人目も憚らず、止まることのない涙を払い、
視界のぼやける道をもつれる足で歩み続けた。




