172.
小鳥の歌声に、冬乃はそっと瞼を擡げる。
瞳に映る、淡い朝光に褐色の肌。触れずとも見るからに硬く鋼の如き厚い胸が、
いま冬乃の目の前で穏やかに、ゆっくりと呼吸に上下して、
冬乃の背ごと覆うように首の下から頬にかけて添えられた、硬く丸太の如き太い腕は、反して優しく温かく冬乃を包み込んで。
あまりにうっとりと。冬乃はまばたきも惜しんで、瞳に映るだけのその狭い範囲の光景に見入った。
どうしようもなく、彼のすべてを好きなのだと。この今、区切られた範囲だけでさえも。
こんなとき冬乃はよけいに実感してしまう。
まだ、
恥ずかしすぎて、彼の顔を見上げることもできていないなかで。
起きているのかどうかも分からないものの、目が合ったら最後、
(だって今度こそぜったい噴火するっ・・)
昨夜の記憶は、それほど冬乃を夢でもうつつでも、すでに楽園に閉じ込めたままで久しい。
不意に、頭の後ろを撫でられて、冬乃はどきりと肩を揺らした。
(やっぱ起きてたんだ、・・って)
冬乃も目覚めていることに、
いま冬乃の髪を梳くように撫ではじめる手の主、沖田は、まさか気づいているのだろうか。
冬乃の姿勢は沖田の胸元へ殆ど顔をうずめるかたちで、沖田から見れば俯いていて、冬乃の表情まで見えないはずで。
なのに、まるで。
「…っ」
お見通しであるかのように。
撫でる手は今一度、冬乃の髪を攫った。彼の指に梳かれて、冬乃の長い髪がさらさらと宙に舞うのを感じる。
それだけ、なのに冬乃の心の臓はとくとくと高鳴りだして、
それを分かりきっているかの悪戯な手が。
飽くことなく。
幾度も。
(総司さ・・ん)
くすりと微笑う声が落ちてきて冬乃は、もはやきゅっと目を瞑る。
「どこまですると目覚めるかな」
「・・冬乃だぬき」
腕枕の腕でさらに沖田の胸元へと、冬乃の体は次の刹那に、抱き寄せられた。
(どこまでって・・!?)
そもそも冬乃だぬきと呼んできたということは、狸寝入りしているとあっさり見破られている。
(うう)
ぎゅうと抱き締められ頭の頂きに口づけを感じて、嬉しい悲鳴を内心あげながらも冬乃は、
この後に続くであろう昨夜のような愛撫に、どきどきと身構えた。
のだが。
「…んんっ…あ、や、ぁっ…!」
冬乃だぬきが鳴き声をあげるのは、あっというまだった。
「だめぇ……っ…やあぁもぅぅ…!」
くすぐり攻撃に。
冬乃は沖田の力強い腕一本に拘束されたまま、身を捩って逃げ惑うも。
「やぁあっそぅじさっ…あっ…あぁっ!」
ドSな彼の容赦なき攻撃は続く。
だいたい、冬乃のどこをどうくすぐるとこんなに冬乃にとってとんでもないくすぐったさを生むのか、こうまで沖田が正確に知り尽くしているのが不思議だ。
「おはよう、たぬきさん」
やがて、やっと手を止めてくれた沖田を涙目で見上げながら冬乃は、ついに合わせてしまった顔をやはり次の瞬間には、かあっと赤らめた。
噴火しなかっただけましかもしれない。
さっそく目を逸らしてしまう冬乃の、額には、ちゅっとわざとなのか恥ずかしい音をたてて口づけが降る。
(も・・もうぅ)
続いた、なおも音を響もしたままの口づけの嵐に。
沖田の腕のなかで冬乃は結局、最後には噴火寸前に顔から蒸気を出し。
「可愛い」
あげく沖田には、そのさまを揶揄われ。
「・・・どえす・・」
つい。声に出ていた。
「どえす?」
しまった、と思ったが勿論もう遅い。
「・・・・未来語です」
冬乃は腹を括った。
「どういう意味?」
「秘密です」
「・・・」
ぷん、とついでに冬乃は剥れてみせる。みせながらも、
本音は一連のこんなやりとりも沖田とできるのならば嬉しくて仕方ないのだから、しょうもないくらいに、
(私ってやっぱりドMか・・・)
認めるしかないが最早。
それにしても、
今回はくすぐりに応用されてしまったようだけども、
おもえば今までだって、沖田は冬乃のどこをどう触れば、冬乃自身でさえ知らなかった快感を生じさせることができるのか、まるで正確に分かっていた。
冬乃の体のことを、冬乃自身よりも沖田のほうが知っているのではないかと。
そんな気がしてならない。
冬乃はといえば、なのに沖田の体のことをそこまで知っている自信など全く無い。
「総司さん・・」
冬乃は。
衝動的に呟いていた。
「私に、前に総司さんがしてほしいけど時期尚早って言ってたこと、残りぜんぶ教えてください」
「・・何いきなり」
どうしたのかと微笑う沖田に冬乃は、懸命に真剣な眼差しを送る。
(だって)
昨夜も、また自分ばかりあんなにいろいろしてもらって。
早く返せるようになりたいのに、冬乃のほうは沖田の体のことを知らないままでは。
見つめ返してきた沖田が、ふっとその目を眇めた。
「あいかわらず、誘惑するねえ・・」
(ゆ)
そういうつもりでは。
冬乃は慌てて訴えた。
「ただっ、・・総司さんのこと、もっと知りたいんです・・!」
冬乃の見つめる前で、沖田がどこか苦笑まじりに哂った。
「だから。そういうのが誘惑なんだが」
「え」
「いいよ、有難く教えてあげる」
悪戯な笑みが沖田の眼に灯った。
「たっぷりね・・」
冬乃は、のぼせていた。
過去最大級に。
「すまないが冬乃さん、この書簡を」
あれから、いろいろと。
たっぷり教えられて新たな世界を知った冬乃は、
しかもそのまま沖田に、我慢できなくなったと最後には押し倒され、
「冬乃さん・・?」
心も魂も。いや、きっと躰までも。
もう今朝までのひとときに、完全に置いてきぼりのまま。
今や、ぬけがらの冬乃になり。
「冬乃さん、大丈夫か・・?」
顔の前で手を振られて、冬乃ははっと目の前の近藤を見返した。
「ご、ごめんなさいっ何でしたか?」
少しだけ開けられたままの障子の向こうで、風さえ起こさぬ静かな雨が続いている。
時おり軒先を弾く粒音以外にはその存在を主張せぬ薄灰色の外を背に、近藤が四角い顔を心配そうに悩ませた。
「どこか具合が悪いのなら、今日は休んでくれていいんだ」
「ちがいますっ」
冬乃は、
「大丈夫です元気です・・!」
焦って返すも。
嘘もいいところ。
一寸先にはきっと、再びぬけがらになるだろう。
「しかし・・」
(ごめんなさい近藤様)
恋の病、
いうなれば、病気には違いない。
両想いでも患うとは、知らなかったものの。
「あの、もう一度ご指示くださいませんでしょうか。聞き逃して申し訳ありません」
「・・では・・」
困った様子のまま近藤が頷いた。
そうこうするうち昼餉の時間になり。結局散々な己の仕事ぶりに落ち込みながら冬乃は、
自分はまだやることがあるから昼食はお先にと勧めてきた近藤を残して広間へ向かう。
しょんぼり廊下を歩んでいると、広間のほうから何やら歓声があがった。
昼餉の用意でまだ使用人たちが往来しているさなかである。冬乃は何だろうかと、まもなく辿り着いた広間を覗きこんだ。
(あ・・!)
広間の奥で歓談している隊士達の中に一瞬で愛しい姿を見つけて、冬乃の瞳は一気に輝いた。
「組長、強すぎっすよ!」
「碁まで強いって、どうなってんすかもうっ」
「当然だろ、あのオニ副長に散々鍛えられりゃ」
「え、副長仕込み!?」
「そこ先、オニ否定するところ」
「あ、すんませんっ」
沖田と一番組の若い隊士たちが碁盤を囲んで爆笑し。
そのさらに周りを残る一番組の隊士や、昼餉の時間でやってきた様子の他隊の隊士たちも囲んで笑っている。
輪の中心に坐しながらも大柄な沖田は広間の入口からでもよく見えて、
冬乃はつい立ち止まったまま、どきどきと見つめた。
「飯にするか」
その沖田が大きく伸びをするなり、解散を宣言し。
一番組は夜まで非番だと、今朝沖田が言っていたことを冬乃は思い出す。
きっと皆で稽古を終えた後、昼餉までに空いた時間で碁を始めたのだろう。
次々と立ち上がる男達が、冬乃に気づいて会釈を送ってくれる中。
勿論すでに気づいていたであろう沖田が、冬乃にその双眸を愛しげに合わせてまっすぐ向かってきた。
(総司さ・・)
ただ近づいてくるだけなのに。どんどん冬乃の鼓動は増してゆく。
冬乃は入口で棒立ちしたまま、やがて目の前まで来た沖田を見上げた。
心臓が激しすぎて苦しい。
今朝まで一緒にいたのに、また逢えたことへの強烈な歓びでもう、冬乃は眩暈がして。
「・・・重症だなこれは」
「え」
冬乃の恋わずらいを一瞬に見破られたのかと思いきや。
「俺の冬乃わずらい、がね」
ぼそりと沖田が呟いたので、
冬乃は、びっくりして目を瞬かせた。
今朝まで裸でいた彼女を目の前にし、いま此処がどこかなんぞ憚らず抱き包めたくなる衝動を、沖田は咄嗟に抑え込んでいた。
まるで、何も纏わぬ彼女がそこにいるかのように。
沖田は一瞬、まじまじと、冬乃が確かに服を着ていることを確認してしまった。
「総司さ…」
いや、重症なのは。
(冬乃も、・・か)
潤みきった瞳。
また熱でもあるかのように紅く色づいた頬に濡れた唇、細ぎれの乱れた吐息。
そして、ふらつくほど心もとないその立ち姿。
閨からそのまま抜け出してきたかの、この状態で、まさか今まで仕事をしていたわけではあるまいに。
「冬乃」
沖田は。言い訳を得たことにし、
危なっかしい冬乃の体を両手に支えた。
「大丈夫か」
同時に周りに聞こえぬよう彼女の耳元で囁けば、
目に見えて更に発熱した顔が、慌てたように俯いた。
(もう・だめ)
沖田を目の前にした時から、体中で動悸まで始まって血が沸騰しそうなところに、さらに耳元で低く囁かれて、
くらくらと、冬乃は支えられていなければ崩れ落ちただろうほど目の前が揺れて慌てた。
咄嗟に、熱くなりすぎた顔を俯かせて隠したけども、きっとしっかり見られてしまっただろう。
沖田は冬乃わずらいと言ってくれたが。
冬乃の“沖田病” は絶対、その比じゃない。
沖田に手を引かれながら、膳の前に無事に座ったものの、
これは食事が喉を通らないことなど容易に予測出来て。
(はあ・・・)
冬乃は心中、盛大な溜息をついた。
(総司さん)
隣にいるのにこれ以上、近づけない。
本当は人目なんて憚らず今すぐ抱きついてしまいたいのを、冬乃はたわいもない会話で懸命にごまかす。
沖田を傍に感じていられる、この確かで多大な幸福感と、なのに同じ程いま、
このかえって生殺しの状況にもがいてもいて、
一向に食事が進まないままの冬乃を心配した沖田からは、今夜ゆっくり休んでと挙句最後に耳打ちされてしまい。
早くも寂しがる自分へ冬乃は、どちらにしても今夜彼は仕事なのだからと、必死に言い聞かせながら、
食後の膳を手に厨房へ向かうと。
「冬乃はん、あんさんの感謝の気持ちはよう伝わった。今までおおきにな。もうそろそろ手伝いに来てくれへんでええんのや」
冬乃の顔を見るなり、ひどく心配そうな顔になった茂吉が、
「まだ体調良くないんとちゃうか・・そないに無理せんと、また風邪ぶり返さへんようにしててな」
そんな言葉をかけてきた。
「・・・」
恋の病だろうと、きっと病は病だけれども。こうも周りに心配や迷惑をかけるほどなのかと、
もはや冬乃はがっくりと項垂れる。
幸せすぎて“病気” になるなんて罰当たりすぎではなかろうか。
と思っても。
この病状を改善する方法なんて、ひとつしかないに決まっていて。
(総司さんの腕のなかにいること・・)
なのにその“薬” の彼は、今夜いないなんて。
(もう・・・)
まさか、
この世で最も叶う限りに近づきたい
その願いがやっと叶ったら今度は離れている間に、これほどの苦悶が襲ってくるなんてことを。
昨夜までの冬乃に、いったいどう想像できただろう。
麻薬みたい
冬乃は胸内に呟く。
いっそ笑ってしまうしかないほど泣きたくなって。
(これで数日も離れてたら、もう、どうなっちゃうの)
「総司さん……」
おもわず声に出てしまい。冬乃はますます項垂れた。




