166.
ついに梅雨が来たようだ。
土方は今しがた開け放った障子の向こう、無音におちる水の、幾すじもの線をぼんやりと眺めた。
けだるい気分なのは、べつに梅雨のせいではない。
(・・あいつらだったら、毎日たのしくて仕方なさそうだな)
ふとそんな想いが浮かんで。土方は苦笑した。
勿論、沖田と冬乃のことである。
先日に遭遇したあの二人のやりとりから察するに、女の介在によって冬乃の側が嫉妬に駆られるような出来事でも起こったのだろうが、
みるからに溺愛し合っている二人には、それも雨降って地固まる結果にしかならなかったようだ。
(にしても)
女のほうは、後で聞けば江戸の豪商の娘だったというではないか。
これまでも期せずして、新選組が町で豪商の人間を助けたことならばある。その時は組への献金にこぎつけた。
(・・今回だって、女が総司に惚れてさえいなきゃな・・)
沖田がどこまで女の側の気持ちに気づいたのかは知らないが、土方に今回の件で何ら組としての対応を確認してこなかったということは、女に関わりすぎると面倒な事になりそうな勘がはたらいたのだろう。
(ああ、もったいねえ)
女を助けたのが沖田ではなく、組の他の人間であったならよかったのにと。
土方は、どうしようもない溜息をついた。
昔からどうも、あの男はもてる。
しかもどっぷり惚れられて、面倒事になったのは一度や二度ではない。
女が交際を断られた嘆きで、自刃しかけたことさえある。一命をとりとめたから良かったものの、あの一件以来、沖田が女との関わり方に、より慎重になったのは言うまでもなく。
それまでにも、たとえば互いに軽いつきあいだったはずの男持ちの女が、結局は沖田に惚れこんで別れを受け入れず、次の女と白昼とっくみ合いの喧嘩になりしょっぴかれる、なんて事ならば茶飯事で、
ある女は、沖田と歩いていただけの女をつけまわして濁流の川へ突き落したり、呑み屋で一夜話しただけの女が、家財を売り払ってこの金で一緒に暮らしたいと沖田の元へ飛び込んできたりと、
土方が知っているだけでも、これまで沖田に惚れこんで狂った女の数は、同じ惚れこみ様でも引き際のよかった良い女達と同じ数ほどもあり、こうして思い出してゆけばきりがない。
優しいからでは説明のつかない、何かとんでもなく女を惹きつけるものをあの男は持っているのだろう。
(ま、俺ほどじゃねえけどな)
土方は継ぎ足しつつ、回想を続ける。
そう。さらなる昔を思い返せば、
初めて廓へ連れていった先で奮発してあてがってやった太夫に、いたく気に入られ、身銭をきって呼ばれていたこともあった。
あのころ未だ元服前の、図体だけ一人前の少年が、百戦錬磨の太夫に身銭をきらせる珍事はいやでも目立ち、いっとき界隈じゃ有名になったものだ。
あの時だって、本気になった太夫と後々手切れさせるのが大変だったなと、土方はそこまで思い出し。
ふっと今一度、溜息をついた。
玄人の女でさえ、こうなのだ。自刃の一件以来、もはや玄人の女でなければ尚さら相当な距離を保って接するようになっていた沖田を、
変えたのは。唯一、あの冬乃なのだと。
(・・・ったく、世の中うまくいかねえな)
利用できるものは利用する。そういう割り切りのある土方からすれば、むしろ豪商の女のほうにこそ、縁があってもよかったものだと思ってしまう。
今、組は喉から手が出るほど金を要している。
尤も、組だけの話ではない。京阪に滞在を続ける幕府軍の、どの家中でも財政は傾き、ますます戦どころではなくなっている。
今は打ち出の小槌となる存在が、いくらあっても足りないほどなのだ。
これで本当に開戦にでもなれば、近藤が心配しているように幕府側が敗北しかねないというのに、
今さら引くに引けない幕閣の、万策尽きて期限が迫るを唯待つのみの救いようのなさに、土方はもう長く不安を拭えずにいる。
(この世情、取り返しのつかねえことにならなきゃいいが)
(・・って、)
土方は、ふと。
(あいつだって、一応使えるじゃねえか)
思い出した。
え?
冬乃は顔を上げた。
あまりにも珍しい来客に、いまの名乗り声を聞き間違えかと疑う。
(ほんとうに・・土方様?)
冬乃は怖々と、障子のほうへ歩み寄った。
「近藤さんから休憩中だと聞いてな。そんなところ悪いが、おまえに聞きたい事がある」
冬乃が障子を開けるやいなや、確かにそこに居る土方が早口に用件を述べた。
「・・・」
冬乃が近藤の部屋に戻るまで待たなかったということは、近藤にはできれば聞かせたくないような話なのか。
冬乃は強張った。
(総司さん・・との事?)
何を言われても、抗う勇気を奮い立たせようと。冬乃は身構える。
「この先、開戦しちまうのか?」
だから、飛び出てきたその言葉に。
冬乃は一瞬、思考が止まった。




