162.
いつの頃までは、朝起きればこれから始まる今日という一日に、心躍らせていただろう。
(もう思い出せもしねえ)
土方は煙管の灰をコンと一つ叩き落とし、溜息とともに煙を吐き出した。
今じゃこれだ。
“もう朝が来ちまった”
もっと寝かせてくれ。朝が来るたび、夢とうつつの狭間で土方は呟く。
できればずっと寝かせてくれ、いや、いっそ覚めないでいいと。
「疲れてるんだよ、歳は」
煙の向こう、近藤が苦笑を滲ませている。
「煮詰め過ぎなんだ。たまには道場で無心に体を動かして気分転換をしたほうがいい」
まあ俺も最近じゃ人のことを言えたもんじゃないがな
と近藤は、はははと大口で笑い足した。
「まあな」
土方は、まだ今朝から片づけぬまま置きっぱなしの湯呑を視界の端に映す。
自分で煎れる毎朝の一杯。
会津中将から今年も賜った玉露の、馥郁たる香りを朝かならず嗅がないと、もはや生きていけない気がする。改めてそう思えば、土方は嘆息を通り越して失笑した。
まさに朝の気付けの一杯というやつだ。
「どうだ、歳。今から道場へ行かないか」
最近何かにつけて土方の部屋へとやってくる近藤は、そうして二回に一回は道場に誘ってくる。近藤からすれば、部屋に籠りきりで仕事に明け暮れる土方が心配でならないようだ。
そのたび忙しいからと断ってきた土方だったが。
「・・・・ああ。いいかもしれねえな」
今日は。何故かそんな気分になった。
このところ梅雨入りを間近にし鬱陶しい空模様だったのが、今日はからりと晴れているせいもあるかもしれない。
「歳・・!」
「もう何度も声かけてもらってるしな」
その四角い顔で目一杯に破顔する近藤に、土方はにやりと笑い返した。
冬乃は、とぼとぼと道場に向かっていた。
先の来客二人は、組の応接間へ通してある。
今時分、沖田は道場で隊士達に稽古をつけているはずだった。
(会わせたくない・・)
こればかりは女の勘、としか言いようがない。彼女は、沖田に気があるのだろうと。
勿論、沖田のほうは彼女になびくはずなどない事ならば、分かっている。
こんなに愛されている身で、彼の心を疑う想いなんて湧きようもないのだ。
それでも。
(いやなものはいやなんだもの)
空は晴れわたり。こんなにも煌びやかなのに。冬乃の心内は激しく曇天模様だった。
「お、冬乃さん、どうしたよ?」
道場の開け放たれた戸口に立っている永倉が、冬乃にすぐに気がついて顔を向けた。
「総司さんに来客が・・」
冬乃は会釈しつつ、口奔る。
「総司に来客?」
突然背後から聞こえた近藤の声に、冬乃は驚いて振り返った。
さらに驚いたことには、近藤の隣に稽古着姿の土方がいる。
「土方さんじゃねえか!その恰好、久しぶりに見るな・・っ」
永倉も驚いた様子で、冬乃の後ろで声をあげた。
うるせえよ、と言いたげに土方がそっぽを向く横で、
「総司に来客とは?」と近藤が冬乃に説明を促す。
「詳しくは私も・・、総司さんが以前に町で助けた女性とそのお供の方とのことです、御礼にいらしたようで・・」
冬乃の答えに。まさに三者三様、永倉は興味深そうに身を乗り出し、近藤は感心したような顔になり、
土方は。
「・・・クセのありそうな女だな」
眉を顰め。持ち前の勘で、見事に言い当てた。
「わざわざ礼に来たなら、義理堅い良い女性じゃないか」
土方の物言いに、近藤が苦笑で返すも。
「いや、そうはいってもこっちは新選組の荒くれ集う男所帯だぜ、」
永倉がにやりと哂う。
「女の身で礼をしてくるなら、文かせいぜい贈り物じゃねえか。俺だってこれまで助けたなかで、訪ねて来る肝っ玉のあるのはさすがにいなかったぜ。変わった女なのは確かだ」
「ようするに総司に惚れたんだろ」
土方が言いきって、フッと鼻を鳴らした。
(だよね、やっぱり・・)
「おめえも馬鹿だな、ンなもん門前払いしてやりゃあ良かったじゃねえか」
冬乃は返事の代わりに、どうしようもなさげに眉尻を下げてみせる。
「で、今は応接間か?」
土方の追わせてきた問いに、冬乃はハイと頷いた。
「向こうで総司が今も稽古つけてるってこたア、つまりその女は総司に先に知らせもせず、突然来たってことだろ。待たせとけ」
(え)
言うなり、話は終わったとばかりに道場へ上がってゆく土方の背を見上げて、冬乃は困惑のままにおもわず近藤を見た。
近藤が視線を受けて、冬乃に同じく困った様子で微笑いを返し。
「まあ、歳の言うことも尤もだ。総司が稽古を終えるまでは、その方には待ってていただこう。貴女もまだ茂吉さんの所から戻って休憩を取っていないんじゃないか?自室でゆっくりしていてくれ」
冬乃は近藤の優しいはからいに頭を下げつつも、
本当に取り次いでくれたのかと疑って怒りだしそうな彼女を想像し、ますます眉尻を下げる。
「沖田が稽古終えたら、俺のほうから伝えとくよ」
その言葉に顔を上げた冬乃に、永倉がにかっと笑った。
遅くなる旨くらいは伝えねばと、冬乃は茶を用意して、応接間に戻った。
「あんた、ほんとに取り次いでくれたの?」
沖田はまだ手が離せないと、冬乃が伝えてすぐ、疑惑の眼差しを飛ばしてきたお鈴に。
冬乃はやっぱり、と嘆息する。
「はい、・・どうかお待ちください」
「信じて大丈夫かしら」
どうも疑ったままの彼女に、冬乃はどうしたものかと押し黙った時。
「だって、あんた沖田様と私を会わせたくなさそうだもの」
的確な矢が、冬乃に命中した。
(バレてるし・・・)
「そんなことアリマセン」
冬乃は懸命に平静を装うも、これもばればれだろう。
「あんたどうせ沖田様に懸想でもしてるんでしょ」
やはり、完全に暴かれている。
「よくそんなみすぼらしい恰好して、好きな男の周りにいられるわね、ありえないわ」
「お嬢様、はしたないですからもう御止めに」
「おまえは一々うるさいっての!」
(もうやだこのひと)
冬乃は逃げ出すことにした。「それでは失礼します」と茶を運んできた盆を手に取り、立ち上がるなり回れ右をし。
「待ちなさいよ、話はまだっ・・」
待たずに。
小走りに逃げきった。




