153.
よろこんで覚悟、したのに。
どういうわけか冬乃たちは今。道場に居た。
それも別の意味での覚悟が、求められるひととき。否、沖田はもしや端から、この意味で言ったのかと。もはや冬乃は訝ってしまうほどに、
「冬乃は、ここが弱いようだね」
そんな台詞なら、つい先程の押し入れのなかでも聞いたはずなのに、あの甘いひとときとは、
そして前回の稽古とは、
真逆の。
沖田からの攻撃の、連続で。
しかも全てが、寸止め。
「…っ」
あいかわらず、どこも打たれてはいないというのに、心はビシバシと、打ちのめされている冬乃で。
「それに、そこの守りに入ると冬乃は必ず、ここに隙が出来る」
立て続けに繰り出される的確な打ちと的確な指摘。平成の世において、もはや伝説の剣豪沖田総司からの、こんな指南なら、剣道求道者にとっては大金を積んででも受けたいものだろう。
もとい。平成でなく、この幕末の世においては尚更だが。
(い。いいんでしょうか・・)
道場で、先程からずっと沖田を独り占めしていて許されるのだろうかと、
今日沖田は非番なのだから、冬乃がそれを気にする必要がないとは分かっていても、もうずっと皆の注目を浴びているのも感じている冬乃としては、居たたまれない。
「冬乃、」
ヒュッと空気が啼いた。
「考え事は後で」
ぴたりと、冬乃の胸前で突きが停止し。寸止めと分かっていても、一瞬、打たれたような錯覚に息が止まる。
「・・はい、ごめんなさい」
「ここまでの流れをもう一度やる。次は隙をつくらず避けてみて」
「はいっ・・」
冬乃はつたう首元の汗を手の甲に拭った。
周りに恐縮していても仕方ない。第一そんな余裕なんて、またすぐに無くなるのがおち。
「・・お願いします」
沖田だけを見据え、そして冬乃は構え直した。
「女には甘い、をあいかわらず貫いてるな」
前回の稽古の時には不在だった永倉が、目を丸くしてやってきた。
「あんなに沖田が優しく手取り足取りの指導するの、初めて見たよ」
(あ・・)
手拭いで滝のような汗を幾度もぬぐいながら冬乃は、息一つ乱していない沖田をおもわず見上げる。
確かに厳しく大変だったとはいえ、今回も常に優しさを感じられる指導だった。
「やろうと思えば、出来るんじゃねえかよ。野郎にもああいう指導してやれよ」
「冬乃相手だから出来るに決まってるでしょうが」
即答で拒否する沖田に。
「ぶは」
同じく傍まで来ていた原田が失笑した。
永倉もそんな返答は予想していたようで、肩を竦める。
「しかし冬乃さんも遣えるとは聞いてたが、想像以上で驚いたよ」
(わ)
そして永倉に褒めてもらえた冬乃は、
「ありがとうございます・・!」
感動して大きくお辞儀してしまった。
「じゃあ風呂いこうか」
そこへ突如降ってきた沖田の声に、冬乃は今度は驚いてがばっと頭を上げる。
(おふ、ろ)
それは必要でも、
今の言い方はまるで。
「おい、おまえらまさか一緒に入る気?」
(やっぱり・・っ・・・そう聞こえたよね?)
「ええ。今から貸し切りするので、入ってこないように願います」
「・・・・」
こんなに堂々と宣言して大丈夫なのか。
焦って辺りを見渡した冬乃の目には、さいわい土方は映らない。だが、先程叱られたばかりだというのに、これで見つかったらどうなるのだろう。
「そ、総司さん」
狼狽える冬乃に邪気たっぷりに微笑み返した沖田が、早くも戸口へ向かい出す。
慌ててその背を追いかけながら、そして背後に唖然とした永倉達を残しながら。冬乃は、妙な緊張と歓喜に襲われ、激しく高まる心拍を聞いた。
互いの着替えを取りに戻って、共に風呂場へと向かう道すがら。
さすがに体を洗いながらでは、押し入れの時のように猿轡をされるわけにもいかないと思うのに、もし声が響いてしまったら。
などとあれこれ心配していた冬乃は、
ふと、まるで“不健全なコト” をするのを前提で心配している事に、気がついた。
(て。・・なに考えて・・っ)
ただ一緒にお風呂に入るだけ、
かもしれないのに。いや、勿論それだけでも十分おおごとではあるものの、
それ以上の事まであれこれ考えて、思えばこのところ自分がそんな状態で留まるところがないのだと、
改めて思い知った冬乃は。次にはすっかり呆れて、がっくり項垂れてしまった。
冬乃が大変なことになっていると、知っているのかどうか、
沖田が風呂場の前に辿り着くなり、繋いでいる冬乃の手をぐいと引き寄せる。
(きゃ)
そんな、いちいち冬乃の心臓に悪い沖田の、もう片方の手は着替えを握ったままに風呂場の戸を開けて、
そうして冬乃が引かれて雪崩れこむように入った脱衣所には、すでに湯気がほんのり満ちていた。
いつのまに風呂が沸かされたのだろう。驚く冬乃の、背後へと沖田が手を伸ばし、今度は戸を閉める。
目の前に迫った沖田に冬乃は、再びどきりと心の臓を跳ねさせて見上げれば、
「藤兵衛さんに頃合いをみて沸かしておいてもらった」
と冬乃の手をそっと離しながら沖田が、冬乃の疑問をやはり分かったらしく応えてきて。
いつのまにとますます驚く冬乃の前で、そしてさっさと稽古着を脱ぎ始めた。
当然に慌てて目を逸らす冬乃へ、
「冬乃も脱いで。風邪ひくよ」
促す声が追ってくる。あいもかわらず、揶揄うように。
何度も裸になっていて、まだ慣れないのかと言いたげに。
(・・だって)
相手が冬乃の恋してやまない沖田なのに、慣れるわけがないではないか。慣れるどころか今なお、日に日に更に好きになって果てすら無いのに。
沖田から視線を逸らしたきり脱ぐ手が滞ったままの冬乃を、やがて更に近づく沖田の影が覆った。あ、と思ったときには冬乃の襟内へ、大きな手が滑りこんで。
「よほど、俺に脱がしてほしいようだね・・」
絶対そんなつもりじゃないことなんて分かってるくせに、するすると冬乃の道着を脱がしながら耳元で囁く沖田の、
意地悪なその台詞に冬乃は顔を赤らめ。そしてもう、されるがままに。
ぱさりと。
最後の一枚が足元へ落ちた時、もはや視界を遮断中の冬乃の瞼は、開けなさいとばかりに口づけられ。
冬乃は、観念して瞼を擡げた。
すぐに目の端に飛び込んできた褐色の肌から、だが冬乃はすぐにまた視線をずらしてしまい。
冬乃の手が次には攫われても、顔すら前に戻せないまま冬乃は引かれて、
恥じらう冬乃に合わせるようにゆっくりと歩み出してくれる沖田に続き、洗い場の板敷きを踏みしめた。
傾斜を踏み越えて、
そっと、冬乃は湯気のたちこめるなか。漸く沖田の大きな背を見上げる。
再び目に映る彼の褐色とは対照的な、湯気の濃厚な白霧に、
格子窓からは、昼光の粒線が差しこんでいて。
(あ、・・)
その散りばめられた光の世界は桃源郷さながら、
優しく引かれるこの手のように、
煌めく湯気の揺れるさまのように。
ゆったりと。時までも、此処では穏やかに、流れゆくかのようで。
冬乃は、小さく吐息を零した。
沖田に導かれて腰掛けに座る。
伏し目がちになる冬乃を離した沖田の手は、掛湯の温度を確かめると桶を取った。
湯が汲まれ。淡い光のなかでそれは冬乃の肌のうえをきらきらと滑りおとされてゆく。
ゆっくり、此処に流れる時に、
溶け合うように。
「ン……」
再び零れた冬乃の吐息は、そっと口づけで塞がれ。
夢見心地に目を閉じた冬乃は、沖田の温かな腕のなかへ抱き寄せられた。
剣を扱う、分厚く硬い掌の感触が。それでいて今、壊れものでも扱うように驚くほど優しく、冬乃の背をゆっくりと撫でおりて。追うように、ふたたび掛けられてゆく温かな湯は、瞼を閉じていてもほんのり明るい桃源郷の夢幻にまるで迎え入れるように冬乃を包みこむ。
うっとりと、
やがて離された唇に冬乃は、瞼を擡げた。未だ、楽園の内を漂っているような恍惚感で。よほど蕩けた瞳を向けてしまったのだろう、耀う白霧のなかで沖田がくすりとその口角を上げた。
「風呂に浸かる前から、」
のぼせたように染まる冬乃の頬を。背より移動してきた沖田の大きな手が、ふわりと覆う。
「体じゅうこんなに熱いんじゃ、水でも持ち込むべきだったね。これは長居できそうにない」
(・・え)
冬乃が倒れなきゃいいが、と苦笑する沖田の言葉を冬乃は、一瞬きょとんとしてしまってから反芻する。
なるほど稽古の汗を流しに来て、来る前に一度水なら飲んだとはいえ、
ただでさえまた湯船でも発汗するのに、すでに今からこうも熱のあるさまに、脱水症状にでもならないかと心配されても当然だと。
今朝からの沖田とのひとときに、まさに“のぼせて” こんなにも体が発熱してしまっているのだと思うと、もはや恥ずかしさで冬乃は余計に頬が熱くなる。
「・・・にしても熱いな」
冬乃の頬を包んだままに、つと沖田が訝しげに呟いた。
「本当に熱があったりしないよな」
「え」
「風邪でもひいたか・・?」
これまで。冬乃が肌に情慾の熱を帯びることなんて、もう数えきれないほど多々あったのだ。沖田も当然それゆえの熱だとばかり、思っていたはずで。
「いえ、」
今なお火照った顔で冬乃は、慌てて首を振る。
「風邪ではないとおもいます・・」
つまり沖田とのひとときのせいだと、
もはや口に出して認めているようで恥ずかしさの増した冬乃は、心配そうに覗きこんでくる沖田から、咄嗟に目を逸らした。
「・・だが、病で無しに、ここまで熱くなるものか?」
続いたその言葉に、余計に頬から火が噴くも。
「先程よりも熱いように思うんだが」
(そんなに、熱いですか)
自分でも多少不安になってきて冬乃は、戸惑った瞳で沖田を再び見上げた、
瞬間に、こつんと沖田の額が冬乃の額に当てられ。
(ひゃあぁ)
「・・・」
(あ、ぁあの)
もはや押し黙った沖田の。
額が暫しのち離された、と同時に、立ち上がった彼によって冬乃の腕は静かに掴まれ、
あまりに緩慢な動作でゆっくり引き上げられた冬乃は。
(・・え)
それなのに生じたふらつきに。次には驚いて。
まさか本当に
疑念が脳裏をよぎった刹那、
冬乃の両脚は沖田の腕に攫われ。そのまま冬乃の火照る体は抱き上げられた。
「今日は寝てなさい」
・・・どうやら。風邪と確定されたようだった。




