140.
帰ってくる、それは言ってみれば、
ふたりの家に。ということを強調している響きで。
(嬉しい・・っ)
つい微笑んでしまったのだろう、沖田が微笑み返してきた。
「冬乃さん、」
そこに、やはり襖の向こうに居たらしく井上の声がして。
「すまないね・・勇さんは、今夜の護衛は総司に頼むのを遠慮すると言ったんだが、歳のやつが・・」
どうやら近藤は気遣ってくれたのだろう、だが土方が押し通したといったところか。
「いえ」
襖の向こうの井上へと届くように声を上げて返しながら、冬乃も内心で土方に賛成する。
これまでも近藤には何度かあった。急遽、上から呼び出しを受けて会合へ出席するといった事が。
そんな時は、沖田が護衛として、
そして沖田が夕番や夜番の日で、どうしても急すぎて巡察の組を他に振り替えられない場合は、屯所に居る腕の立つ幹部が同行していた。
冬乃は思う。きっと土方なら近藤にこう言ったのではないか。
今夜、万一あんたに何かあったら総司は悔やむどころじゃねえし、あいつを呼ばなかった俺のことも許さねえだろ、と。
(私も総司さんにそんな想いはしてほしくありません)
近藤の死期は未だ今では無い。だが、怪我となると、記録に無いだけかもしれず。
死に至る重症の怪我もまた起こらないとはいえ、他のどんな事があるかまでは分からない。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
つい冬乃は畏まって、沖田へと頭を下げた。
「・・いってくるよ」
穏やかな優しい声が、返ってきて。冬乃が顔を上げると、その声の通りの表情で目を合わせてくれた沖田が、一寸のち背を向けて出て行った。
その背を見送った冬乃は、もし沖田が早めに戻った場合のためにも、少し多めに夕食の食材を買い出しに行こうと、あれこれ考え始めた。
この界隈は野菜を売り歩く女性の行商も多い。
夕食の準備がなされる時間帯のおかげで、干物を担いでいる行商とも出会えて、ひととおりの食材を難なく揃えることに成功し、
冬乃はそれらを風呂敷に抱えて少々ふらつきながら帰ってきた。
沖田の存在さえ周囲に気取られずにいられるかぎり、道ゆく行商人に家にまで来てもらってもいいのだが、彼女たちと話し込んでしまうのもそれはそれで避けたかった。
そこで往来まで出ていって購入するほうを選んでみたのだった。やはり道の真ん中なだけに、それぞれの行商人とは手短な会話で済ませることが出来たので、正解だったようだ。
(お風呂も焚かなきゃ)
広い台所に食材を並べながら、冬乃はどうしても顔がにやけてくる。
なんだか早くも沖田との結婚生活をしているようで。
それにしてもこうして江戸時代での生活の準備ができるのも、使用人をしていたおかげなのだから、そのきっかけをくれた沖田や土方、あれこれ教えてくれた茂吉たちに感謝してもしきれない。
(ん・・)
起きがけの倦怠感が納まっていることに、体を自在に動かしていた冬乃はふと気がついた。
夕方までいつのまにか少し寝ていたおかげもあるかもしれない。
同時に冬乃はふたたび、昼間の沖田との濃厚な時間を想い出してしまい、誰もいないのに一瞬つい顔を覆った。
(倦怠感とか)
冬乃の此処での体はこうして、この世界にこんなにも如実に存在しているというのに、
どうしてこれに住まう精神・・心までは、受け入れてもらえないのだろう。
(魂は・・?)
冬乃はおもわず、まな板と包丁を取り出そうとした手を止めた。
(・・・そもそも)
千代から受け継いだかの魂はまるで、冬乃の心を操って、
そして冬乃の心は、この借りものの体を操って。
そして、ときに逆転し。体が、体感が、心を操ってきた。
でも魂は。
(決して私の心にも、この体にも、操られることは無い・・・てことだよね)
「・・・・」
冬乃は混乱してきて。
やがて諦めて思考を停止させた。
(ごはん)
いいから、ごはん作ろう
冬乃の “心” は、自身の “心” にそう命じると。気持ちを準備へと集中させ、ふたたび手を動かし始めた。
(あ・・)
ガラガラと引き戸が鳴る音に、冬乃は玄関のあるほうへ顔を向けた。
奥の部屋に居る冬乃からは勿論、玄関が直接見えるわけではないものの。
(総司さん・・・だよね・・?)
尤も、玄関から堂々と入ってくる泥棒も、そういまい。
いや、虚をつくという手かもしれない。
灯りのついた家に玄関から入ってくるはずもないだろうという、人の先入観を盾に。
冬乃がそう疑ってみる理由はあった。
沖田が帰ってくるにしては、まだ夜を迎えてから浅すぎるのである。
「・・・」
冬乃は念のため、そろりと立ち上がる。
押し入れへと向かうべく。
沖田が用意しておいてくれた木刀は、先刻、下の段に在るのを確認済みだ。
「冬乃」
(あ)
押し入れの戸を開けかけて響いた沖田の声に、冬乃はほっとして手を止めた。
「ただいま」
まもなく沖田が庭側の部屋から入ってくる。
「おかえりなさい・・!」
冬乃はつい声が弾んでしまった。
「会合が早く済んでね」
上着を脱ぎながら沖田が言い添え、
「あの・・っ」
そんな沖田を冬乃は、どきどきと見上げた。
(あ、あれを・・・言ってみたい)
「どちらが、いいですか、」
(べつに、言っても大丈夫だよね・・?)
「お風呂にしますか、」
内風呂は珍しい江戸の時代、
この有名な“新婚三択” なる台詞のセットは、まだ存在するはずがないのだ。
だから、言ってもただ普通に聞いているだけとしか思われまい。
だいたい最後の三択目を口にする勇気はどうせ無いわけだから。
そんな中での、冬乃のささやかな夢を。そして誰も笑うまい。
「それとも、お食事にしますか?」
(んー新婚さんぽい・・!!)
二択でも十分に内心で浮かれだす冬乃の、見つめる先。
沖田が。にっこりと微笑んだ。
「・・・冬乃がいい」
(え?)
暫し見つめ合うのち。
沖田が噴き出した。
「冗談だよ」
(だ)
冬乃の丸くなった目が直らないのは。仕方がない。
(だって。え、え?)
三択の台詞としても使われるとは認識も無いこの時代に、沖田のほうから、まさかのその三択目が出されてきたのである。
同時によほど冬乃の顔は茹でたタコのようになっていたのだろう。
「真っ赤」
笑いながら伸ばされた沖田の両手に、頬を包まれて冬乃は、遂にどうしようもなさに口をタコにする。
ちょっとそうして、また揶揄われたことに怒ってみせたつもりなのだが、
「冬乃・・」
ますます笑い出す沖田を見るに、完全なる照れ隠しだと易々ばれているようだ。
「じゃあ一緒に風呂入ろうか」
(・・・・っ!?)
何が『じゃあ』なのか。
そしてもう、冬乃に分かるわけもなかった。




