131.
(・・・・・ウソ、でしょ・・・)
どきどきと鼓動を感じながら、畳のうえで冬乃は正座していて。
沖田の迎えにきた声を障子越しに聞いて、
立ち上がった時。
目が、覚めた。
「冬乃さん・・?」
「冬乃?!」
「冬乃・・・!!」
統真と、真弓、千秋が、冬乃の目が開かれたのを見とめて、いずれもガタガタと椅子を立つ。
そして。
「冬乃・・・」
(お母・・さん・・?)
想像もしなかった存在を、
その表情を。
冬乃は。声も出せずに見つめ返した。
「じゃあ、うちら帰るけど・・何かあったらすぐ連絡してよ?」
「うん、ありがと・・・」
これまでの経緯を話す母と医者の横で、真弓と千秋が未だ心配そうに冬乃を見ていたが、まもなく面会時間終了のアナウンスが流れて、二人は何度も冬乃を振り返りながら病室を出て行った。
統真が、真弓達から連絡を受けてのち、授業の合間をぬって此処、総合病院まで駆け付けたのは一時間ほど前の事で。
統真が来て椅子に座った、ほぼその瞬間に目を覚ました冬乃を、
その場に居た真弓達も母も、その後に呼ばれて飛んできた医者までもが吃驚したのも無理はなかった。
“昨日”の朝、いつまでも起きてこない冬乃を部屋まで起こしにきた母が、どんなにゆすっても起きないために救急車を呼んで此処へ搬送してきてからのちも、ずっと原因不明の昏睡状態だったからだ。
医者は何度も首を傾げながら、全く正常な意識レベルまで快復している冬乃を問診し、まだ点滴は続ける事、明日も問題なければ退院となる事などを告げた。
安心した様子で統真は、それからすぐ大学へ戻っていった。
真弓達も帰って、医者が出て行った後。
冬乃は改めて母を向いた。
あんなにも。
泣きそうな顔で安堵の表情を浮かべた、母を。
(・・総司さん)
彼に次に逢えた時、伝えられるように。今の冬乃の母への想いを、きちんと母に話せたと。
“おしおき”を前に忽然と、これではまるで逃げ出したかのような消え方で。勿論、沖田がそう思うはずは無いものの、
(それでも、また急にいなくなってごめんなさい)
せめて良い報告がしたい。
「・・お母さん」
冬乃の緊張した呼びかけに。母が目を見開く。
何年ぶりに、そう呼んだだろう。
「心配かけてごめんなさい」
冬乃のその言葉に、ますます母は驚いた様子で冬乃を見返してきた。
(確かに、心配してくれたんだよね・・?)
心配など、されると思ってもいなかった。もう、
そんな感情など母には無いと思っていた。
なのに、冬乃が昏睡から目覚めた時の、あの母の表情は。覆すほどに全てを語っていて。
目にしたそれを冬乃はそれでも信じられなかっただろう。もしあの時、沖田と話していなかったなら。
沖田から、
母の内に本当は未だあるかもしれない冬乃への愛情に、思い至る機会を、
授けられてはいなかったなら。
「冬乃・・」
「お母さん、に」
冬乃は未だ、少し呼び慣れなかった。
もう二度と口にすることなど無いと、一度は棄てたその呼び名を。
「ちゃんと・・言わなきゃいけないことがある、の」
母が身構えた様子で顔を強張らせた。
「・・今までずっと、」
そんな母を前にして。
「産んでなんて頼んでないって、言ってきたけど」
冬乃は、緊張のあまり母の目から逸らしそうになるのを抑えて、
母を見据えた。
「今は、産んでくれてありがとうって思う・・」
「・・言いたいのはそれだけ」
恨み言ならば、あるものの。それを口にするつもりも無い冬乃は、そして顔ごと背けた。
「あんたが、」
だが背けた冬乃の耳に、母の押し殺した声が届いた。
「このまま起きなかったらと思ったら・・・怖くなった」
おもわず冬乃は再び母を見た。
「・・私こそ、」
母の少し震える声が。
「あんたに産まなきゃ良かったなんて言ってしまって」
目を合わせてきた母から零れ。
「そんなこと思うよりもはるかに、あのとき産む決心して・・あんたを諦めなくて、本当に良かったって、」
「あんたには・・産まれてきてくれてありがとうって。・・・思ってるのに」
零れ落ちてきた、その予想もしなかった母の言葉は。冬乃の心の内に、少しずつ意味を成して沁みわたってゆき。
冬乃は茫然と、先の自分のように顔を背けてしまった母の横顔を見つめた。
「お母さ、」
「あんたには父親が必要だと思ったの」
(え・・?)
口走るように放たれた次の母の台詞に、だが冬乃は息を呑んだ。
「前にあんたが・・実の父親に会いたいと言ってきた時、・・どうしても会わせたくなくて。あんたを取られたらと、思うと」
「なん・・で」
冬乃から目を逸らしたままの母が、自嘲にか小さくその頬を歪ませた。
「あのころ仕事ばかりだった私をあんたは嫌になったんだと思って。今にしておもえば、どうして信じられなかったのか・・あの頃のあんたが、私を見捨ててあの男のほうを選ぶはずなかったのにね」
(見捨てる・・って、・・何言ってるの・・?)
「父親を与えればあんたの気持ちも変わるかもしれないと、もうあの男に会いたいなどとも思わなくなるかもしれないと、願って。だから再婚した」
冬乃の瞳は目一杯に見開かれたに違いなく。冬乃に視線を合わせないままの母に、その様子は映らなくとも。
あんな男のことを口にするな
そう怒鳴った母の顔を冬乃は今でも鮮明に想い出せる。
あのとき母の心の、ふれてはいけない部分にふれてしまった冬乃に、母は愛想が尽きて、冬乃より義父を選んだのだとばかり。思っていた。
(なのに、私に父親を与えるため、って・・・そんな)
「でもね、あんたの為と思いながら・・私の為だったのね。あの頃は、仕事で大きな失敗して・・そんなのあんたには関係無いのに、でももう、疲れてたのよ。私ひとりで何もかも背負うのが」
連日のように遅く帰宅していた母の、疲れ切った姿を冬乃は想い起こす。
幾度となく、考えた事だった。あの時にもっと母を気遣っていたら、もっと援けていたら、母に愛想を尽かされることもなかったのだろうか、と。
「あのとき通い出した心療内科の医者には、私はあんたに依存しすぎだと言われるしね」
冬乃の戸惑いを置き去りに、母の悲鳴のような告白が続く。
「依存しすぎなら、あんたとの・・距離を、どうとればいいのか分からなくなって。きっと、それも変わると思ったのよ、もうひとり家族ができたら」
冬乃に何も言わずに突然再婚した母の、そうしていま明かされたその時の心境に。
冬乃は、もはや呆然と母を見つめた。
あの頃の。漠然と冬乃にとって大人の存在であったはずの母は。孤独のなかで悩んで苦しんでいた、
大人でも母でもある前に、ひとりの女性だった。
今の冬乃になら解る気がする。あの頃の冬乃には、きっと理解できなかった事でも。
「依存、してくれててよかったのに」
冬乃は呟いた。
親が大人である事を、
当然のように思っていた冬乃に。母は精一杯に応えようとしていたのだろう。
それが解らなかった冬乃には、ただ突然、心を閉ざした母の背しかみえなかった。
だからこそ、あの頃の冬乃に対しては、
「変に距離なんかおかないで、もっと話してほしかった・・」
だがそれを今更言っても、もう仕方がない。
「これからは、・・できれば」
まだ、間に合うかもしれない。
愛されていた記憶と。幸いに今も、愛されているのだと、感じることができた心のままに。
沖田が提案してくれたように、只、成り行きに任せてみようと。もし未だ母との関係が修復できるのなら、きっと、そうなってゆくだろう。
冬乃は、どこか怯えたようにすらみえる瞳を向けてきた母と、目を合わせた。
「もっと話して、ください。・・私も、そうさせてもらうから・・」
母は。見開いた瞳を揺らし、
再び視線を逸らすように小さく頷いた。
「もう、少し横になりなさい・・まだ目が覚めたばかりだから、きっと体に障るでしょ」
栄養を摂り入れるための点滴が繋がれるままの冬乃に、そして母は困ったように囁いた。




