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125.



 曇り空の昼下がり。近藤達が松本を案内して廻っている間、

 冬乃は酒宴の用意のため、厨房に来ていた。

 

 茂吉の指示に従いながら調理をしていく。

 気を抜けば、あいかわらず昨夜の映像が頭に流れ出して手が止まる冬乃を、お孝がまるで全て分かっているかの表情で、そのたびにつついてくれて。

 

 茂吉がやがて手水と言って厨房を出て行った隙に、お孝が「冬乃はん」と嬉しそうな声をあげた。

 「え?」

 隣のお孝を見た冬乃に、

 

 「ついに、好いた殿方はんと結ばれはったんやなあ」

 と、

 ぎょっとする台詞が囁かれた。

 

 

 「ど、な、?」

 どうして・・なぜそう思うのですか

 言おうとした問いが動揺のあまり、おかしな短縮形になる。

 

 「ふふ」

 それでも分かったらしいお孝が、口元に手を添えた。

 「そない幸せそうにしてはったらね」

 

 (そ、そんなに?)

 

 「艶っぽい溜息までついて」

 言いながらお孝がくすくすと笑い出したところで、茂吉が戻ってきた。

 

 

 二人慌てて仕事に戻り。未だ声を抑えて笑っているお孝を隣に、冬乃は再び冷や汗をおぼえる。

 

 (もしかして)

 さっき土方の視線がなんとなく痛かったのは、そういうことなのではと。

 

 勘の鋭そうな土方のことだ。何か気づいたのかもしれず。

 

 

 (あれ、でも。約束、破っては無いよね・・・ち・・”乳繰り合って”はないもの)

 

 

 そもそも乳繰り合うって、具体的に何なのだ。

 冬乃は今更ながら首を傾げる。

 

 土方の物言いといい、沖田と土方のやりとりを聞いてきたかぎりでも、つまりは男女がいきつくところまでいく事なのだろうとは、想像しているものの。

 

 

 

 (だ、だめもう)

 

 昨夜のことは。いろいろ冬乃の心が処理しきれる範囲を超えている。

 そうして只々巨大な幸福感になすすべなく圧し潰されているような状態で。

 

 それでも人は皆、こういうことにそのうち慣れてしまうのか。不思議になる。

 

 冬乃は人生の先輩でもあるお孝に、聞いてみたくなってつい、ちらりと隣の彼女を見てしまった。

 

 お孝が「ふふ」と、そんな冬乃をお見通しのように見返して。

 

 

 (て、聞けるわけないから!)

 

 冬乃はすぐに前へ向き直るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (なんか豚臭い・・)

 

 

 一昨夕は酒宴も無事に終わり、あいかわらず土方からは微妙に嫌疑とおぼしき視線を受けつつも、

 冬乃も近藤の後ろで、松本が駕籠に乗って去るのを見送って。そのまま後始末に厨房へそそくさと逃げたのだった。

 

 

 その後は、夜番の沖田とは顔を合わせることがないままに、早くも寂しくなりながら独り自室の布団で寝て。

 

 (これだから私は・・)

 元々一人寝が当たり前なのに、

 冬乃は、その夜せつなくなってしまった己に自嘲の念がやまない。

 

 もっとも今朝に至るまでせつない原因は、昨日丸一日、沖田が所用で出払っていて、またも殆ど顔を合わせなかったことが大きい。

 

 

 (・・・やっぱり豚臭い)

 

 

 そして冬乃は。朝の井戸場に立ちながら、思考すら遮るその臭いに、風の向かってくる方向をおもわず凝視した。

 以前、学校の課外授業で養豚場へ行った時にしていた臭いと、同じ臭いがしてくるのだ。

 

 

 (うそでしょ・・もう豚、届いたの?)

 土方が“拙速”を実践したのだろうか。一昨昼に即行で手配したとして、まだ二日と経っていないというのに。

 まさか豚たちを早駕籠にでも乗せてきたのだろうか。

 

 (そして柵を作ってない・・?)

 

 

 もし豚を柵で飼うとしたら屯所の中心地で行うはずだが、

 それならここまで強い臭いが届くとも思えず。

 

 柵など無しに、いま豚たちがすぐ近くまで遊びに来ているような気がしてならない。

 

 

 そこまで考えて冬乃は、線香の匂いがするはずの寺で豚の臭いという状況に、もはや噴きそうになった。

 

 西本願寺の中で、組の屯所の区画は塀などでしっかり囲っているので、放し飼いにしたとて、豚が寺の側まで行くことは無いだろうが、境界の近くまで豚たちが行けば、やはり寺側にも臭うことになるだろうと。

 

 (そういえばそんな苦情が来たとかいう逸話もあったような?)

 

 

 狭い柵で囲わずに放牧する、豚にストレスの無いそんな飼い方には賛成なものの。冬乃は零れてくる笑みを抑えきれない。

 これからたまに豚と遭遇するのだと思えば、屯所を歩くのがちょっと楽しみにもなって。

 

 

 

 「うおう、なんじゃこの臭い!?」

 

 そこに、幹部棟の玄関を出てきた原田が早速叫んだ。

 豚を飼うことになったという事を、原田は未だ聞いていないのかもしれない。

 

 井戸場へ向かってくる原田が鼻をつまむのを見ながら、冬乃は暫く屯所はちょっとした騒動になるのではと予想した。

 

 

 「なんか臭うな」

 幹部棟から永倉も出てきて。

 

 (あ)

 その横には沖田と、朝には珍しく土方もいた。

 

 彼らが向かってくるさなか、

 「ふおお?!」

 と、先に井戸場まで来た原田が、次には声をあげた。

 

 何事かと見やった冬乃たちに、「あれッ!」と原田が慌てて指さした先には、なんと風呂場の裏からひょっこり出てきた子豚たちと、その親豚と思われる大きい豚。

 

 やはり、すぐそこまで来ていたのだ。

 

 

 (か・・かわいい・・・)

 

 臭いなんぞ気にならなくなるほど、子豚たちの愛くるしさに目を輝かせてしまった冬乃の横で、

 「なにあれ!?」

 と原田が目を瞬かせて。

 

 「豚だよ。先日みえた松本様から、組で食用に豚を飼うよう言われたから取り寄せた」

 向かってきながら土方が説明する。

 

 「豚、ってあの薩摩の猪か?」

 原田が目を丸くし。

 確かに薩摩では昔から豚が食用されていると聞く。だが実物を見たのは初めてだったのだろう。

 

 

 「にしても妙だな。松本様の話じゃ、豚はたいして臭わないと聞いたが」

 土方が臭そうに目を眇める。

 

 「長旅させて汚れてんだろ。いったん洗ってやりゃいいんじゃねえか?」

 永倉が哂った。

 

 

 豚は綺麗好きな子も多く、トイレも自ら寝床と分けるし、よく泥遊びをして体表の汚れを落とすのだと。

 冬乃は養豚場で説明された話を思い出した。

 

 (そっか、砂利しかないもんね、このへん・・)

 

 これからは時々豚を洗ったり糞尿を片付けるという、使用人の仕事がまたひとつ増えるのだと、茂吉に少し同情する。


 (でも)

 豚は頭もいいので、トイレの場所も覚えさせれば、そこでしかしなくなるとも聞いた。

 茂吉にそれを言っておこう、と冬乃は思い立つ。でなければ、屯所じゅうにあちこち糞尿がばらまかれて大変だ。

 

 「または発情期だろ。畜生はそういう時は臭うもんだ」

 だが永倉の続けた言葉に、冬乃はびっくりして、永倉を見た。

 

 「しかし、かわいいもんだな。いずれ食っちまうのは可哀そうな気もするな」

 冬乃の注目の中、井戸場まで到着しながら永倉が呟く。

 

 

 同時に到着した土方がじろりと冬乃を見て。冬乃は慌てて会釈をしてから、隣に来た沖田をどきどきと見上げた。

 

 「おはよう冬乃」

 

 朝日のなか、そう微笑ってくれた沖田の褐色の肌が、眩しい笑顔に映え。冬乃は例によってときめきながら「おはようございます」と頬を染める。

 そして例によって目を合わせていられずに、逸らした。

 

 (ん?)

 逸らした先で。

 親豚とおぼしき豚が、こちらへやってくるのが見えた。

 

 

 「お、おい、こっち来るぞ」

 原田が後退る。

 

 豚は鼻をひくひくさせて尚もまっすぐに向かってくる。

 親豚ともなると結構な大きさであり。冬乃もおもわず後退った。

 

 が、豚は冬乃達の傍まで辿り着くなり、そのまま脇目もふらず沖田へと鼻をこすりつけた。

 

 (え)

 

 冬乃達が凝視する先、豚は一心不乱に沖田に擦り寄っていく。

 

 当の沖田は一瞬瞠目した後、避けるでもなく面白そうに見下ろした。

 

 冬乃は。

 (いきなり懐いてる・・!?)

 

 その積極性に、おもわず羨ましくすらなって、つい押し黙った時。

 

 

 「メス豚だな」

 

 永倉がぼそりと呟いた。

 

 

 (・・・ん?)

 

 永倉が、メスの豚、と言っただけなのは分かるが、平成でその単語の響きは微妙なのでますます押し黙った冬乃の前、

 

 「やっぱこりゃ発情してんな」


 永倉が笑い出し。

 

 

 冬乃は、今度こそ押し黙った。

 

 

 (あの・・総司さんは人間なんですが・・・)

 そりゃオスの中のオスですけれども。ヒト科ヒト属の。



 「なんで沖田ばっかりモテるんだよ?おい豚、俺んとこにも来い!」

 横で原田が文句を垂れる。

 

 そこは嫉妬するところではないような。

 冬乃は苦笑しつつも、冬乃は冬乃でやはり豚が羨ましい。おもわずじっと見てしまった冬乃に、

 

 「ふん」

 横で土方が、愉しげに鼻を鳴らした。

 

 「恋敵が増えたな」

 

 

 (・・・)

 

 こんな挑発には乗るまい。冬乃はさらに黙り込んだ。

 

     





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