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113.




 「冬乃、」

 沖田がふと冬乃の耳元で囁くように、冬乃の名を愛でて。

 

 「如何してそう・・可愛いことばかり言うの、貴女は」

 

 (え?)

 言うなり冬乃をきつく抱き包めた逞しい胸板に、両の腕に。冬乃は息をついた。

 

 「総司さん・・?」

 そんなふうにされたら。包まれ与えられるその深い安息感に、冬乃の小さな背は、うっとりと沖田の腕の中へ溺れてしまうのに。

 

 (抜け出せなくなりそう・・)

 

 ここが冬乃の大好きな場所だということを、沖田はどこまで分かっているのだろう。

 

 「・・冬乃」

 もう一度。

 冬乃の耳元に低く優しい声が、落とされ。



 顔を上げた冬乃を、

 迎えたその眼は。だが、酷く真剣な色を帯びていた。

 

 「次に帰った時、親御さんとは必ず納得がいくまで話してきて。決して後々、後悔の無いように」

 

  

 (・・・え?)

 

 唐突な。その台詞に、冬乃は一瞬、言われた事が呑み込めず、

 沖田の双眸を茫然と見つめ返した。

 

 

 

 (・・あ、・・・)

 

 冬乃が、次に此処へ戻ってきた後はもう二度と帰る気が無いものと、思っている沖田からすれば。冬乃は家族と離れて此処へ嫁いでくるも同然なのだと。

 暫し後に冬乃は気づいて。

 

 

 「・・はい」

 冷静を、装い。冬乃は答えた。

 

 

 (総司さん・・)

 

 この嘘を

 この先、つき続けることに。

 

 そのまま冬乃は、突如に甦った、胸内を強く絞られるほどのその責苦に。もはや沖田から目を逸らし。

 

 

 「・・冬乃?」

 

 だがすぐに訝られ。

 冬乃は咄嗟に、

 「離れる覚悟は・・とうに、できています」

 己の苦悶の表情のわけを、家族との別離であるようなふりで取り繕った。

 

 

 気遣うように沖田が、冬乃を抱き締め。

 

 その温もりのぶんだけ冬乃の胸内を突き刺す鋭い痛みに、冬乃は自然なふうを努めて顔を伏せ、前へと向き直った。これ以上、表情を見せているわけにはいかない。

 

 

 「冬乃」

 沖田の、温かく心のこもった声が追う。

 

 「貴女は意志の強い人だから、貴女が戻ってくると言うならば、戻ってくると、信じている」

 

 

 冬乃は振り返れないままに、顔を擡げた。

 

 「一方で、」

 沖田が続けた。

 

 「貴女は優しい人でもあるから。御家族と話をするうち、やはり本来の世で生きてゆくほうを選ぶしかなくなる結果も、ありえない事ではないだろう」

 

 (総司さ・・)

 

 「その万一を思えば。貴女が確かに、此処へ戻ってくる時まで」

 

 

 沖田の腕の力が強まった。

 

 

 「貴女を抱くのだけは。まだ待つ気でいるから」

 

 

 

 

 (総司・・さん・・・)



 胸奥から急激に溢れ出た数多の感情に。冬乃は、一瞬息さえできず。言葉に詰まって唯、俯いた。

 

 (総司さん・・・ごめんなさい・・)

 

 

 ・・・それだけは、きっと、

 

 (私が戻ってきた後も)

 

 

 ずっと叶わないんです。―――――冬乃にはそれを伝えるすべが、あるはずも無く。

 

 

 

 「答えなくていいよ」

 冬乃の沈黙に、冬乃が恥じらっての事と思ったか、沖田がそんなふうに囁いた。

 

 

 (総司さん・・私は)

 

 

 今は、沖田を亡くした後のことなど、考えたくもない。

 だけど今から分かることはひとつある。

 

 三年後、未来へ帰るしかなくても、どこに在ろうと冬乃は一生、その先も沖田のことを想い続けると。

 

 

 たとえ時の流れにとって、三年は一時であっても。


 冬乃が沖田しか愛せないことに、変わりはない。


 (私の気持ちにとっては決して、一時の関係ではない)

 

 

 それでも。未来に帰らなくてはならないのなら。

 

 時間の、絶対の隔たりに、

 

 この不安に、

 

 対して。

 

 

 (・・・・気持ちだけでは)

 

 

 冬乃はあまりにも。無力で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖田が今一度、冬乃をきつく抱き締めた後、冬乃からその太い両腕を引いてゆく。

 冬乃の後ろで袴の擦れる、立ち上がる音がして。

 

 「腹減らない?そろそろ夕食いこうか」

 

 もう常の通りの、穏やかで飄々とした声が降ってきた。

 

 「・・・はい」

 

 振り返って見上げれば、和やかに優しい眼が、薄闇のなか冬乃を見下ろして。

 

 沖田ほど、感情の切り替えの早い人間もそうそういないだろう。

 つい寸前まで、冬乃を抱く抱かないの話をしていなかったか。

 

 先程の台詞は空耳かと思うほど冬乃は当惑したまま、呆然と沖田の差し出す手に掴まれば。もう何度となく経験したその力強さで、引き上げられて立ち上がる。

 

 

 冬乃の心中は。そんな簡単には勿論いかない。

 

 ふたり、部屋を出て、沖田が近藤の部屋へ声を掛けに行く間も。冬乃は、小さく溜息をついた。

 

 (実際に・・どうなってしまうの、)

 

 疑問は。胸内に蠢いたままで。

 

 

 此処の世で、もし。妊娠したら、と。

 

 

 それは考えるほど、冬乃の胸内を不安に覆う。

 

 どんな、事象で、

 この奇跡が起きているのかも分からない中で。

 

 

 宿った命は、・・生まれる子は。冬乃と共に時を越せるのか、・・掻き消えてはしまわないのか、

 

 つまり過去と未来の存在から誕生するその命は、どこに、属すのか。否、“属せる”のか、

 

 

 それ以前に、その存在は許されるのか、さえ。

 

 

 ありとあらゆる疑問が沸き起こり。

 

 (・・そんなの私に、わかるわけない・・・)

 

 

 未だ、この時代ではいうまでもなく冬乃の時代の科学でも、解明以前に、事象として知られてすらいない、冬乃の身に起こる『タイムスリップ』の不可解な現象において、

 

 いくら平成の世からみれば意識だけ飛ばされて来ている様相であっても、此処にこうして実体を成している以上、生物の個体としての冬乃が存在していることを否定するわけにはいかない。それが、

 

 此処に属する個体としてなのか、

 あくまで元の世に属する、意識が具現化した個体としてなのか、

 

 冬乃には判らなくても。それでも冬乃は、自分が此処の世に属する存在であるとは、理屈でなくどうしても『感じる』ことができないでいて。

 

 そしてもし、やはり後者であるならば、

 属する時間軸の異なる存在から一個の存在が誕生した時、それがいったいどんな事態を引き起こすのかも、冬乃に想定できるはずが、どころか、そんな起こりうる何らかの事態への覚悟すら、当然できるはずがなく。

 

 

 只、漠然と。

 

 まさか許されるはずが無いと。感じているだけの。

 

 

 

 ――――それは本来ならば。冬乃が未来へ永久に帰らず、一時的な滞在で無くなるなら、そうして、此処の世に帰属さえ出来るのなら。消えていいはずの不安。

 

 (なのに)

 

 元から帰属など許されていない。そんな感が。どうしても冬乃を苛み。

 

 

 

 

 考えるほど襲い出す不安に、心の臓の激しい鼓動に。冬乃は息を震わせる。

 

 

 「俺はもう少しこれをやってから行くよ」

 近藤の声が聞こえた。


 こちらへ戻ってくる沖田に、

 続いたままの動悸を気づかれないようにと、冬乃はそっと細い息を漏らす。

 

 

 思い起こしていた。もうひとつの心配を。

 

 未だ、沖田の命を救える可能性を信じていた頃。

 もしも此処で一生を過ごしきることが叶うのだとしたら、未来では冬乃がどういう状態であればいいかを考えたことがあった。

 

 未来で意識が無いままに。病院で、体だけ生きていくという事だろうと。



 仮にもし、冬乃が此処で死ぬまで居られたのなら、

 そうして此処での死を以って、意識のほうが消失するとしたなら。

 平成での冬乃は、その後にこの魂が還ることなく朽ちるのだろうか。

 

 そして、そんな冬乃を母は・・・どう想うのだろう、と。

 

 

 (でも此処に居続けることが許されなければ、どうせ不要な心配でしかないのかな・・)

 

 

 

 

 

 「行こうか」

 沖田があたりまえのように冬乃の手を取り。

 

 そのまま冬乃の手を優しく引いて玄関を出る沖田を前に。冬乃は、潤む目を一瞬、瞑った。

 

 (総司さん・・)


 

 貴方に、

 逢えたのは。なぜなのか、

 

 この奇跡が、起きた理由は、何なのか。

 

 

 運命が手繰り寄せた、この奇跡が。

 もし何かの使命を課すものであるのなら。

 

 その使命は。冬乃が、今この先に成そうとしている事に、違いなく。

 

 そして、この奇跡は、それなら。その使命を果たしたのちに、

 続くことは、無いだろう。

 

 

 

 (・・・結局きっと、何をどうあがいても)

 

 全てに阻まれ。

 絶対に叶わないことなど、わかっている。

 

 

 (総司さん・・それでも私は。本当は)

 

 此処に居たい。居られたなら。

 

 貴方が亡くなった後を生きなくてはならないのならば。

 此処で、

 せめて貴方が居たこの時代で生きていきたい、

 

 少しでも貴方を感じられる、この場所で。

 

 

 (それがもし、今だからそう思えるだけなのかもしれなくても)

 

 

 その時が来て、

 耐えられるのかさえ。本当のところ、今の冬乃には想像ができなかった。

 

 

 それでも耐えなくてはならないことも、同時にわかっている。

 ・・・冬乃が己の死を追ってくるなど、沖田は、絶対に望まないことくらい。

 

 

  

 「・・総司さん・・・」

 

 冬乃の声に漏れた呼びかけに、沖田が振り返った。

 

 呼んでしまったきり何も言えずに見つめた冬乃を、その優しい眼が微笑んで見つめ返し。

 「冬乃」

 そっと手を引き寄せられ冬乃は、受けた掠めるような口づけに目を閉じる。

 

 

 (総司さん・・)

 

 三年後、貴方を追わせてはもらえないのなら。

 

 

 せめて共に貴方を想い此処の世で生きていける、貴方との家族を・・・つくれたら。

 

 (そしたら、どんなに・・)

 

 

 『貴女がいずれ可愛い御婆さんになって、孫に囲まれて往生するよう、祈ってるよ』

 

 あの台詞が。今になって、

 冬乃の心奥をせつなく締め付ける。

 

 

 ・・それが此処で。

 囲んでくれるのは貴方との孫で。

 

 そんな最期が叶う希望があるのなら、

 

 

 貴方を喪っても。きっと迷いなく生きていけるのに。

 

 

 

 (だけどそれは、叶うことの許されるはずもない夢)

 

 音を生さぬ慟哭が、冬乃の胸内を衝き上げ、

 冬乃はこみ上げる涙を断つべく。閉じた瞼に力を籠めた。

 







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