112.
「おき…たさま」
ふたたび幾度と繰り返される、あの熱の籠った口づけに冬乃は、やがて眩暈さえ感じて。
漸く唇が解放された時、くらくらと残る感覚を押しやって懸命に瞼を擡げた。
優しい眼がそんな冬乃を迎え。
「その沖田様、ってのを止めようか」
落とされた不意のその言葉に。
「え・・」
冬乃は瞠目した。
「総司でいい。敬語も要らない」
(そ、)
「それはあまりに難しいです」
即答した冬乃に、
「仕方ないな」
例のごとく沖田が微笑う。
「呼んでみて今」
(そんな)
「ほら」
早く。
冬乃は促され。
「そ・・」
ふるふると、声を震わせた。
「そうじ・・・さま」
「それじゃ変わらない」
沖田が苦笑する。
「・・・」
冬乃は。
「そう・・・・じ・・・・・・・」
がんばった。
「・・・さん。」
うーん
と。どこか納得していなさそうな表情が、冬乃の瞳に映り。
「まあ・・・それぐらいならいいか」
冬乃がほっと胸を撫でおろした時、
「先生がお戻りだ」
沖田が唐突に呟くなり、冬乃から名残惜しそうに身を離した。
「・・敬語抜きのほうの試みは、また次の機会にね」
(え)
「総司ーーー帰ってるかーーー」
同時に玄関のほうから近藤の声が響き。
瞬く間に足音が、部屋の前まで来た。
「ええ、帰ってますよ」
冬乃から離れ、沖田が襖へ向かう。
「先生もおかえりなさい」
「あ、ああ!ただいま」
沖田が開けた襖の前で、近藤が沖田を見上げてにこにこと微笑い、ふと部屋を見やった。
「て、灯りも点けないでどうしたんだ」
「俺達も今しがた帰ったとこですので」
沖田がけろりと返した。
「お、そうか。冬乃さんもおかえり」
冬乃は壁前に立ち尽くしたまま、慌てて会釈を送る。
「総司、ちょっとこれから書簡の整理の手伝い頼めるか、夕餉まででいい」
「はい」
沖田が冬乃を振り返った。
「此処で、待っててくれる?」
「はい」
襖が閉まるとともに。
冬乃は、その場にへたり込んだ。
脱力して座り込んでしまいながら。
冬乃はこれまでの怒涛の出来事を、一旦一人になったことで、やっと振り返る機会を得て。
(わ・わ・・)
そして振り返りながら、最早。
座っているのに、倒れた。
ずずずと壁に、崩れた背を凭せかけ、
冬乃は激しさがさらに増した心拍の、引き起こす息苦しさで眉を寄せる。
(ふわああああ)
混乱どころではない。
顔からもし火が出せるなら、ドカンと噴火しているに違いない。
(だ・・けど・・)
そんな一方で、
冬乃の心の内に、ぼんやり漠然とした不安が生じていることを、
振り返れば振り返るほど冬乃は、急速に感じ始めて。
深くなる口づけに体が密着を繰り返すたび、あの時。冬乃の体の脇に時々当たった刀とは別の、何か硬いものが、冬乃の体の前にも幾度となく当たって。
今にして思うと。
(あれって・・)
どんなに経験が無い冬乃でも、当然聞いている。男性が、どういう時にどうなるかくらいなら。
(でも・・)
いつかの時、
冬乃は沖田が、冬乃に対してそういう気持ちにはならないのだと、一抹の寂しい想いとともに結論づけたことがあった。
(あの頃はそうで、今が違うの?)
疑問は甦る。
何故、急に、沖田の心境に変化があったのかと。
昨日までは確実に相手にされていなかったのに、今日の夕方までに、いったい何があったのだろう。
(・・・だめ、あたまがぜんぜん働かない・・)
もしかして、これはやっぱり、すごく良く出来た夢なのでは。
再び辿りついたその可能性に。瞬間、冬乃は最大の力を籠めて腕をつねってみた。
「痛ったあ!」
ただの自虐行為に、涙目になった時。
襖が開いた。
「・・・何やってんの・・」
呆れた声とともに、襖が閉まり。
愛しい声の主が近づいてくる。
「あの、沖、総司さ・・ん」
壁を背にして大分ずり落ちたままに、今の痛みで放心ぎみの冬乃の傍へ、片膝をついた沖田を。冬乃は見上げた。
「どうして・・急に、お気持ちが変わったのですか・・」
「・・というと?」
「総司さん、は私とは付き合えないと・・昨日、永倉様へ言ってたのに・・」
「ああ、」
ぼうっと冬乃が見上げる前、沖田が手を伸ばしてきた。そっと頬を撫でられる。
「冬乃がもう帰らないのならば、想いを抑える必要は無いから」
「・・え?」
「俺はずっと冬乃を好きだった、って事。急に気持ちが変わったのではなく。隠してただけ」
「う、そ・・・」
いま耳に届いた言葉が俄かには信じられず、冬乃は唖然と沖田を見つめた。
「本当」
沖田が微笑う。
「どうし・・て、隠して・・」
「・・わからないかな」
沖田が胡坐をかいて座り込んだ。
「そもそも冬乃は、自分の意志で行き来することも叶わないでいた、」
「そのうえ未来が、貴女の本来の世である以上。いずれは此処へ永久に戻ってこなくなる日がくるだろうと。」
言いながら、沖田が段々と苦笑しだす。
ここまで聞かなきゃ分からないのかと言いたげに。
「そんな冬乃と、無責任に一時の関係に興じるわけにいかなかったから、に決まってるだろ」
そうして溜息とともに伝えられた、その言葉は。
冬乃の心に、少しずつ。沁みわたってゆき。
(・・・それ・・で・・)
もう行き来の自由が利くようになって。次でもう、ずっと帰らないと。
冬乃があの時、沖田に告げたことで。
『冬乃がもう帰らないのならば、想いを抑える必要は無いから』
沖田の最初の言葉の意味を、冬乃はやっと理解した。
沖田が冬乃の想いに、とうに気づいていながら。
そこまで、冬乃のことを大切にしてくれていたのだと。
(・・貴方なら、私を)
どうにだって、できたことなんて。
分かっていただろうに。
それこそ、冬乃の先の事など考えず、
恣にしようと思えば。いくらだって、好きなように。
冬乃が。その場になったら、沖田を拒めるはずがないことを。
冬乃自身、なにより分かっている。
だからこその、
この不安も。
(だって私自身がどんなに、拒めなくても)
過去と未来の時間を隔てる一線を
超えてはならないはずであることに、変わりはない。
何故なら────冬乃は帰るのだから。
あと三年に迫った沖田の最期を、見届けた後に。
だがそれを沖田に伝えるわけにはいかない。
沖田があと三年の命であることを、
冬乃が、もう『二度と』帰らないのは。
あくまで、その三年間ということを。
沖田のほうは当然、冬乃が此処の世に一生いると決めたのだと。思っているはずだ。
次が最後でもう『二度と』帰らないと。
今の沖田の話からすれば、
そうでなければ、想いを打ち明けてなどくれなかっただろう。
冬乃がいずれは元の世界に帰るなら、
一時の関係、に変わりはないのだから。
(・・貴方の心配してくださっていた事は、)
本当は未だ、今もそのままで。
それは、同じ、冬乃にいま生じている不安であり。
だが伝えようのないもの。
瞳の奥が涙で滲んできて、冬乃は慌てて瞬かせた。
(どうして・・・こんな・・)
沖田が一時の関係を否定してくれるなら、
つまりこの先もずっと、冬乃と添い遂げようとしてくれている。ということになるではないか。
それなのに
「冬乃」
その呼びかけに冬乃は、はっと沖田を見返す。
「もう帰らないと決めたのは」
沖田が冬乃の髪を撫でた手を流し、そっと冬乃の顎を上げた。
「俺のため?」
確かめるように。
確かめなくても・・お見通しですよね・・。冬乃は震える胸の内で、呟く。
「はい・・」
囁くように答えた、
答えるうちから沖田の顔が近づいてきて、答えの音の、途切れぬうちに口づけられ。
一瞬に溢れそうになった涙を、冬乃は閉じた瞼に隠した。
抑えきれなかった涙が頬をつたうのを感じ。
(総司さ・・ん・・)
沖田の言う、俺のため、は。
沖田が此処の世に居るため、の意味でしかないだろう。
冬乃の意味する、沖田のため、は。
当然ただそれだけでなく。
(そして・・私の、ため)
冬乃が。
沖田を彼の望む最期へ導きたいから。
沖田との、もう長くはない時間を、片時も離れたくないから、
最期の時を、決して逃したくはないから。
(総司・・さん・・)
優しい穏やかな口づけだった。
唇を離された時、
冬乃が目を開けるより前。冬乃はそして、目尻に口づけられ。
「泣いてるの」
少し困惑したその声に、冬乃は静かに目を開けた。
「・・幸せだからです」
──嘘では無く。
冬乃はまっすぐに沖田を見つめ返して。
悲しみと。同じだけの、
恐ろしいほどの、幸せを。感じていた。
こんなに大切にされていたこと。
きっと添い遂げようとさえ、想ってくれていること、
それがどんなに、ふたりには。
叶わなくても。
(私は・・)
これが確かに夢でないのなら、
(・・・許されるのかさえ)
「幸せすぎて・・怖いです・・・」
罪の意識が、甦る。
(お千代さん・・ごめんなさい・・)
冬乃の瞳は再び、溢れてくる涙で霞み。
「・・月並みな事しか言えないが、」
沖田がそっと指先で冬乃の目尻を払った。
「どうせ何かしらの原因で、辛くなる日もまた、嫌でも勝手に来る。だったら幸せな時ぐらい、」
冬乃の心を落ち着かせてくれる、沖田の優しく穏やかな声が冬乃を包んだ。
「素直にそれを享受していて良いんじゃない」
「・・・はい」
冬乃は小さく頭を下げた。
「有難うございます・・」
(・・総司さん、そして・・ごめんなさい)
幸せでいてもいいと。
沖田が言ってくれるように、まっすぐに受け止められる時が来ることを、冬乃はそっと祈った。
もしも許される時が、来るならば。であるのだとしても。
沖田が冬乃を壁から抱き起こし、代わりに自分の胸へ凭せ掛けた。
後ろからすっぽり冬乃は包まれて、続くそのとめどない悲しみと対の幸福感とで、どうしようもなく再び目を瞑る。
「いつからなのですか・・その、」
私のことを想ってくださるようになったのは
そして冬乃は、勇気を奮って聞いておきながら、結局消え入りそうな声になった。
とくとくと冬乃の心の臓が、鼓動を打つ中。
沖田がその温かな腕に、冬乃をよりいっそう抱き締めた。
「泊りに行った後ぐらいから、はっきり自覚した」
(え・・・?)
そんな頃からなわけが・・
おもわず声なく疑って振り返った冬乃を、
どきりとするほど愛しげな眼が、肯定するように、穏やかに微笑んで見返して。
冬乃は食い入るようにその眼を見つめた。
(だって、あの頃・・は・・)
未だ冬乃が、沖田と千代の運命に対して、どうすればいいのかもわからぬまま、なんら覚悟もできず延々と悩んでいた時期ではないか。
(・・・そんなのって)
まさか、冬乃の存在そのものが、
本来の運命で結ばれていた二人を引き裂く“手段”となることを。あの頃の冬乃に、どう想像できただろう。
「冬乃は?いつからなの」
(あ・・)
沖田の問いに冬乃は、咄嗟に目を逸らして前へ向き直った。
答えられるはずがなく。
貴方に逢う、ずっと前からです
そんなことを言ったら、
今度こそ、重たいと思われてしまうだろう。
いや、
重たい、以前に。理解すらされまい。
「・・・・秘密です・・」
そして沖田に背を向けたまま。そんな返事しか結局できずに。
「・・秘密?」
苦笑した声が当然、落ちてきても。
冬乃は俯いて。
(ほんとうは)
冬乃がほんの幼い少女の頃に彼を知って以来、ずっと想い続けたこと、
それさえも。
もっと・・遥か、前からさだめられた、必然だと。
何故かそんなふうに感じてきたなんて。
(言ったら、絶対もう、ひかれちゃいそう)
だが信じるひとはそれを、前世から、とでも呼ぶのだろうことを。
(・・前世からというものが、どういうことなのかはよく分からないけど)
運命、だと。
すくなくても冬乃にとっては。
そう言いきってしまえるほどに。もう、
冬乃の身に起こり続ける、もはや偶然なんかではありえない、必然な、この度重なる奇跡のなかで。
ずっと冬乃は。確信していて。
この、沖田に関しての強まる使命感とともに。
(だから・・)
────きっと冬乃が、
「・・・総司さんが。想像も、つかないほど前から、・・です」




