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105.

 

 しかし、あまり房事に耽る様子を出すのも、此処は仮にも屯所であるのに、如何なものか。

 

 茶番につきあってくれるのは有難いが、永倉達とはその辺りの口裏合わせをもう少し詰めておいたほうが良さそうだ。

 

 歩きながらふとそんな事を考えたものの。


 風紀の鬼が東下中の今くらい、まあいいか

 と結局、沖田は一蹴した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖田が部屋の入口へ置いていってくれた朝餉の膳を、部屋の奥へと運び入れた冬乃は、

 幾分かは腫れの引いた目を開けて黙々と食べながら、

 

 先程沖田が障子越しに、今日は昼番から戻った後に、また読みの特訓をすると告げてきたことを想い起こす。

 

 

 (その前に、沖田様の部屋の掃除もしておこ)

 

 冷たい布と朝餉の礼も兼ねて、また張り切ろうと。

 もっとも礼なんていうならば、これまでのぶんからして、永遠に返しきれたものではないのだが。

 

 

 (それに次からこそは、もう惑わないでいたい)

 ・・・と誓いたくても、これもきっと永遠に叶わないだろう。

 

 だけど、少しでもそうなれるように。

 

 

 箸を持たないほうの手で時々、沖田が新たに持ってきてくれた布を瞼へ押さえる。まるで瞼の重みがとれるに合わせるように心も軽くなってゆく中で、冬乃は祈りをこめた。

 

 

 

 

 

 

 沖田の部屋の掃除を終えて、彼の帰りを待つ。

 瞼の腫れもすっかり引いている。

 

 

 冬乃はふと視界に入った、このところは此処に置きっぱなしの文机を見つめた。

 

 

 (普通の机なのにな・・)

 

 なにか四次元空間への引き出しだとかが付いている・・わけでもない、もちろん。

 

 年季の入った古い、この時代によくある文机だ。

 

 (でも何かこの机に仕組みがあるんだよね絶対)

 

 

 冬乃は机へ近づいて、畳に手をついて屈むと裏を覗き込んでみた。

 一瞬、お札でも貼ってあったらどうしようと思ったが、何も無かった。裏側も至って普通で。

 

 (不思議・・)

 

 

 そもそも、この机がたとえば壊れたりしたら、どうなるのだろうか。

 

 冬乃はそうなれば二度と此処へ戻って来られないのか。

 

 (・・・・)

 

 土方にどうか大事に使ってほしい、と一瞬に願ったものの。

 考えてみたら、一番この机を壊しそうな人は毎回ここに着地している冬乃ではないか。

 

 (怖っ・・)

 

 

 ぶるりとおもわず身震いした時。

 沖田が帰ってきた。

 

 「冬乃さん、」

 

 帰ってくるなり、沖田はどこか困った様子で微笑った。

 

 「今から、露梅に会いに行けるかな」

 

 「え・・」

 

 「一緒に」

 

 

 見れば沖田の片手には、開かれた文があり。

 

 「露梅から」

 冬乃の視線に応えるように沖田が伝えてくる。

 遊女が客へ送る、いわゆる艶文だろう。

 

 「冬乃さんも来てと書いてある」

 

 「どうして・・」

 

 冬乃は目を瞬かせた。

 

 「さあ」

 

 沖田が部屋を横切り、押し入れを開けた。

 文を適当に置いて隊服を脱ぐ沖田から、冬乃は目を逸らした。

 

 近藤の話では、沖田は今夜ちょうど非番だ。

 このまま今から行くのだろう。

 

 

 「勿論、嫌でなければでいいよ」

 

 (嫌に決まってます・・)

 どういう物好きだと、好きな男と遊女の逢瀬に同行するというのだ。

 

 

 だが、沖田は振り返った。

 

 「貴女が行かないなら、俺も行かないけど」

 どうする?

 

 向けられた眼に。

 

 (え・・?)

 

 冬乃は驚いて、沖田を見つめ返していた。

 

 

 「貴女にも来てほしいと言ってくる以上、俺達に何か面と向かって話したい事でもあるんだろうとは思うよ」

 

 

 冬乃は頷いた。

 

 「わかりました。ご一緒させてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「着く時でいいが、忘れずに」

 

 駕籠を出る前までには頭巾を着用するよう冬乃に念を押し、呼んだ駕籠に彼女を乗せ、沖田は自らももう一つの駕籠へと乗り込んだ。

 

 

 

 第二次長州征伐に向け、ついに幕府が将軍自ら陣頭となるを世に知らしめてからというもの、

 将軍上洛を前に、京阪の町は治安維持にあたって一層警戒を強めていた。

 

 新選組が、見廻組と共にその任を負う、京の筆頭部隊であることは当然に周知の事、

 

 

 その新選組の闊歩する京に、なお必死の想いで潜伏する反幕府浪士達が、

 窮鼠猫を噛むが如く、少人数の隊士を狙っては斬りつけてくる事件がこのところ増えており。

 先日には、隊士の一人歩きを禁止する触れを臨時で出したばかりだ。

 

 こちらが徒党を組んで巡察に廻っている間は、彼らは死人さながら息を潜めて隠れていながら、一人二人で歩いている非番の隊士を見つけては襲うのである。

 

 今のところ、大怪我をした者はおらず、負傷したとて、いずれも向こう傷で済んで事なきを得ているが。

 

 

 

 (馬鹿げている)

 

 新選組の隊士をそうして、いつか一人二人葬ることに成功したとて、だから何が変わるというのか。

 

 まさか着眼大局、着手小局でも気取っているわけではなかろうが。

 

 

 

 

 

 露梅の置屋の前で駕籠を降り、沖田達は出てきた女将に添われて露梅の部屋へ向かう。

 

 「もう取っていいよ」

 未だ律儀に頭巾を着けている冬乃に囁いてやれば、冬乃がはっとしたように会釈を返して、頭巾を取った。

 

 

 

 

 

 その浪士達は。

 隊士を襲っては、斬り結ばれるや否や走り去ってゆくという。

 その脱兎にも勝りそうな逃げ足の速さは、もはや隊士達の間で笑い種にすらなっている。

 

 もっとも、これまで襲われた隊士達が揃いも揃って、浪士達を追いかけても追いつけなかった事を、もう少しは恥じてもいいものだが。

 

 

 

 その浪士達は毎回、顔を布で巻いて隠しているとはいえ、その共通した足の速さといい、手口といい、明らかに同一の人間による犯行だと組では結論付けた。

 

 話を聞く限りたいした腕では無いようだが、懸念すべきは、こうまで正確に、隊士の顔を何人も何人も覚えている、ということだ。



 つまりは、そういった特技を持つ者が、彼らの中にいる。

 

 

 

 浪士達の間に、沖田の顔が知れ渡っている事もまた自明。

 沖田と共にいれば冬乃の顔を、明るいうちは遠くからでも確認できてしまう。

 故に沖田は今回、念のため駕籠を呼び、冬乃に頭巾を被せた。

 

 冬乃が町に出る時がある以上は、決して彼女の顔を浪士達に知られるわけにはいかない。

 

 

 

 

 「お呼びたてして、えろうすんまへんなあ」

 甘だるい声で露梅が二人の前に手をつく。

 

 「最近ちいっともお逢いできしまへんどしたやろ・・“御無沙汰”されてこのままお婆ちゃんになってもうたら、どないしよ思うて」

 色街特有の台詞を零して拗ねた顔を上げた露梅に、沖田はつい微笑った。

 

 「ごめん、屯所の引越しやらで忙しくてね」

 

 「で、用件は何」

 沖田の間を空けぬ問いに、露梅は小さく息を吐いた。

 

 「沖田センセと初めて逢うた時の町、覚えてはります?」

 

 「ああ」

 最初に露梅に会ったのは、大阪の新町だった。

 その後、島原へ移籍した露梅に偶然出会ってから、関係が続いた。

 

 

 「センセとは此処で偶然、再逢しましたけど・・ほかにそん時からのお客はんがいてはりましてなあ。このたび、そのお方に身請けしていただく事に決まりましたんどす」

 

 「それはおめでとう」

 「へえ、おおきに」

 沖田の祝いに寂しそうな顔ひとつしない露梅に、何故か驚いた顔をしたのは隣の冬乃のほうだった。

 

 

 沖田は露梅の、己への想いを薄々感じてはいたものの。客と遊女の関係以上を彼女に求めてはおらず。

 

 (すまなかったな)

 いつまでも彼女の身請け先が決まらなければ、己が立つことも考えたかもしれないが、幸いにして彼女は売れっ子だ。いずれ、こういう日が来ることは想定していた。

 

 

 「これで・・お逢いするのは最後になります。これまでほんにお世話になりました。・・冬乃はんにも、」

 はっと目を瞬かせた冬乃に、露梅は綺麗に微笑んだ。

 

 「もう一度、最後にお逢いしとう思うて、御足労いただいてしまいました。堪忍え」

 

 沖田の横で冬乃がふるふると首を振る。

 

 「沖田センセのこと、よろしゅう御頼み申し上げます」

 

 露梅のその台詞に。冬乃がどこか泣きそうな表情になって頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 (お幸せに、と言えなかった・・)

 

 冬乃は頭巾を被りながら、胸奥を締め付ける想いに息を震わせた。

 

 露梅の気持ちが痛いほどわかる。

 好きな男に想いを伝えることも叶わぬまま、別れなくてはならないこと。

 

 攫って。

 どんなにか喉を出掛かっただろう。最後まで綺麗な微笑を張りつけたままだった露梅を、冬乃はきっとこの先も忘れることは無いだろう。

 

 

 

 女将に再び添われて廊下を歩み、階段を降りてゆくと、表口に先程の駕籠かき達が未だ控えていた。

 

 沖田に促されるようにして再び乗り込む。

 

 日没前のぼんやりと明るい曇空の下を、二つの駕籠は走り出した。

 

     

 



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