104.
朝の無駄に爽やかな光のなかで。
(どうしよう)
酷い瞼の重みに。冬乃は再び泣きたくなっていた。
これだけ腫れていれば、泣きながら寝たことなど明らかだ。
あと少しすれば、近藤のところに朝の挨拶に行かなくてはならないというのに。
(とりあえず時間ぎりぎりまで水で冷やすしかない・・)
とはいえ、井戸場でも幹部の誰かしらに遭遇しそうで。冬乃は嘆息しつつ部屋を出た。いつもどおりに風呂の井戸場へ向かっていく。
残念ながら、やはり人は居た。
原田だ。
「お、嬢ちゃんおは・・・・、て・・・ど・・した、それ・・・」
原田の気遣いに溢れんばかりの狼狽えぶりに、冬乃は恐縮するも返事に詰まる。
これが、平成だったら咄嗟に『夜中に感動の超大作映画を観てて』だとか言えるものの。それができない此処で一体、他にどんな理由が出せるのだろうかと。
(あとは忠犬ハチ公なみの切ないハナシ読んでたとか・・江戸時代版で何かないかな)
いやそもそも、未だ字がきちんと読めないのだった。
このところの沖田の特訓のおかげで、以前に比べれば格段に読めるようにはなっているものの。未だ近藤の書状関係の手伝いをすることは敵わずにいるというのに。
駆け巡った思考の果てに、そして冬乃は。
「怖い夢みました」
その浮かんだ最終手段的な理由を、述べていた。
しかし幼稚園児じゃあるまいに。
いや、幼稚園児だって怖い夢みた程度でもう泣かないような。
「・・・・」
原田が、暫しの間をおいて。
噴いた。
「そおか、そおか!怖かったな~!!」
そのままヨシヨシと頭まで撫でられ、冬乃はやはりもう一度泣きたくなって腫れた瞼を閉じる。
「あ、おはよ沖田」
原田のその挨拶に、だがまたすぐに、冬乃は瞼を持ち上げた。
「嬢ちゃん、昨夜、怖い夢みて泣いちゃったんだってよー」
「怖い夢・・?」
明らかに不審げな沖田の声が背後からするも、冬乃は振り向けるはずもなく。
・・・胸が痛い。
顔を見られたくないのと同時に、
顔を、見れない。
「あ、・・忘れ物してました!」
沖田を振り返らぬまま冬乃は、井戸場を逃げ出した。
(いつになったら、もう惑わなくなれるんだろう)
沖田の最期の時まで傍にずっと居られるのなら、もう彼に嫌われていてさえ構わないと、本気で思っているくせに、
一方で、何度も何度も、こうして沖田の言動に一喜一憂を繰り返しているさまに。
(なさけない)
深い溜息をつき。戻ってきてしまった部屋の入口で冬乃は座り込んだ。
(水も持ってこれなかった)
直りそうにないこの瞼については、近藤にもやはり、怖い夢をみた、で通すしかあるまい。
「冬乃さん」
そろそろ沖田が井戸場から去ったであろう時を見計らって立ち上がった冬乃は、
障子越しに聞こえた、その当の沖田の声に、びくりと動きを止めた。
(うそ)
「開けてもらえる」
「・・・」
有無を言わせないその言葉に、冬乃は意を決して顔を伏せたまま障子を開けた。
と同時に、
ぴたりと冬乃の目を、冷たい布の感触が襲って。
急に閉ざされた視界で、冬乃は片手をそっと取られ、顔へと導かれる。
(っ・・)
冬乃の目を覆う布を上から押さえている、沖田の大きな手の甲に、
冬乃の導かれた手は重ねられて。
冬乃の手を導いたほうの沖田の手が、少し強く、冬乃の手の甲を押さえつけて、
冬乃の手の下の沖田の手は、その間にすっと引き抜かれていった。
冬乃の手の下には冷たい布が残って。
同時に冬乃の手の上からも、沖田の温かい手が離れ。
「貴女の朝餉を取ってくるから、」
直に冷たい布の感触を手に冬乃は、沖田の声を聞いた。
「そのまま冷やしているように」
「先生への挨拶も今朝は俺のほうからしとく」
次々と発される言葉に、
冬乃は返事もできないまま茫然と布を押さえて。
まもなく障子が閉められた音がして、冬乃は、へたんとその場に崩れ落ちた。
目を腫らしていることを原田から聞いたのだろう、こうしてわざわざ布を濡らして持ってきてくれただけでも、冬乃の心奥はいま甘い痛みで締め付けられて苦しいのに、
たしか朝餉まで持ってくるとさえ言っていなかったか。
確かにこんなに腫らした状態で、衆目に曝されたくはなかった。
ただでさえ昨日の『めでたい』ことがあって注目されてしまうだろうに、朝になっていきなり泣き腫らした顔でいたら、いくらなんでも変だろう。
好奇の目に耐えるくらいなら、朝餉に行くのをやめようかと。考えていたところだった。
(ひどいです・・沖田様は、)
一瞬にして冬乃を天から突き落としては、こうしてまた地の底からさっと攫いあげてゆく。
もちろん沖田は何も悪くない。
悪いというのなら、勝手に沖田のことを好きで一喜一憂している冬乃が悪いだけで。
彼は、いつだって冬乃をこんなにも面倒をみて優しく護っていてくれるのに。
(沖田様・・)
冷たい布のはずが、冬乃の心をゆっくり温めてゆく。
再び涙が滲みそうになって。冬乃は慌てて布を押さえる力を強めた。
そういえば彼は、冬乃の拙い言い訳を信じたのだろうか。
疑われたとして、本当の理由を気づかれるとも、思えないものの。
彼女が泣いた理由を。
己が直接に癒すすべなど持たないだろう。
昨夜、永倉に答えたあの返事を境に、冬乃の纏う雰囲気が変わった。
無理に笑って、そんな辛そうにされても、何かしてやる事も言葉をかけてやる事も。叶わぬのに。
(泣くなら何故、)
此処に来るのか。散々こちらの心を乱しておき、
何故また、いつのまにか本来の世へと帰っていってしまうのか。
いつかは永久に帰ってしまうと端から諦めながらも、
毎朝彼女の姿を見留めて、どれだけ安堵に息をついているかなど、彼女は想像もしないだろう。
「沖田、冬乃さんどうしたよ?まだ寝てるの」
朝餉の膳を二つ手に、すぐに出て行こうとする沖田に、
にやにやした永倉が坐したまま声を上げる。
「想い通じ合ったばかりで、気持ちは分かるがよ、加減してやれよ?冬乃さんの体がもたねえぜ」
いかにもわざとらしいが、必死に聞き耳をたてる周りの男達がそれに気づく様子もない。
「忠告、有難く聞いておきます」
永倉に合わせ沖田は笑み一つで返答すると、広間を出た。




