83.
明朝、組の中核幹部である山南の脱走の報は、大きな動揺を呼んだ。騒然とする隊士達を鼓舞し、組をあげて探索に乗り出す旨の下達を、土方自らが行い。
ものものしく編隊を組む隊士達の横を、沖田の飛び乗った早馬が西国街道の方角へ駆け出ていった。
西国街道ならば、大津方面とは完全に真逆の道であり。冬乃は、一抹の安堵に小さく息を吐いた。
今日は二十二日。今日と明日が無事に過ぎれば。山南の歴史は変わる。
冬乃は祈りをこめた。
暗澹たる空の下、
隊士達は気の重い探索から、収穫が無いまま皆一様に疲れきった表情で帰屯してきた。
やがて沖田も出て行った時と同様に、独りで、帰屯した。
冬乃はその姿を目に、大きく息をついた。
土方が隊士達に、翌日も隊務と並行して探索を行うと告げて、静かに席を立った。
・・・このまま見つからなくていい。
山南と親しかった者誰もが、心に同じ想いを抱えていながら、口には出来ずに。
その日の夕餉は皆、言葉少なく通夜のようだった。
事実、もう会うことは叶わない山南に心内で訣別して。井上や原田などは涙を抑えることもせず、何度も腕で目をこすっていた。
史実では切腹の日であった翌二十三日も、
葬儀の日であった二十四日も、
静かに過ぎていった。
もう山南に会えないことは辛かったが、冬乃はやっと安心し始めていた――――矢先だった。
冬乃は、門の方角からのどよめきに、手を止めた。
夕餉に向けての仕込みがあと少しで終わるという頃で。
こんな時間はいつも、厨房の外から聞こえる音は決まって、道場からの喧噪だったり、暇そうにしている馬のいななきだったりするもので。
昼間の巡察の隊士が帰ってくるには、まだ早すぎた。
(何・・)
どこか、嫌な予感が奔り。
冬乃は包丁を置き、茂吉に一言断って厨房を出た。
やがて目に入ってきた門口の光景に。そして、冬乃は立ち尽くした。
(どうして)
山南が、ひどく澄んだ笑顔で。そこに居た。
周囲を取り囲む平隊士達が、どう接していいかわからぬ様子で立往生し。
まもなく駆け付けた土方が、一瞬、泣きそうな表情をして、そして山南にすぐに背を向けた。
「副長部屋まで、来てください」
そう言い置いて。
井上が離れの庭の前に立ち、隊士達の人払いをしている中で。
冬乃は井上に会釈して女使用人部屋に入るなり、殆どへたりこむようにして座った。
「あんたは・・如何して帰ってきたりしたんだ!」
すぐに襖越しに聞こえてきた、土方の悲痛な声に続き、
「幹部が組抜けしたままでは、格好がつかないだろう」
山南の困ったような声が聞こえてきて。
「いつまで経っても見つけてくれないから、自分で帰ってきてしまったよ」
(そんな・・・)
「・・・つまりあんたは、はなから何処かへ行く気など無かった、と言うのか」
「すまない。・・この世での最期に、ちょっとばかり初春の風に吹かれてきたくなってね」
「・・・」
(この世での最期・・・)
「気苦労かけて申し訳なかったが、おかげで心残りは無くなったよ」
そんなふうに、まるでふらりと遠出の散歩にでも行って帰ってきた様子の山南に、
「山南さん頼む、今からでももう一度、此処を出てくれ・・!」
まもなく所用から戻って駆け付けた近藤の、縋る声が追った。
山南は首を振ったのだろう。
近藤の声の後、音が一切消え。
冬乃は、愕然と。閉じられた襖を見つめた。
夕餉の席で山南は隊士達の前に立ち、頭を下げた。
「御迷惑おかけして申し訳なかった」
沈黙する広間を、山南の穏やかな声が響く。
「組抜けしたはいいものの、行くあても無く、」
池田屋事変も禁門の戦も経験していない、未だ烏合の衆でもある新入隊士達に、
まるで言い聞かせるように。
「やはり隊規に背いたままでは申し訳がたたぬと思い、戻って参った」
組の規律は、
たとえ中核幹部の己であろうとも背けぬ、絶対の法であると。
(・・山南様)
その命をもってして、組の統制をここに強固に纏めんとせんばかりの静かな気迫さえ、冬乃は感じていた。
その姿は、悲しくなるほど穏やかに、いっそ清らかで。
苦痛に歪む顔を隠しきれず近藤が、黙って下を向いた。
土方は、手に握る湯呑を睨みつけたままで。
山南と親しき者達は皆、声も無く、
「申し訳ない」
もう一度、頭を下げた山南に、己への無力感に。震える唇を噛み締めた。
法は。人が人を律するために作り出した箍。
それがために、
天狗党は刑を受け。
山南は、切腹を受け入れる。
その選択は山南の、ひとつの答えだったのだろう。
明朝に山南の切腹の沙汰が決まっても。
局長部屋に詰めかけた幹部達によって、尚、必死の説得が密かに始まった。
「山南さんの組抜けは、いうなれば気鬱によるもの、決して、組に反してのものではない。そうでしょう・・?」
近藤が真っ先に口火を切った。
「隊規の範疇の外として、隊士達を説得することもできるはずだ。それは特例でも、武士の情けでもない。きっと皆は納得する・・!」
「近藤さん、私は」
山南はあいかわらず、困ったように微笑んでいた。
「私は幕府に心底、失望した身だよ。つまり私の心は、もはや天子様にも背くもの、」
息を呑む近藤を、山南の目がそっと見返した。
「ゆえに、組にも背くものです」
「・・・しかし・・っ・・」
「確かに『攘夷』であれば、現時点では無謀だ。攘夷を擁する気はない・・此れに於いて、天子様の御意に反することを心苦しく思う。だが、」
山南のその声は、静かに皆へと向けられた。
「天子様の、残るもうひとかたの御意を汲むならば、やはりこれからも幕府を佐けてゆくべきだ。だが、私はもう・・・」
穏やかなままの山南の面に、一瞬、苦痛の色が浮かび。それはすぐに立ち消えた。
「勿論、世を乱す長州の謀反の士に与する想いなど毛頭無い。つまりもう、この身は何処へいくあてもないんだ」
山南の澄みわたる眼差しは、その場にいる全ての者の声を奪い。
「もともと私の居場所は此処しかないんだ。ならばこの命、組のために使ってほしい」
疲れたんだ
せめて最期は皆のそばで死にたい
只々穏やかな山南の声が静寂の内に落ちた。




