82.
山南の姿が見えないと。丸一日、食事の席に来なかったことに、いったい何人が気が付いたことか。
元々外回りの隊を持たぬ内勤の山南の不在には、気が付いたところで平の隊士なら、部屋での仕事か何かで居ないだけだろう、で済ませてしまっただろう。
近頃その志を語り合い、山南と懇意になりつつあった伊東は、そうはいかなかった。
その夜、副長部屋へ訪ねてきた彼を迎え入れた土方達は、そこで明かした。
昨夜から帰っていないと。
「・・・どういうことです」
伊東の、震えた声が裏替えるのを、冬乃は襖越しに耳にして。
「おそらく、山南さんは・・組抜けした」
土方の低く抑えた声が続いた。
「ならば何故早く、追いかけてさしあげないのですか」
「追いかけてどうしますか。追うということは隊規に従い、連れ戻さなければならなくなる、そうなれば切腹です」
早口に返された土方の苦痛の声に、
伊東が息を呑んだ様子が、見なくても伝わった。
「・・・山南さんは、今夜もここに居たことにする」
土方が続けた。
「これを聞いた以上、貴方にも内密にしていただく。宜しいですか」
「私からも頼む。伊東さん」
近藤の声が追った。
土方達が、山南をそのまま逃そうとしている。
伊東は、理解し。
おそらくは頷いただろう。
暫し後、静かに障子の閉まる音と、庭先を去ってゆく袴捌きが聞こえた。
「山南さんはどうしたんだ」
捕り物で昨日の昼から夜半まで出払っていた原田が沖田の隣へ来て尋ねたのは、その翌朝だった。
「昨日の朝もそういや見てないが。また具合悪くて寝てるのか」
沖田がそうだと頷いた。
「そっか。後で見舞いにいくわ」
原田が呟いて。
「・・そうしてもらえますか」
沖田のその返しに、原田が一瞬何かを感じ取ったように動きを止めた。
食後に副長部屋で、待っていた沖田から、本当は山南がもう二夜帰っていないと聞いたのだろう、黙って去ってゆく原田と、
冬乃は使用人部屋へ前掛けを取り換えに来た時にすれ違った。
(今日は二十日・・)
おもわず振り返って、原田の哀しげな背を見やり、冬乃は胸内に数えた。
(沖田様達は、きっと今のうちに、山南様が出来るだけ遠くへ逃げてくれているように願っている・・それなのに)
永倉の遺した記録が正しければ、二十三日に山南が屯所で切腹するその日までに、追手となる沖田が馬を飛ばして街道を行き、そしてその時、山南は未だ大津に居た。
京都から、ほんの目と鼻の先の。
冬乃にできることは、ただひとつ。
沖田が追手として出る日、
つまり山南の不在をさすがにそれ以上隠し通すわけにいかなくなり、山南を脱走者として追跡することとなるその日、
せめて沖田と山南が、出会うことのないように。
今尚、彼が留まっている場所を、沖田達に伝えること。
誠実を絵にかいたような山南が、組の追跡に出会ってしまえば、抵抗もなく付き従って戻ってこようとするだろう、
沖田が、形ばかりの追跡に一人来たと、山南には痛いほど判っても。
まさか、未だ大津に居るとは思ってもなかった沖田が、
会わなかったことにするから逃げてくれと訴えるを前に、
むしろ山南のほうが、沖田を屯所へ連れ帰るだろうことも、目に見えて。
(だから・・)
冬乃は、拳を握り締めた。
二人が、大津で出会いさえしなければ。
或いは未だ、可能性は残っていると。
不安はあった。
もっと遠くへ行こうと思えば、行けるところを、山南が近場の大津に留まっていた、そのわけが、
もし元からどこかへ去るつもりで組を抜けたのでは無かったからならば。
(・・だとしたら)
冬乃のなけなしの回避も、結局は意味がなくなるだろう。
冬乃は澱んだ空を仰いだ。
山南は今、この空の下で何を想っているのか。
(まだ、考えるのはよそう・・・)
今は、沖田達の想いが、山南に伝わることを祈るしかない。
「近藤さん、」
土方の声が襖越しに聞こえて、冬乃は顔を上げた。
行灯の造る橙が見上げた先の襖を煌々と照らしている。
「もう四日だ。さすがに、これ以上は、伏せていた事がもしも発覚した時には、言い訳がたたない」
山南の事だと、冬乃は息を呑んだ。
「ああ・・・そうだな。・・ “今朝になったら居なくなっていた” と、明朝に皆には伝えよう」
近藤の囁くような声が続いた。
「皆の前では、特別扱いするわけにはいかない。明日は、組をあげて “京” を探索させる」
「異論はない」
土方の案に、近藤の辛そうな声が返り。
「そして “夜半から朝方までのほんの数刻でも万が一、すでに遠くまで行っていることを想定した追手として” 総司、おまえが行け」
冬乃は立ち上がった。
「お話し中、申し訳ありません」
襖まで行き、声を掛けた。
「差し出がましいことを承知で、お伝えさせてください」
一寸のち、沖田によって襖が開かれ。冬乃は沖田を見上げ、そして向こうに座す近藤と土方にも目礼した。
「何だ。言え」
土方の目が細められた。
冬乃は、一呼吸整えて。
「未だ山南様は大津におられる可能性が高いです」
「何だって・・?」
近藤の驚愕した顔が、冬乃を見つめた。
「・・・本当なのか、それは」
土方の切れるような眼が、冬乃を捕らえて。
「可能性は高いとしか」
冬乃は土方をまっすぐ見返した。
「・・・」
土方が沖田を見やった。
沖田が黙って頷き。
「有難う、冬乃さん」
沖田の静かな声に、冬乃は小さく会釈をし。
そのまま頭を下げ、冬乃は部屋へ戻った。
これで、
沖田は明日、大津は通らず、他の道を行ってくれるだろう。
(山南様・・)
どうか、生きて。
頬を伝った涙を、冬乃は手の甲に払った。




