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64.

 

 「居た」

 

 朝餉のしたくを終えたころに、久しぶりな顔が厨房を覗いた。

 蟻通だ。

 

 池田屋事変以降、組が残党狩りの多忙に追われていた中、おもえば蟻通とも話をした記憶がない。

 

 

 「昨日のうちに声かけれなかったけど。おかえり冬乃さん」

 今度も実家だったの?

 未来に帰っているとはあいかわらず信じそうにない蟻通の問いに、冬乃はとりあえず頷く。

 

 「そんなに何度も帰るなんて、ご家族に・・その、御加減のよろしくない方がいるのですか?」

 「いえ、そういうわけではないんです。ただ色々あって」

 無駄に心配かけておくわけにもいかないので、冬乃は適当に濁した。

 「そう・・」

 少しほっとしたような解せないような表情で、蟻通が呟く。

 

 「あ、手伝うよ。冬乃さんのぶんはどれ?」

 まわりで膳を運び出しはじめる使用人たちを見た蟻通の申し出に、冬乃は首を振ってみせる。

 「それには及びません、どうぞお先に席でお待ちください」

 「・・・」

 蟻通は暫し後、頷いて、背を向けて広間へ去っていった。

 

 (ごめんなさい)

 蟻通の冬乃への好意に。冬乃は応えられるはずもなく。

 

 「冬乃はん、それ頼むわ」

 出ていきがてらの茂吉の指示に、そして冬乃は台上の膳を持ち上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 「よろしくお願いします」

 

 まだ夕の色もない空の下を通り、しんと静まっていた厨房に茂吉と集合した冬乃は、ぺこりと彼へ頭を下げた。

 

 普段、巡察などで不定期な時間に食べる隊士達の賄いは、もっぱら茂吉が、食材管理を兼ねてひとりで執り行っているので、

 今夜の潜入捜査に備えて沖田が早めの夕餉をとるための準備に、茂吉を手伝うことになった冬乃が、こんな通常の時間外に厨房で仕事をするのは当然初めてであった。

 

 

 「なんや、ようわからんけど、組の仕事の手伝いに一緒に出はるなんて、冬乃はんも大した肝っ玉してはるな」

 

 どうやら本気で感心しているようで、そんな台詞で茂吉が称えてくる。

 もっとも具体的に冬乃たちが何をするかは聞いていない茂吉だ。まさか沖田とこれから旅籠の一つ部屋で寝泊まりするだなんて、さすがに想像もしていまい。

 

 

 今夜の手はずでは、まず旅籠の夕餉の時間帯に、沖田が旅籠の使用人たちの往来に交じり、夕餉の提供で襖が開閉されるのを利用し、廊下を通りかかるふりをして各部屋をそれとなく確認するという。

 

 不逞浪士の集いが、偶然にも今夜あるかどうかは天まかせだが、

 元々長州贔屓で、警戒の強い旅籠への客の出入りを、外からしか確認できていない現状において、内部へ侵入しての客層の正確な確認は、最早どちらにせよ必須であった。

 

 昨今旅籠への出入りが見られる土佐系の不逞浪士達と、先の禁門の変で今や京から離散している長州志士達との連絡に、この旅籠が一枚噛んでいると、監察方は睨んでいる。

 よって、各部屋の確認により、もし幸いにも今夜、不逞浪士とおぼしき者がたとえ一人二人であっても居たならば、

 その部屋を張り、そこへ出入りするであろう旅籠の人間を確認して、場合によっては踏み込んで捕縛することもあり得る。


 

 そして。今夜のうちに収穫が無ければ翌日も捜査を続けるため、もとより数泊分とる予定であるという。

 もっとも、一度部屋をとってしまえば、部屋へ出入りする人間はなにも沖田と冬乃だけでなくとも、たとえば沖田の従者に変装した監察の人間でも構わない。

 

 沖田と冬乃がお忍びの恋仲であると、旅籠側に思わせて警戒をさせずに部屋をとるまでが、冬乃にとっては最大の任務だ。


 

 

 「気いつけなはれ」

 用意のできた沖田への膳を手に、厨房を出てゆく冬乃へ、そして茂吉はそんなふうに声をかけてきて。

 委細を全く知らなくても、何かしら感じるものがあるのだろう。冬乃は「はい」と笑顔を作ってみせて礼を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 沖田が副長部屋で食事をする間、冬乃は使用人部屋へ戻り、行李を開けて。見るからに上質な生地の、青藤色の袷をそっと手に取る。

 

 もちろん着付けなら、もう問題ない。

 冬乃は、ひとつ大きく、深呼吸した。

 

 

 戦闘開始。

 

 


 

 冬乃と沖田が、呼びつけておいた籠で連なってその旅籠へ乗り付けたのは、町の其処此処が火ともし頃を迎えた刻で。

 

 すでに近くで待機していた、沖田の従者としてのなりに扮した山崎が近寄ってきて、恭しく二人を出迎えた。

 

 頭巾に顔を隠し、籠から降りる沖田は、その立派な体躯に絹地の着流しと黒紋付を羽織り、

 目元には若さを見せながらも、立ち姿はまるで大身の旗本のような威厳で、

 その後ろへ続いた冬乃もまた、お高祖頭巾で顔を隠しつつ、麗しい着物を纏って気品を醸し、

 往来に居合わせた誰もが、それなりの身分な若い二人が御忍びで来たのだろうと勘繰ったのも当然だった。

 

 番頭からの連絡を受けた旅籠の主人が飛んできて、腰を折り曲げて二人を迎えて。

 まさか壬生の狼、新選組であるなどと、思いもしないようだった。

 明日お召しものをお届けに伺います、と沖田たちへ敬礼してみせた山崎を背に、主人自らに案内されて二階奥の部屋へと向かい、

 

 第一関門をこうして難なく突破した二人は、部屋へ入って襖を閉めると、

 頭巾を外しながら、どちらからともなく笑い出した。

 


 「成功、だね」

 片目を瞑ってみせる沖田に、

 「ハイ」

 (か・・かっこよすぎ・・)

 改めて間近で見た彼の、

 上質な着物を纏って倍増している、その威風に満ちた立ち姿に眩暈がしながら、冬乃はなんとか頷いてみせ。

 

 今更ながら、これから夜をふたりきりで過ごすのだと思えば、噴き出す熱に頬が蒸気して。冬乃は慌てて俯いた。

 

 そんなことは意に介さないのか、沖田がのんびり格子窓へと移動し、窓の外、町人に扮した監察達の位置を確認する。

 

 冬乃のほうは所在なさに部屋を見回し、隅に積まれた座布団を見とめて、取りに向かった。

 

 

 「お茶をお持ちいたしました」

 その時、襖の向こうから声がして。

 「どうぞ」

 沖田が答え。

 冬乃は頭巾をもう一度しなくて大丈夫かと沖田を見たが、心配なかったようで、襖を開けた店の者はひれ伏したままで冬乃たちを見ることはなく、盆を畳のほうへ置くと、またすぐ襖を閉じた。

 

 

 (そうだ、ここは身分にうるさい江戸時代だった・・)

 沖田達が今、土方の用意したそれなりの“やんごとない”身分でいる以上、店の者が顔を見ることも目を合わせることも、ありえないのだ。

 

 (部屋にいる間は心配ないってことだよね)

 ねんのため、すれ違う人たちに顔を覚えられないように、厠に行く時だけ頭巾を付ければいい。

 沖田も同様に、この後、店の者の往来に交じって廊下をゆく時に、また付けて出るだけで、部屋に戻ってくれば外していられるのだと。

 (お風呂は・・そういえば)

 夜遅くの、人の居なくなった頃合でないとだめだろうか。

 (湯気の中だし、大丈夫か。女性しかいないし)

 

 銭湯とちがって、この格式の旅籠の風呂場ならさすがに男女きっちり分かれているはずだ。浪士がいたとしても鉢会う心配は無いだろう。

 

 (・・あれ、でも坂本龍馬の恋人のお龍さんみたいに、愛する男の人のために協力している女性が、たとえば今夜ここに泊まっていて、もし私の顔を覚えて、後に何かそれで不都合があっては・・)

 だいたい冬乃自身が、まさにそうではないか。

 

 (やっぱりお風呂も夜遅くに行こう・・)

 

 

 

 

 またも無言になって眉を寄せて何やら考え込んでいる冬乃を見て、沖田はいつかのように込みあげた笑みで噴きそうになるのを抑えた。

 

 (そういや、あれから腹が減る云々の答えは出たんだろうか)

 思い出したものの、何度もからかうのも悪いかと、出掛かった質問のほうも押し込め、

 

 沖田は冬乃がぼんやりしつつも敷いてくれていた座布団に胡坐をかくと、すでに正座して畳の一点を見つめている冬乃の、悩ましげな顔を眺めた。

 

 

 あいかわらず、まったくこちらの視線に気づいていないようだ。

 

 冬乃のこんな顔は見慣れたものだが、彼女が大笑いしたところなど、過去に見たことがあっただろうか。

 

 (・・・)

 

 そう思ってしまえば一度おもいっきり笑わせたくなってきて、沖田は、さあどうしてみようかと考え出した。

 

 「冬乃さん?」

 

 まずは声をかけてみたところ、冬乃がはっとすぐに顔を上げてきて。

 

 (・・こういう顔も、いいんだけどね)

 

 考え事から我に返るときの、彼女のびっくりしたようなこの表情は、正直いって可愛い。

 

 (でも、まあ)

 笑わせてみれば恐らく、もっと。

 

 

 「未来にも落語はあるの」

 「え?」

 沖田の問いが唐突すぎたのか、さらに驚いたように目を瞬かせてから、はい、と答えた冬乃に、

 「江戸に居た頃に聞いたやつで、こんなのがある。多少こまかいところは記憶違いしてるかもしれないが」

 てっとり早く落噺を披露することにした沖田は、きょとんと見返してくる冬乃へ、体を真っすぐに向けて座り直す。

 

 「昔々。遊んでばかりいた道楽者の男が、ついに物事に飽きて寺の和尚になってみた」

 

 冬乃は、いったい何が始まるのだと、なおもきょとんとした様子で沖田に耳を傾けてくる。

 

 「が、道楽の癖が抜けず、修行をするわけでもない。結局ひどい体たらくで過ごしていたところに、ある時、誉れ高き禅僧から、禅問答が申し込まれた。驚いたその道楽男は、」

 

 冬乃が聞いているのを確認しながら、沖田は続ける。

 

 「きっとその禅僧が、どうせ問答に答えられない自分のようなにせものの僧を、寺から叩き出してまわっているに違いない・・と恐れ慄いた」

 冬乃が頷く。

 「で、どうしようかと道楽男がすっかり慌てているところへ、道楽男の悪友の、こんにゃく屋がやってきた」

 

 「こんにゃく屋が言うには、俺が和尚のふりをして、その禅僧の相手してやる、と。禅僧が問答をしかけてきても、俺はひたすら黙っているので、おまえは禅僧へ『この和尚は耳が聞こえず口もきけない』と伝えろ、そうすれば禅僧は諦めて出ていくだろう、と」

 

 なるほど。と思ったのか、冬乃が目を見開く。

 

 「それでも禅僧が諦めず承知しやがらなかったら、ぶち殺してやる。と」

 冬乃が少し眉間にしわを寄せる。ひどいこんにゃく屋だと思ったのだろう。

 

 「で、翌日になり、その禅僧はやってきた。禅僧は、和尚に扮したこんにゃく屋へ、さっそく問答をしかけてくるが、こんにゃく屋は勿論黙ったまま。道楽男が、そろそろ昨日打ち合わせたとおりに伝えようとした時、禅僧は突然、こんにゃく屋へ、指で丸を作ってみせた」

 

 え?という表情になって冬乃が小首を傾げて。

 沖田は微笑むと先を続けた。

 「禅僧からすると、和尚が話を禁ずる無言の修行でもしているのだろう、と思ったわけ。だから禅僧は、しからば自分も、と始めた」

 冬乃は再び納得したように頷いた。

 

 「そうして禅僧が指で作った丸を、こんにゃく屋のほうは見るなりすかさず両腕で大きな丸を作って返したので、禅僧は驚いて、次に十本の指を突き出した。こんにゃく屋は片手で五本の指を突き返す。たじろいだ禅僧が、片手で三本の指を立てて親指と小指で輪を作ってみせると、こんにゃく屋はいきなり目の下に指をやり、あっかんべを返したので、驚いた禅僧が、参った!と叫んで飛び出していってしまった」

 

 再び冬乃がきょとんとしているので沖田は微笑った。

 「いったい何事かと思うよね。道楽男も、あわてて禅僧を追いかけて聞いてみると、禅僧が言うには、自分は最初に小さな丸で『和尚のご胸中は?』と尋ねたところ、和尚が腕いっぱいに『大海のごとし』と返答なさったので、驚いて、次に指を十本出して『十方世界に対しては?』と尋ねたら、指五本で『五戒で保つ』と返された、と・・」

 

 言っているうちに冬乃が激しく目を瞬き出したので、沖田はいったん解説することにする。

 「十方世界とは、十の方向にそれぞれあるとされる世界を意味し、ようするに、この俺達の居る全ての世界、という意味」

 ちなみに、この十の世界それぞれに極楽浄土があって、そっちは仏様の住んでる世界

 「で、」

 冬乃がついてきたのを確認し、沖田は続けた。

 

 「その、俺達の居る十方世界に対してはどのような生き様であるか、という禅僧の問いに、和尚が五本の指を出してきたので、五戒つまり、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つの戒を守って生きているという回答をしてきたのだと、禅僧は思ったわけね」

 

 しかしこれまで話に出したありふれた仏教用語を、まるで初めて聞いた様子で目を見開いている冬乃を見ながら、

 未来の人は、あまり仏教と馴染みがないのだなと、沖田は不思議に思いながら、話を続ける。

 

 「そして道楽男がさらに聞いていると、禅僧が指を三本立てて輪を作って聞いた時の問いは『阿弥陀三尊は?』であったのだと言う。・・阿弥陀三尊はそれぞれ、悟り、慈悲、智慧を表すから、仏教のめざすものそのものだね。ようするに禅僧の質問は『仏の道とは?』」

 

 「それに対し、和尚の回答が、あっかんべ、つまり目の下、いってみれば足元だと言うもんだから、“仏道ならばすぐ貴方の足下にあるのですよ”と答えられたと思った禅僧は、目の前の和尚がよほど修行を積んだ人だと驚いて降参したのだと」

 だいぶ納得したのか、冬乃が目を輝かせ始めた。

 

 「だが、道楽男が戻ってこんにゃく屋に話を聞いてみると、開口一番、俺のことを禅僧はこんにゃく屋だと分かっていたらしい、と言い出した。こんにゃく屋が言うには、禅僧が『おまえの店のこんにゃくは、こんなに小さい』と馬鹿にしてきたから、大きく腕を広げて『こんなにデカいんだよ』と返してやったら、次に禅僧が『十丁でいくらだ』と聞いてきたので『五百だ』と答えたら、『三百にまけろ』ときたので、あっかんべー・・」

 

 最後まで言い終わる前に、冬乃が噴き出した。

 そのまま顔に手を当てて可憐に笑い出したので、沖田はどうやら成功したらしいと、彼女の想像以上に愛らしい芙蓉のほころびをつい見つめていたが、

 

 まもなく廊下の遠く向こうから、旅籠の使用人たちが夕餉の配膳に動き始めた気配を感じ、沖田は残念ながらもう仕事に行く時間かと立ち上がった。

 

 

 立ち上がる沖田を、冬乃がまだ残る笑顔のままに見上げてくる。

 

 「行ってくるから、貴女はゆっくりしてて」

 俺のぶんも食べていいよ

 言い添えると、冬乃は、まさかと首を振ってきた。

 

 「だが、もう俺は済ませてるし、戻ってきた頃には冷めてるだろうし」

 「・・・」

 冬乃が困ったような顔になった。

 

 「貴女のほうで食べられるものは食べておいてくれたほうが、俺としても有難いかな」

 そう言い回しを変えてみると、冬乃は、わかりました、と呟いて。

 そして、

 「お気をつけていってらっしゃいませ」

 とその細い指を畳について、頭を下げてきた。

 

 妙に、くすぐったくなり。

 沖田は頭巾をつけながら「有難う」と返し、早々と部屋を出た。

              

 


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