61.
安藤の墓に手を合わせて戻ってきてから、厨房で片付けの続きをしている冬乃に、
ひどく放心して見えていたのか、お孝が流れ作業のなか無言で皿を渡してきつつも、心配そうな顔を見せてきた。
冬乃はそれに気づいて、皿を受け取りながら、微笑みを作って返してみせる。
大丈夫だと。
そう、この不安も。
杞憂なだけ。
いま安藤を亡くした辛さで悼む心が、造り出している杞憂。
冬乃は必死に自身へ言い聞かせる。
もしかしたら命の期限は変えられない、
一瞬でもそんな疑念が奔ってしまったせいで、囚われているだけだと。
沖田の命も、救えないのではないかと、
そんな不安に。
安藤を救えなかった痛恨は、冬乃の心に鉛のように落ちて、この不安を奥底まで引きずり込んでいるかのようだった。
「・・・冬乃さん、よね?」
門の裏で、箒を手にぼんやりしてしまっていた冬乃を背後から呼んだのは、忘れもしない千代の可愛らしい声だった。
振り返った冬乃に、「あ、やっぱり」と千代が微笑む。
現れた彼女に声なく目を瞬いた冬乃に、
「ご無沙汰してます」
千代がお辞儀をした。
「こちらこそ」
冬乃は慌てて返す。
「まつりごとの話はわかりませんけど、長州様の件があって皆さま御多忙でらしたことはさすがに存じておりましたので、ずっと訪問させていただくのは控えてましたの」
そういうと千代は小首を傾げて。
「九月に入りましたし、さすがにもう宜しいかと思って」
冬乃はあいまいに頷くしかない。
「これ、おすそわけです。江戸の知人から届きましたの、いろんな味噌漬け。江戸の人にはやっぱり江戸の味がいいですものね」
ふふ、と笑う千代に、冬乃は、
「あ、と・・沖田様へ、ですよね」
聞きながら、
(馬鹿か私は)
嘆息しつつ。
(聞かなくても分かりきったことじゃない)
「そんな」
だが、千代は驚いたように頬を染めた。
「お二人へですわ。冬乃さんと沖田様で召し上がってください」
「・・すみません。有難うございます」
ばつのわるさに、冬乃も紅くなって受け取った。
「でもたしかに・・沖田様はいらっしゃる?せっかくだからご挨拶していきたいわ」
澄んだ双眸にまっすぐに見つめられて冬乃は目を逸らした。
「沖田様は今、巡察に出ています・・」
「まあ残念。それでしたら宜しくお伝えください」
千代の和やかな声が返った。
(・・嘘ついちゃった・・・)
沖田なら本当は今、道場だ。
(何してるの私は)
「冬乃さんがお仕事お休みの日はいつ?ほんとに甘味屋さん、行きましょう?」
疑いもしない千代が、にこにこと冬乃を誘って。
罪悪感に圧されながら冬乃は、「まだ予定がわかりません」と囁くように答えた。
「わかったらお伝えしに伺いますので・・」
「まあ楽しみ。お待ちしてます」
千代の明るい声は、ことさら冬乃を縮こまらせた。
踵を返して帰ってゆく彼女の背を、しばらくぼんやり見ていた冬乃は、やがて、はっと我に返った。
(今、お願いだけでもしてみれば)
「お千代さん!」
冬乃の追ってくる声に驚いたように振り返った千代へ、
「聞いてほしい事があるんです、」
追いついた冬乃は、ひとつ大きく息を吸うと。
「私の知人で労咳で亡くなった人がいました」
咄嗟の作り話を、練り出した。
「貴女と同じ、看護のお仕事をしていた人でした。末期の労咳の患者さんもいて、時おり看ていました」
突然なにを言い出すのだろうと困惑したような表情で、千代がそんな冬乃を見上げる。
「貴女と同じことを言ってました。私はうつらない体質だからって。でもうつってしまって、そして亡くなりました」
「・・・」
「ですから、お千代さんもどうか、油断なさらないでください。・・本音は、冷たいことを言うようですが、お千代さんには、労咳の患者さんを看てほしくありません。でもそういうわけにはいかないのでしょうから、せめて、看病なさるときは、鼻と口元を必ず覆って、風通しの良い、お日様の光がたくさん入るところで看てください。そして絶対に長居しないでください」
冬乃の鬼気迫るほどの訴えに、千代はたじろいだ様子で、小さく頷いた。
そして、思い出したように彼女は「ありがとう」と呟くと、未だ面食らった表情のまま去っていった。
確かに千代からしたら、会って二度目の冬乃に、心底心配されるのも妙であるし、おせっかいだとすれば度が過ぎるだろう。
(驚かせてごめんなさい)
だが今、冬乃に確実にできることは、千代に油断しないよう願うことくらいしかない。
(でも、どうあがいても発病の可能性は残る・・・)
さらには発病した後の投薬治療が成功するかどうかも不確実ななかで。
そんな千代側の、確実でない可能性のほうに賭ける勇気など。冬乃には到底、もてそうにない。
やはり確実なのは、どうしたって、
沖田と千代が恋仲になるのを初めから防ぐこと、それ以外に無いのだろう。
冬乃は溜息をついて、門へと引き返した。
迷いは、また最初へ戻ってしまっただけだった。
沖田から運命の相手を奪う事が、本当に彼にとって、幸せなのかと。
もとより、どうすれば“奪える”のか、わかりもしないままに。




